それでも私は、書類の山をくださるなら喜んで結婚いたします
ある日の午後、私は監理局三階の会議室で、新年度案件の箱を前にして固まっていた。
「……多い」
思わず本音が漏れる。
木箱が四つ。うち二つは新規契約、ひとつは王都との共同研究案件、ひとつは兵站局から回ってきた改善提案。
つまり、全部重要だ。
「局長」
ハンナが腕を組む。
「顔が輝いてます」
「気のせいです」
「目が完全に仕事の目ですね」
ミラまで頷く。
「奥様、幸せそうです」
「否定はしないわ」
だって仕方ない。
未処理の案件が山積みで、そのひとつひとつに人の生活がつながっていて、それを整える仕組みも仲間も今はちゃんとある。
前世の私が欲しくてたまらなかったものが、ここにはだいたい揃っているのだ。
ただし、一つだけ昔と違う点がある。
「セラフィーナ」
会議室の扉が開き、ルシアンが入ってきた。
手には案の定、茶と軽食。
「山が増えたな」
「見ての通りです」
「終業は?」
「もちろん定時です」
「よろしい」
「その前に確認ですが、公爵様。この王都共同研究案件、セシリア嬢側の契約条項が少し甘いです」
「どこだ」
「成果物の公開範囲。奇跡扱いを避けるためにも、再現可能性の確認条項を入れたい」
「承認」
「ありがとうございます」
「ただし」
「ただし?」
「夕食前には終わらせろ」
「努力します」
「却下」
「……はい」
周囲の職員たちが、もはや慣れた顔で仕事を続ける。
局内では「局長と旦那様の却下合戦」と呼ばれているらしい。不本意である。
私は箱の蓋を開け、一番上の契約書を取り出した。
新しい紙の匂い。まだ何も決まっていない余白。
そこへ線を引き、言葉を置き、責任と権利の場所を定めていく作業が、私はやっぱり好きだ。
「ねえ、ルシアン」
「何だ」
「たぶん私、一生これが好きだと思うんです」
「知っている」
「呆れません?」
「今さらか」
「それもそうですね」
私は笑いながらペンを走らせた。
外では、北の短い春が少しずつ夏へ向かっている。
王都から届く案件も、村から上がってくる相談も、兵站の改善案も尽きることはないだろう。
でも怖くない。
一人で抱える必要がないと知っているから。
「局長」
ネラが新しい束を抱えて駆け込んでくる。
「南村から契約相談です!」
「そこへ置いて」
「あと、公開閲覧室で子ども向け読み書き講座の申込が増えました!」
「名簿作っておいて」
「はい!」
ヨナスは相変わらず棚番号にこだわり、ハンナは現場から戻るたび泥だらけの靴で数字を叩きつけ、ミラは私の体調を見張りながらも誰より頼りになる。
そしてルシアンは、忙しいと言いながらだいたい一日に一度は顔を出して茶を置いていく。
白い結婚から始まった話だった。
愛することはないと言われ、私はその条件を悪くないと思った。
たぶんあのときの私は、間違ってはいなかったと思う。
境界が明確で、権限と責任がはっきりした関係は、やっぱり大事だ。
でも今なら、もう一つ付け加えられる。
境界が明確なことと、心を閉ざすことは違う。
責任を分け合うことと、相手を遠ざけることも違う。
そして、書類の山を愛することと、誰かを愛することは、ちゃんと両立する。
「局長」
今度はミラが顔を出した。
「終業まであと一時間です」
「はいはい」
「今日こそ残業禁止ですからね」
「努力します」
「却下です」
完全に真似されている。
私が肩をすくめると、ルシアンが小さく笑った。
「諦めろ」
「味方になる気は?」
「ない」
「ひどい」
「君がちゃんと帰るなら、あとで甘やかす」
「……それはずるいです」
「知っている」
私はしばらく考えるふりをしてから、手元の紙束を整えた。
「では、定時までに終わらせます」
「よろしい」
「その代わり、夕食後に今日の面白い案件の話を聞いてください」
「喜んで」
「本当に?」
「君が嬉しそうに話すなら、何でも聞く」
「それ、かなり甘いですね」
「君もだろう」
たぶん、その通りだ。
私は新しい契約書の余白へ、最初の線を引いた。
まっすぐで、迷いのない線だ。
それでも私は、書類の山をくださるなら喜んで結婚いたします。
ただし今は、ちゃんと定時で帰れる相手と一緒に。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。
この物語を気に入っていただけましたら、評価や応援をいただけると、とても励みになります。




