ルシアン視点 書類の山から始まった
セラフィーナと初めてまともに話した夜のことを、今でもよく覚えている。
新婚初夜だというのに、私が口にしたのは「愛することはない」の一言だった。
最低だと自分でも思う。
だが当時の私は、それ以外の言い方を知らなかった。
婚姻は王家と公爵家の都合で決まり、相手は元第二王子の婚約者。
王都の社交と打算に疲れきっていた私は、誰かに期待されること自体が煩わしかった。
なら最初から線を引くべきだ、とそう考えたのだ。
ところが彼女は泣かなかった。
それどころか、私の提示した条件を「良い職場です」と評した。
正直、意味が分からなかった。
さらに意味が分からなかったのは、その直後に彼女の目が床の書類箱へ吸い寄せられたことだ。
あのときの目を、私は一生忘れないだろう。
宝石でも恋文でもなく、積み上がった未処理帳簿を前にした令嬢の目が、あれほど輝くものだとは思わなかった。
変な女だ、と思った。
だが同時に、その変さに救われてもいた。
私の周囲にいた人間は、私へ二種類の視線しか向けなかった。
恐れるか、利用しようとするか。
セラフィーナは違った。
彼女は私ではなく、まず仕事を見る。
それが妙に新鮮だった。
書庫で初めて眠れた夜も覚えている。
頭の中で絶えず鳴っていた紙の裂ける音が、彼女のいる場所では遠のいた。
目を閉じる前に見えたのは、ランプの下で黙々と書類を整理する横顔。
あんなにも安心して意識を手放したのは、いつ以来だったか。
後から思えば、あの時点ですでにかなり手遅れだったのだろう。
彼女は平然と私の隈を指摘し、責任者が倒れる職場は最悪だと言い切った。
家令の不正を一晩で洗い出し、北方へ行くと言い出し、危険だからと止めれば書類を武器に理詰めで押し返す。
普通なら腹が立つ場面も多かったはずだ。
だが不思議と、怒るより先に「その通りだ」と思わされることが多かった。
たぶん私は、彼女の容赦のなさに甘えていたのだと思う。
誰も言わなかったことを、彼女だけは言ったから。
王都で第二王子と会ったあとのことも忘れられない。
私は自分でも驚くほど苛立っていた。
彼の言い方が気に入らなかったのはもちろんだが、それ以上に、セラフィーナが過去にああいう扱いを受けてきたと知ったことが腹立たしかった。
役に立つなら必要、役に立たなければ不要。
私はそういう言葉を嫌っていたはずなのに、彼女に対しては似たようなことをしていなかったかと考えて、ひどく気分が悪くなった。
だから少しずつ、言葉を変えようとした。
有能だと認めること。
助かっていると伝えること。
君を失うのは愚かだと、そう言ったときの彼女の顔は今でも鮮明だ。
困ったようにして、でも少しだけ嬉しそうで、こちらまでどうしていいか分からなくなった。
誓約竜の書庫で修正条項を見たとき、私はすぐに無理だと思った。
真実の誓い。
選択の誓い。
そんなものを、私が彼女へ求める資格があるのかと。
彼女は自由であるべきだと思った。
私のような重い盟約と北方の責を背負わせるべきではないと。
そのせいで結局、最後の最後まで一人で背負おうとした。
本当に愚かだった。
祭壇で彼女が「あなたを失う契約など、私が破ります」と叫んだ瞬間、私は初めて理解した。
守ることと、独りで抱えることは違う。
相手を思うことと、相手を遠ざけることも違う。
君を選ぶ。
あの時ようやく、私はそれを口にできた。
愛していると告げた日のことは――まあ、緊張した。
戦場よりはましだと思いたいが、たぶん同じくらい緊張していた。
契約書を三通も用意したのは完全に言い訳である。何か形のあるものがないと落ち着かなかっただけだ。
だが彼女は笑いながら署名し、最後に妙な追加条項まで書き足した。
あの瞬間、ああ本当にこの人と結婚し直すのだと実感した。
いま、監理局の前を通ると、窓際の机でセラフィーナが何かに眉をひそめているのが見える。
その顔を見るたび、最初の夜を思い出す。
未処理書類の山を前にした、あの妙に嬉しそうな顔を。
正直に言えば、いまでも時々不安になる。
彼女が独立したいと言ったことを忘れたわけではないし、北方監理局がうまく回るほど、公爵家という枠に縛られない働き方もできるようになる。
でも最近は、以前ほど怖くない。
彼女が選ぶと言ったからだ。
誰かに決められるのではなく、自分で。
なら、私は選ばれ続けるに足る男でいようと思う。
少なくとも、彼女がもう一度書類の山を見て目を輝かせたとき、隣で一緒に頭を抱えられる程度には。
「旦那様」
そのとき、背後からミラの声がした。
「局長がまた昼食を忘れかけています」
「分かった」
「あと、今日は残業させないでくださいね」
「善処する」
「却下です」
この辺りも、最初の夜には想像もしなかった未来だ。
だが悪くない。
むしろ、かなり良い。
書類の山から始まったのだとしても。




