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定時退勤は、愛の形

 その日、私は人生で初めて、執務室の壁時計が十七時を指した瞬間に仕事の手を止めた。


 止めさせられた、が正しいかもしれない。

 なぜなら目の前には腕を組んだルシアンが立ち、背後ではミラとハンナが完全に包囲網を敷いていたからだ。


「局長」

 ハンナが低く言う。

「本日の残務は明朝で問題ありません」

「でも、この比較表だけ」

「明朝」

「……はい」

「局長」

 今度はミラ。

「結婚してからもなお、仕事を恋人にするおつもりですか」

「恋人ではありません。伴侶です」

「そこじゃないです!」


 助けを求めるようにルシアンを見ると、彼は涼しい顔で告げた。

「生活協定第三条」

「重大案件を除き就業終了後の追加決裁は翌朝へ回す」

「その通りだ」

「今日はその重大案件かもしれません」

「違う」

「どうして断言できるんですか」

「比較表の提出期限は三日後だ」

「……見てましたね」

「もちろんだ」


 くっ、監理されている。


 私は渋々ペンを置き、机上を整える。

 するとルシアンが当然のように外套を手に取ってこちらへ差し出した。


「帰るぞ」

「どこへ」

「家だ」

「ここもかなり家に近いですが」

「屁理屈だな」

「事実です」


 そう言いながらも、私は結局外套を羽織った。

 退勤後の廊下は昼間の喧騒が嘘みたいに静かで、窓から見える北の夕空は淡い金色に染まっている。

 こうして仕事を切り上げて外へ出るなんて、前世の私からすれば奇跡だ。


「定時退勤にまだ慣れません」

 ぽつりと言うと、隣を歩くルシアンが少しだけ笑った。

「君は仕事を終える判断が遅い」

「途中でやめるのが苦手なんです」

「知っている」

「公爵様は?」

「私も苦手だった」

「過去形なんですね」

「ああ」

 彼はまっすぐ前を見たまま答える。

「君に、終わらせても世界は回ると教わった」


 その言葉に、胸が少しあたたかくなる。

「光栄です」

「だが完全には治っていない」

「知っています」

「だから一緒に帰る必要がある」

「それ、監視では?」

「愛だ」

 あまりにも自然に言うので、私は一歩つまずきかけた。


「い、いま何と?」

「愛だ」

「そんな平然と」

「事実を述べただけだ」

「便利な言い回しですね!」

「君が育てた」


 反論できないのが悔しい。


 城から少し離れた丘へ続く道を、私たちはゆっくり歩いた。

 春先の冷たい風が吹くけれど、手袋の中の指先は温かい。いつか彼がくれたあの手袋だ。

 気づけばルシアンが、ごく自然に私の手を取っていた。


「公爵様」

「何だ」

「これも監視ですか」

「そうだ」

「嘘」

「……半分は」

「残り半分は?」

「離したくないからだ」


 また、そういうことを言う。

 最近の彼は本当に容赦がない。

 でももう、困るだけではない。ちゃんと嬉しい。


 丘の上には、いつの間にか簡易のベンチが置かれていた。

 しかも座面にクッションつき。

 私は胡乱な目で夫を見た。


「まさか」

「昨日、エリオットに置かせた」

「計画的ですね?」

「定時退勤後の休憩場所だ」

「完全に計画的ですね」

「悪いか」

「いえ、ありがたいです」


 私たちは並んで座り、沈みゆく夕日を眺めた。

 下の町では監理局の帰りだろう職員たちが家路を急いでいて、遠くの炊事煙がまっすぐ空へ上っている。

 平和だ。

 少し前まで吹雪と偽命令で崩れかけていた場所とは思えないくらいに。


「ルシアン」

「何だ」

「私、最近ようやく分かったことがあるんです」

「聞こう」

「定時退勤って、怠けることじゃないんですね」

「いまさらか」

「いまさらです」

 私は自分でも少し笑った。

「次の日もちゃんと働けるように、今日を終えることなんだって」

「ああ」

「前世では、そんなふうに終われなかったから」

「今世では終わらせる」

「はい」


 ルシアンは私の言葉を否定しなかった。

 ただ握った手に少しだけ力を込めてくる。


「セラフィーナ」

「はい」

「君が初夜に言ったことを覚えているか」

「良い職場です、でしたっけ」

「境界が明確な契約はありがたい、だ」

「言いましたね」

「そのあと、書類の山を見て目を輝かせた」

「……恥ずかしいので詳細描写はやめてください」

「無理だ」

 彼は珍しく楽しそうに続ける。

「あの瞬間、私は初めて『この結婚は想定と違う』と思った」

「それはそうでしょうね」

「誰よりも先に、この家の綻びを見て、しかも嬉しそうだったからな」

「普通は泣きますよね」

「ああ。だから私は少し困って」

「困って?」

「たぶん、そこで終わった」

「何がです?」

「君を遠ざけ続けるつもりが、だ」


 私はしばらく返事ができなかった。

 夕日よりも、繋いだ手の温度の方がずっと強く感じる。


「……それ、かなり大事な告白では」

「そうか」

「そうです」

「では覚えておけ」

「言われなくても覚えます」


 私は肩を寄せるようにして、彼の腕にそっと触れた。

 彼も何も言わず、そのまま受け入れる。


 定時退勤は、愛の形だ。

 そう言うと少し大げさに聞こえるかもしれない。

 でも、誰かがちゃんと休めるように手を止めること。

 帰る場所を守ること。

 同じ明日へ向かって、一日の終わりを分け合うこと。


 それはたぶん、私たちらしい愛の形なのだと思う。


 夕日が沈みきるまで、私たちはそうして並んでいた。

本編後の少し甘めの回でした。

ここまで楽しんでいただけたら、評価や応援で支えていただけると嬉しいです。

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