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旦那様は、はじめて愛を誓う

 ルシアン公爵が療養室を出られるようになってから一週間後、私は夕方の執務を切り上げて城の上層へ呼び出された。


 案内されたのは、かつての王都邸の書庫ではなく、ノクスヘイム城の小さな会議室。

 窓の向こうには雪をいただいた山並みが広がり、机の上には、見覚えのある紙束が一式整えられていた。


「……これは」

 私が近づくと、すでに部屋にいたルシアン公爵が静かに言った。

「新しい契約書だ」

「やっぱり、書面なんですね」

「君がその方が落ち着くだろう」

「まあ、それはそうですけど」


 少しだけ笑ってしまう。

 この人らしいといえば、あまりにもこの人らしい。


 机の上には三通の文書が並んでいた。

 一通目は婚姻再登録に関する正式書面。

 二通目は北方監理局の共同運営規程。

 三通目は――見た瞬間、私は吹き出しそうになった。


「生活協定?」

「必要だろう」

「必要かもしれませんけど、題名が堅すぎます」

「では何にする」

「夫婦合意事項、とか」

「もっと堅いな」

「確かに」


 ルシアン公爵はほんのわずかに口元を緩め、椅子を引いた。

「座れ」

「はい」


 向かい合って座ると、不思議な緊張が走る。

 裁定会議よりも、盟約再編よりも、たぶん今の方がずっと緊張している。

 目の前にあるのは戦いや陰謀ではなく、これからの生活そのものだからだ。


「先に説明する」

 彼は一通目を開いた。

「旧婚姻契約は盟約再編に伴って失効した。王都からも正式にその見解が来ている。よって、改めて婚姻を登録する必要がある」

「はい」

「だが今回は、王家の仲裁ではなく、双方の自発的意思によるものだ」

「……はい」

「ここまでは法手続きだ」


 次に二通目。

「監理局については、局長を君、副局長をハンナ、統括責任者をヨナスに据える案で進めている。私は最終承認権だけを持ち、日常運営へは直接介入しない」

「それ、かなり思い切りましたね」

「一人で抱え込まない仕組みだろう」

「そうですけど」

「盟約再編の条項に従っているだけだ」

 言いながらも、その声にはどこか誇らしさが滲んでいた。


 そして最後に、生活協定。

 私はページをめくり、声に出して読んでしまった。


「第一条、双方は一日三食を原則とする。第二条、双方は徹夜を禁止する。第三条、重大案件を除き就業終了後の追加決裁は翌朝へ回す」

「良い条文だろう」

「良すぎて怖いです」

「さらに第四条、相手の不調を見抜いた場合は申告を求め、拒否された場合は強制休養を執行できる」

「完全に相互監視では?」

「相互保護だ」

「言い方の問題です」


 私は笑いながらページをめくった。

 そこには、私が望んできたことが驚くほど丁寧に書かれていた。

 業務権限の明確化。無償労働の禁止。個人裁量に依存しすぎない仕組み。相談義務。休息の確保。情報の共有。

 そして終盤、少しだけ筆圧の乱れた箇所がある。


『いかなる場合も、一方が他方を一人で犠牲にしようとしてはならない』


 私は指先を止めた。


「これは」

「必要だった」

 ルシアン公爵の声は静かだ。

「君にも、私にも」


 胸がじんわりと熱くなる。

 祭壇のあの瞬間を、彼も同じ重さで覚えているのだと分かって。


「公爵様」

「何だ」

「……ありがとうございます」

「礼を言うのはまだ早い」

「え?」

「肝心の話が残っている」


 彼はそこで、一通目の婚姻再登録書を閉じた。

 そして、私をまっすぐに見た。


「セラフィーナ」

「はい」

「私は、君に曖昧なまま隣にいてほしいとは言わない」

 呼吸が浅くなる。

「仕事相手としても、盟約の共同担い手としても、もう十分に必要だ。だがそれだけでは足りない」


 彼は少しだけ言葉を探し、それでも視線を逸らさないまま続けた。


「君といると、書庫が静かだ」

 意外な始まりに、私は瞬きをする。

「はい」

「机の上の混乱が整理されていくのを見ると、呼吸がしやすい」

「……」

「君が誰かのために怒る顔も、数字を前にしたときの容赦のなさも、たまにひどく抜けているところも」

「最後のは褒めてませんよね」

「褒めてはいない。だが好きだ」

 そこで、ついに私は言葉を失った。


 ルシアン公爵は一度だけ深く息を吸った。

 そして、初めて。

 本当に初めて、迷いなくはっきりと言った。


「愛している、セラフィーナ」


 世界が一瞬、音を失ったように感じた。


 欲しかった言葉。

 契約書には書いていない、でもずっと聞きたかった言葉。

 それがいま、ようやく届く。


「愛することはない、と最初に言った」

 彼が苦く笑う。

「撤回する。あれは間違いだった」

「盛大に間違っています」

「ああ」

「かなりひどい初手でした」

「認める」

「減点です」

「甘んじて受ける」


 涙が出そうなのに、笑ってしまう。

 こんな大事な場面で、どうしてこの人は少しだけ可笑しいのだろう。


「君が望むなら、婚姻を結び直したい」

 ルシアン公爵は机上の登録書へ手を置いた。

「公爵夫人としてでも、監理局長としてでもない。私が選ぶ相手として」

「……」

「もちろん、断っても構わない」

「そんなことを言うんですか」

「選択の誓いだ。強制はできない」

「真面目ですね」

「君に言われたくはない」


 私は頬を拭い、少しだけ姿勢を正した。

 そして、自分の気持ちがもう十分すぎるほど定まっていることに、今さら気づく。


「ルシアン」

 名前を呼ぶと、彼の目がわずかに見開かれた。

「私も、愛しています」

 口にした途端、胸の奥がほどける。

「最初は仕事しやすい相手だと思っていました。ええ、かなり」

「ひどいな」

「本当です。でも、いつの間にか違っていました」

 私は笑う。

「書類をくれるからだけじゃなくて、あなたがいるからこの場所が好きになったんです」

「……」

「だから、結び直したいです。今度はちゃんと、自分の意思で」


 ルシアン公爵は目を閉じるようにして息を吐き、それから、ようやく力の抜けた笑みを見せた。

 その顔を見るだけで、胸がいっぱいになる。


「では」

 彼は羽根ペンを取った。

「署名を」

「はい」


 私たちは並んで座り、婚姻再登録書へ新しい名前を綴った。

 セラフィーナ・グレイフォード。

 ルシアン・グレイフォード。

 今度は義務でも体面でもない、選んだ名前として。


 続けて生活協定にも署名する。

 最後の条項には、私が一つだけ追記を入れた。


『追加条項:書類を愛することと、配偶者を愛することは両立する』


「……必要か?」

 ルシアンが真顔で問う。

「必要です」

「そうか」

「はい」

 彼は一拍置いてから、意外にもその下へさらりと書き足した。


『補足:ただし就業終了後の持ち帰り仕事は禁止』


「ちょっと」

「大事だろう」

「大事ですけど」

「承認だ」

「……承認します」


 署名が終わると、文書の上を柔らかな銀光が走った。

 盟約のときのような激しさはない。穏やかで、静かで、でも確かな光。


 その光が消えたあと、ルシアンがそっと私の頬に触れた。

「聞いてもいいか」

「何を」

「いまなら、触れても問題ないか」

 律儀にも確認してくる。

 私は泣きそうになりながら笑った。


「問題ありません」

 そう答えると、彼は本当に大事なものに触れるみたいに、ゆっくりと唇を重ねた。


 短い口づけだった。

 けれど、それだけで十分だった。


 白い結婚は終わった。

 ここから先は、ちゃんと私たちの結婚だ。

ここまで見届けてくださってありがとうございます。

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