白い結婚は、ここで終わりです
ルシアン公爵が目を覚ましたのは、盟約再編から二日後の朝だった。
場所はノクスヘイム城内の療養室。
私はその二日間、ほとんど部屋を離れなかった。ミラに無理やり仮眠を取らされ、ハンナに食事を押し込まれ、ヨナスに「倒れたら元も子もない」と叱られながら、それでも近くにいた。
「奥様」
ミラが窓辺から振り返る。
「旦那様、起きました」
私は持っていた報告書を取り落としそうになりながら寝台へ駆け寄った。
「ルシアン」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりまぶたを上げる。
まだ顔色は白い。でも、あの祭壇のときの死にそうな色ではない。
「……ここは」
「療養室です」
「どれくらい」
「二日」
「そうか」
彼はそれだけ言って、少しだけ視線を動かした。
私の顔、机の上の薬、窓の外の雪景色。
そのあと、妙に真面目な顔で問う。
「ヴァルター侯は」
「拘束されています。王都へ護送済み」
「レオンハルト殿下は」
「財務権限剥奪、継承順降格の審議入り」
「北は」
「結界安定。兵站監理局準備班が正式化されました」
「君は」
「……たぶん、元気です」
答えると、彼はほんの少しだけ笑った。
「たぶん、か」
「二日寝てないので」
「寝ろ」
「その前に言うことがあります」
私は鞄から、例の離縁届を取り出した。
書き直す暇もなかったので、端が少し折れている。
「これ」
差し出すと、彼の顔から笑みが消えた。
「まだ持っていたのか」
「はい」
「捨てていなかったのか」
「捨てていたら話ができません」
「……そうだな」
彼は文書を受け取らず、私を見た。
私は深く息を吸う。
「先に言います。祭壇でのことを、私は緊急時の錯乱だとは思っていません」
「……」
「でも、あなたがどう思っているのかは確認したい」
喉が少し震える。
「私たちのあの誓いは、盟約再編のためだけでしたか?」
ルシアン公爵はしばらく黙っていた。
その沈黙の長さに、心臓が嫌な音を立てる。
やがて彼は、寝台の上でわずかに体を起こした。
「セラフィーナ」
「はい」
「白い結婚は、ここで終わりです」
まっすぐな一言だった。
「……どういう意味でしょう」
「文字通りだ」
彼はゆっくりと言葉を継ぐ。
「君に『愛することはない』と告げた婚姻契約は、祭壇で盟約ごと組み替えた時点で死んだ」
「死んだ、って」
「古い条項ごと無効化された」
「法的にも?」
「法的にもだ。王都から正式な照会が来れば再登録になる」
そこまで言ってから、彼は少しだけ目を伏せた。
「私は、もう白い結婚を続けるつもりがない」
胸がどくどく鳴る。
でもまだ、決定的な言葉は来ない。
来ないからこそ、余計に苦しい。
「なら」
私は必死に平静を装う。
「新しい契約を、結び直すおつもりですか」
「ああ」
「どのような」
「それは」
彼は一度息をつき、珍しく困った顔をした。
「きちんと考えてから言いたい」
「……またそれですか」
「今度は逃げではない」
「ずるい人です」
「知っている」
私は思わず笑ってしまった。
泣きたいのか笑いたいのか分からない状態で笑うと、変な音になる。
「離縁届は?」
私は文書を持ち上げる。
「不要だ」
「本当に?」
「本当に」
「勢いではなく?」
「勢いで盟約再編の共同誓約はしない」
「それは、まあ、そうですが」
「それに」
彼は少しだけ眉を寄せた。
「君がこれを差し出したとき、かなり腹が立った」
「知っています」
「なら二度と勝手に書くな」
「努力します」
「約束しろ」
「……善処では駄目ですか」
「駄目だ」
「では、相談してからにします」
「それでいい」
そこで彼は、ようやく離縁届を受け取り、紙を二つに折った。
破るのかと身構えたら、引き出し代わりの小机へしまう。
「捨てないんですか」
「記録だからな」
「えっ」
「君が一人で抱え込もうとした証拠として残す」
「ひどい」
「あとで見返して反省しろ」
「それはそうかもしれませんが」
あまりにも彼らしい扱いで、逆に気が抜けた。
緊張がほどけると、どっと疲労が押し寄せる。
私は寝台脇の椅子へ座り込んだ。
「セラフィーナ」
「はい」
「顔色が悪い」
「公爵様に言われたくありません」
「私を見ていろ」
「見ています」
「違う。私が寝るまで、ここにいろ」
「子どもみたいなことを」
「君が先にやった」
「……否定できません」
彼は少しだけ笑い、それから静かに言った。
「王都裁定会議の前、終わったら話すと約束した」
「はい」
「守る」
「本当に?」
「ああ。だが」
「だが?」
「ちゃんと立てるようになってから言いたい。情けない顔ではなく」
私はその言い方に、胸の奥がじんと熱くなった。
この人は本当に、不器用なところだけ一貫している。
「分かりました」
私は小さく頷く。
「では、回復を待ちます」
「待たせる」
「高くつきますよ」
「承知している」
白い結婚は、ここで終わりです。
その言葉はまだ愛の告白ではなかったけれど、もう後戻りできないほど十分だった。
療養室の窓から差し込む冬の光が、少しだけやわらかく見えた。




