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あなたを失う契約など、私が破ります

 ルシアン公爵の誓約が完成する前に、私は祭壇へ飛びついた。


 正確には、祭壇の余白へ。

 本体の文ではなく、その周縁に浮かぶ修正層へ指を差し込むように魔力を流し込む。


 焼ける。

 頭が割れそうに痛い。

 でも離せない。


「セラフィーナ!」

 ルシアン公爵の声がする。

「離れろ!」

「離れません!」

 私は歯を食いしばった。

「あなたを失う契約なんて、私が破ります!」


 余白視の中で、無数の文字が荒れ狂っている。

 守る、負う、従う、撤収する、優先する、命じる――。

 人が軽く口にした言葉の残骸が、重い鉄の鎖になって絡みつく。


 その奥に、かすかに見える。

 書庫で読んだ修正条項。

 辺の読者と印の担い手は、選択の誓いをもって文を編み直すことができる。


「選択の誓い……」

 私は必死に呼吸を整えた。

 義務ではなく、命令ではなく、自分で選ぶ言葉。


 でもルシアンは苦しげに首を振る。

「駄目だ」

「なぜ」

「君を、この盟約に縛りたくない」

「縛られません」

「危険すぎる」

「あなたを失う方が嫌です!」


 その一言は、頭で選んだというより、胸からそのまま出た。


 室内が一瞬静まった。

 暴れる文字の流れさえ、わずかに止まった気がする。


 ルシアン公爵が、痛みに滲んだ瞳で私を見る。

 私はもう、視線を逸らさなかった。


「私は、あなたのためにここにいるわけじゃないって、ずっと言ってきました」

 喉が震える。

「でも違いました。違ったんです」

「セラフィーナ」

「私は、この仕事が好きです。北も、ここで働く人たちも好きです。でもそれだけじゃない」

 胸の奥の、ずっと言葉になりきらなかった部分を、私は初めて掴み取る。

「あなたがいるから、ここを守りたい。あなたが眠れる場所を残したい。あなたの未来が欲しい」


 祭壇の銀光が強く脈打つ。


 ――選ぶか。


 頭の奥に、あの竜の気配が響いた。


「選びます」

 私は即答した。

「義務ではなく、私の意思で」


 ルシアン公爵の呼吸が大きく揺れる。

 彼はなおも躊躇っていた。私を巻き込むことへの恐れが、はっきり見える。


 だから私は、最後の一歩を自分から踏み込んだ。


「ルシアン」

 名前を呼ぶ。

「あなたは?」

「……」

「私を選びますか」

 痛みと葛藤で歪んだ顔のまま、彼は数秒黙っていた。

 その沈黙が永遠みたいに長い。


 やがて、彼はかすれた声で、それでもはっきり言った。


「選ぶ」

 銀光が爆ぜる。

「君が欲しい」

 さらに強く。

「仕事のためでも、都合のためでもない。君そのものを、私は選ぶ」


 その瞬間。

 祭壇中央の最古の盟約文が、ばらばらに砕けるのではなく、静かに行を組み替え始めた。


 私は余白に指を滑らせる。

 新しい文が必要だ。

 古い「一人で背負う」契約ではなく、私たちがこれまで積み上げてきた仕組みを文にする。


「書きます」

 私は震える手で光の羽根ペンを掴んだ。

「公爵様、声を合わせてください」

「……ああ」


 私は余白に最初の一文を刻む。


『北の印は、一命にのみ負わせない』


 光が走る。

 ルシアン公爵が、その文へ自分の魔力を重ねた。


『守りの責は、記録と現場と誓約を分かち合う者たちに配される』


 ハンナ、ヨナス、ネラ、ミラ、砦の兵、村の橇隊――これまでの顔が頭をよぎる。

 一人の英雄ではなく、仕組みで守る北。

 私がずっと作りたかった形。


『記録なき命令は効力を持たず』

『偽りの印は担い手へ届かず』

『北の守りは、剣を執る者と文を守る者の選択によって編まれる』


 書くたびに、暴れていた文字の鎖がほどけていく。

 偽命令の黒い綻びが、次々に灰になって落ちた。


 ルシアン公爵が苦しげに膝をついた。

 まだ負荷は残っている。

 最後の鍵が足りない。


 私は息を吸う。

 これを言えば、もう戻れない。

 でも戻る気なんて、最初からほとんど残っていなかった。


「最後の条項を」

 私はルシアンを見る。

 彼も分かっている顔をした。


 私は光の文へ、ゆっくりと刻んだ。


『印の担い手ルシアン・グレイフォードと、辺の読者セラフィーナ・グレイフォードは、互いを己の意思で選び、守り、支え、欺かぬことを誓う』


 言葉にした瞬間、熱いものが頬を伝った。

 涙だと気づく暇もない。


「ルシアン」

「……ああ」

 彼は私の名に応えるように、最後の力を振り絞った。

「誓う。君を守る。だが一人で抱え込まない。君にも、私にも」

 その声は痛みに掠れていても、真実だった。

「だから生きろ、セラフィーナ」

「あなたもです」

「もちろんだ」


 祭壇から、まばゆい白銀が立ち上がった。

 竜の瞳が再び現れ、今度ははっきりと私たちを見た。


 ――よくぞ、編み直した。


 温かな重圧が、書庫全体へ広がる。

 結界を揺らしていた歪みが、遠くから順に静まっていくのが分かった。

 偽追記は焼け落ち、ヴァルター侯が叫び声を上げる。


「馬鹿な! たかが契約書きが!」

「契約書きを侮った報いです」

 私は涙も拭かずに言い返した。

「記録を軽んじる人間が、最後に文で負けるのは当然でしょう」


 衛兵が侯爵を完全に取り押さえる。

 その向こうで、結界の明滅がゆっくりと安定し始めていた。


 終わった。

 そう思った途端、ルシアン公爵の体がぐらりと傾く。


「ルシアン!」

 私は慌てて抱きとめた。

 重い。熱い。そして、生きている。


 彼は薄く目を開け、ひどく疲れた顔で、それでも笑った。

「……今のは、かなり強引だったな」

「仕方ありません。あなたが先に無茶をしたので」

「怒っているのか」

「当然です」

「なら、あとで謝る」

「高くつきますよ」

「だろうな」


 それだけ言うと、彼は私の肩に額を預けるようにして意識を失った。

 でも呼吸はある。

 私はその温もりに、ようやく全身の力を抜いた。


 あなたを失う契約なんて、私が破る。

 本当にそうしてしまったのだと気づいたとき、涙はもう止まらなかった。

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