最後の誓約
北方本城ノクスヘイムへ戻ったとき、空は異様な色をしていた。
青でも灰でもない、裂けた氷のような白。
城壁の上を走る結界線が、遠目にも不安定に明滅している。
「状況を!」
馬を降りるなり、ルシアン公爵が叫ぶ。
ハンナとエリオットが駆け寄ってきた。
「各砦に偽撤収令が同時発出されました」
エリオットが報告する。
「すでに三か所で配置が崩れ、結界節点が空になっています。兵は戻しつつありますが間に合うかどうか」
「偽令の発信源は」
「城内旧政務塔の印写室です」
ハンナが険しい顔で続けた。
「ヴァルター侯爵、護送途中で逃走。こちらに先回りしていたようです」
「やはり」
私は思わず唇を噛む。
ヴァルター侯は、最後まで北を自分の政治道具としてしか見ていなかった。
裁定会議で追い詰められた時点で、北そのものを人質に取るつもりだったのだ。
「印写室と誓約竜の書庫周辺に近づけた者は?」
「王都から来た封印官が数名」
「中へ入ったのか」
「止めきれませんでした」
ルシアン公爵は一瞬で判断した。
「エリオットは西塔、ハンナは兵站監理局準備班を動かせ。各砦への訂正命令を最優先で飛ばす」
「了解!」
「セラフィーナは私と来い」
「もちろんです」
私たちは城の地下へ駆け下りた。
書庫へ続く螺旋階段には、すでに何人もの衛兵が倒れている。幸い命はあるが、魔力衝撃で気絶しているらしい。
扉の前に着いた瞬間、中から鈍い轟音が響いた。
「開けます!」
私が叫び、ルシアン公爵が扉へ掌を打ちつける。
銀紋が軋み、扉が割れるように開いた。
誓約竜の書庫は、もはや静謐な場所ではなかった。
中央祭壇の上で白銀の文字列が暴走し、床一面に亀裂のような光が走っている。
その前に立っていたのは、ローデリック・ヴァルター侯爵と、見知らぬ王都の封印官三人。
彼らは王家の緊急印を掲げ、祭壇へ偽の追記を押し込もうとしていた。
「止まりなさい!」
私の声に、ヴァルター侯が振り向く。
彼の目は追い詰められた人間のそれではなく、むしろ奇妙な高揚を帯びていた。
「来たか、余白読み」
「あなた、まだ懲りないんですか」
「懲りる? 違うな。ここまで来たら完成させるしかあるまい」
侯爵は祭壇へ手をかざす。
「北方の軍、備蓄、結界。その全権を王都へ一元化する。地方の自律など、国家運営においては無駄だ」
私は愕然とした。
「だから偽命令で砦を空にしたのですか」
「一度崩せば、再構築の名目で掌握できる」
「そのために何人死ぬと」
「国家のための損耗だ」
あまりにも平然と言い切るので、怒りより先に寒気が走る。
ルシアン公爵が一歩前に出た。
「損耗などではない。お前は、守るべきものを数字でしか見ていない」
「数字で見て何が悪い」
ヴァルター侯が嗤う。
「北を一人で抱え込む貴様より、よほど合理的だ。貴様の家の盟約も、本来は王家の統制下に置くべきだった」
「その偽追記で?」
私は祭壇の亀裂を指した。
「本物の盟約は、そんな支配の文を受けつけません。だから壊れている」
「なら壊してから作り直せばよい」
「人の命ごと!?」
その瞬間、封印官の一人が印を打ち込んだ。
祭壇が白く弾け、暴風のような魔力が室内を薙ぐ。
私はよろめき、ルシアン公爵が咄嗟に腕を引いた。
「下がれ!」
彼の声と同時に、黒い影が床から噴き上がる。
無数の文字の破片だった。
破られた命令、守られなかった契約、偽られた印。その残滓が一気に顕在化したのだ。
エリオットたちが追いつき、封印官と交戦に入る。
狭い書庫で剣戟は危険だが、もう迷っている余裕はない。
私は祭壇へ飛びつくように駆け寄った。
暴走する文字列の中、本物の盟約文と偽追記の境目を探す。
余白視を最大まで開くと、視界が焼けるように痛んだ。
「見つけた……!」
偽追記は一本の太い針のように、本来の文脈へ無理やり差し込まれている。
これを抜かなければ。
「公爵様! ここです!」
私が叫ぶと、ルシアン公爵はヴァルター侯の魔力障壁を斬り払い、そのまま祭壇へ手を伸ばした。
しかし侯爵が最後の封印札を叩きつける。
「遅い!」
耳を裂くような音。
祭壇中央の光が一度真っ黒に反転し、次の瞬間、膨大な圧がルシアン公爵へ流れ込んだ。
「っ……!」
彼の体が大きく揺れ、片膝をつく。
私は反射的に支えようとしたが、触れた腕が熱を帯びていて息を呑んだ。
「公爵様!」
「来るな!」
普段なら絶対に聞いたはずのない強い声だった。
「いま触れると巻き込まれる!」
床の亀裂から、白と黒の光が彼一人に吸い寄せられていく。
偽命令で生じた何百、何千もの誓約破綻が、一斉に当代の担い手へ返ってきているのだ。
ヴァルター侯は衛兵に取り押さえられながらも笑っていた。
「見ろ、結局そうなる! 北は一人の獣に背負わせるしかないのだ!」
「黙れ!」
私は叫び返したが、その声も魔力の唸りにかき消される。
ルシアン公爵は立ち上がろうとして、しかし一歩進むごとに床へ血を落とした。
口元からも赤が滲んでいる。
もう限界だ。見ているだけで分かる。
それでも彼は祭壇中央へ向かった。
そこに浮かぶのは、最古の盟約文。
最後の保険条項――担い手がすべてを引き受ける旧い誓約だ。
「やめてください!」
私は駆けた。
けれど彼は振り返らない。
「ルシアン!」
初めて名前だけで呼んだ。
その背中が、わずかに止まる。
「セラフィーナ」
掠れた声だった。
「これしかない」
「違う! 修正条項が」
「今から編み直す時間はない。結界が先に裂ける」
確かにそうだ。
外ではもう結界線が悲鳴を上げている。北方全体を覆う白い壁が、いまにも砕けそうな音を立てていた。
ルシアン公爵は祭壇へ片手を置き、最後の誓約文を呼び起こす。
銀光が彼の全身を包み、空間が凍りつく。
「私はグレイフォード家当主、北の印の担い手ルシアン」
「駄目!」
「ここに、破られたすべての誓いを――」
その言葉の続きを、私は聞かせるつもりがなかった。




