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離縁届に、まだ判は押しません

 王都を発ってから北へ戻る道のりは、来たときよりずっと短く感じた。


 実際には同じだけの距離があるはずなのに、急報が届いたあとでは時間の感覚がまるで違う。

 馬車の揺れの中、ルシアン公爵はほとんど眠らなかった。私も同じだ。


 王都を出る直前、国王から北方全権に近い臨時権限が下された。

 偽命令の無効化、兵站再編、結界維持。必要なものは与える、と。

 けれど権限が増えるほど、盟約の負荷も増す。


 私は向かいに座る公爵の横顔を見つめ、何度目か分からない迷いを抱えていた。


「何度も見られると落ち着かんな」

 不意に言われ、私は肩を跳ねさせる。

「見ていました?」

「見ていた」

「……失礼しました」

「何を考えている」

「少し、整理を」


 私は鞄の中から一通の書類を取り出した。

 白い紙。昨日の宿で書いたばかりのものだ。


 離縁届。

 正確には、期間満了時に双方合意で婚姻を解消できるよう整理した文案。

 いま出すべきかどうか、ずっと迷っていた。

 でも、このまま北へ戻れば、最悪の事態もありうる。なら、少なくとも彼を政治的拘束から解いておくべきではないかと考えたのだ。


「公爵様」

「何だ」

「これを」

 差し出すと、彼は無言で受け取った。

 文面に目を落とし、数秒後、表情が完全に消える。


「……どういうつもりだ」

「今回の件が終われば、私たちの政治的婚姻は役目を終える可能性があります」

「だから先に離縁届を書くと?」

「はい」

「いま、この状況で」

「いまだからです」


 私は膝の上で手を握りしめた。

「もし北で何かあれば、公爵様にはさらに大きな責任がのしかかる。そこへ私との期限つき婚をぶら下げたままにするのは」

「邪魔だと?」

「違います!」

 思わず声が強くなる。

「そうではなくて……私は、公爵様に自由でいてほしいんです」

「自由」

「はい。義務や体面ではなく、本当に必要なものだけ選べるように」


 言いながら、自分でも胸が痛くなる。

 本当にそう思っている。

 でもその「必要なもの」に自分が入っていないかもしれないことを、ちゃんと分かってしまっているから。


 ルシアン公爵は文書を畳みもせず、じっと見ていた。

 やがて、低く問う。


「君は、これに判を押したいのか」

「……分かりません」

「分からないのに、私には差し出すのか」

「それは」

「セラフィーナ」

 名を呼ぶ声が、これまでになく静かで重い。

「君は時々、肝心なことを一人で決めすぎる」


 私は息を呑んだ。

 反論できない。

 実家のことも、独立のことも、いまの離縁届も。私はいつだって先に自分で整理し、相手へ提示してしまう。

 それが安全だったから。そうしてきたから。


「でも」

 絞り出すように言う。

「公爵様に選択肢を」

「私の選択肢を、なぜ君が先に整える」

「……」


 返せない。

 まっすぐすぎる正論だった。


 しばらくの沈黙のあと、ルシアン公爵はその文書を私へ返した。

「まだ判は押さない」

「公爵様」

「今回の件が終わるまで、この話は保留だ」

「ですが」

「それに」

 彼は少しだけ視線を逸らし、それからはっきりと言った。

「私は君と離縁したいわけではない」


 頭の中が真っ白になった。

 離縁したいわけではない。

 それは愛の告白ではない。たぶん違う。

 違うはずなのに、胸の奥が痛いほど熱くなる。


「……その言い方は、ずるいです」

「知っている」

「最近ずるすぎませんか」

「余裕がない」

「私もです」


 そこで馬車が大きく揺れた。

 外からエリオットの声が飛ぶ。


「旦那様! 前方の中継所から追加報告です! 北方本城でも結界の揺らぎが観測されたと!」

「分かった。速度を上げろ!」


 会話はそこで途切れた。

 私たちは互いに言葉を飲み込み、馬車の窓の外を見た。


 雪雲の向こうに、北の空が薄く裂けるように白く光っている。

 結界の異常だ。


 私は返された離縁届を鞄へしまいながら、静かに覚悟を決める。

 この紙の行方は、全部終わってからでいい。

 いまはまだ、その時ではない。


 だから、まだ判は押さない。

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