欲しかった言葉は、契約書には書いていない
誓約竜の書庫から戻った夜、私はまったく集中できなかった。
石板の写しは取れた。
偽追記の証拠も揃った。
王都裁定会議で切る札としては十分だ。
それなのに、頭の中で何度も再生されるのは、竜の問いと修正条項の文言ばかり。
『選択の誓い』
『真実の誓い』
義務ではなく、命令でもなく、自ら選んだ誓い。
そんなもの、簡単に口にできるなら苦労はしない。
私は机の上の紙束に視線を落とし、ゆっくり息を吐いた。
「眠れないのか」
不意に聞こえた声に顔を上げると、監理室の扉にルシアン公爵が立っていた。
「公爵様こそ」
「同じだ」
彼は珍しく軍服ではなく、黒い室内着に厚手の外套だけを羽織っている。完全に休む前にこちらへ来たのだろう。
「入っても?」
「どうぞ」
彼は向かいではなく、私の机の横へ回ってきた。
いつもより近い距離に、少しだけ心臓が騒ぐ。
「書庫で見たもののせいか」
彼が低く問う。
「……はい」
「私もだ」
そこで彼は一通の古い封書を机に置いた。
「何ですか」
「弟の最後の手紙だ」
私は思わず息を止める。
「見せてくださるんですか」
「ああ。今の君には見せるべきだと思った」
封を開くと、中には短い便箋が一枚。
若々しい筆跡で、北方任地の寒さと、兄上が夜更かししすぎで心配だという冗談が綴られていた。
そして最後にこうある。
『戻ったら、兄上も少しは誰かに頼ってください』
胸が締めつけられる。
あまりにも普通の、だからこそ二度と返らない言葉だった。
「彼が死んだあと」
ルシアン公爵が静かに言う。
「私は『守る』『負う』『責任を取る』という言葉だけを残した。それ以外を口にするのが、ひどく危うく思えた」
「危うく?」
「盟約の担い手は、言葉に引きずられる。約束したことが守れなければ、自分に返る気がしていた」
「……」
「だから必要最低限しか言わないようにした。愛想のない男だと、皆そう言った」
私は便箋を丁寧に戻しながら、ぽつりと答える。
「そうですね。かなり」
「ひどいな」
「事実です」
でも、と私は続けた。
「それでも、言葉を惜しみすぎると、伝わるはずのものまで消えます」
彼の瞳が静かに揺れる。
「君は何を伝えてほしい」
「……」
真正面から聞かれて、言葉に詰まった。
欲しかった言葉。
必要とされることではなく、便利だと認められることでもなく、その先の何か。
「分からない、わけではありません」
私はゆっくり答える。
「でも、契約書みたいに条件付きで書かれるのは嫌です」
「条件付き」
「『働くなら必要』『役に立つなら欲しい』みたいなものは、もう十分です」
自分でも驚くほど、声が正直だった。
「そうではなくて……」
そこから先が、出てこない。
ルシアン公爵はしばらく黙っていた。
それから、いつになく慎重に言葉を選ぶ。
「一年後」
「はい」
「君が望むなら、独立してもいい」
「……はい」
「だが私は、君が隣にいなくなることを想像すると、落ち着かない」
心臓が、痛いくらいに鳴った。
「それは」
「仕事だけの理由ではない」
「……」
「だが、いま無責任に名前をつけたくない」
そこまで聞いて、私は逆に少しだけ苦しくなった。
名前をつけたくない。
それは誠実さだと分かる。分かるのに、期待した分だけ空白も生まれる。
「公爵様」
「何だ」
「それ、かなりずるいです」
「分かっている」
「私は、もっと浅ましいので」
「浅ましい?」
「はい。言葉が欲しいと思ってしまうから」
それが精一杯だった。
もう少しで、愛だとか好きだとか、そういう言葉に触れてしまいそうで怖かった。
ルシアン公爵は一歩だけ近づき、机に片手をついた。
「セラフィーナ」
「はい」
「王都裁定会議が終わったら、必ず話す」
「それは約束ですか」
「ああ」
「……破ったら承知しませんよ」
「そのときは好きに罰しろ」
少しだけ、笑いがこみ上げた。
重い話のはずなのに、その返しがあまりにも彼らしい。
「罰は高くつきますよ」
「覚悟しておく」
その夜は結局、どちらもすぐには眠れなかった。
でも不思議と、以前のような刺す頭痛や息苦しさはなかった。
足りないのは言葉。
けれど、足りないと分かっただけでも、少しだけ前に進んだのだと思う。
欲しかった言葉は、契約書には書いていない。
だからこそ、いつかちゃんと聞きたいのだ。




