誓約竜の書庫
誓約竜の書庫は、ノクスヘイム城のさらに地下、古い岩盤をくり抜いた場所にあった。
案内できるのは歴代当主と、その許可を受けたごく限られた者だけ。
長い螺旋階段を下りるあいだ、空気はひやりと乾き、壁に埋め込まれた青白い灯りが足元を照らした。
最後の扉には銀の竜紋が刻まれていて、ルシアン公爵が掌を当てると低く重い音を立てて開いた。
中は、想像していた「書庫」とは少し違った。
棚が並ぶのではなく、広い円形の空間の周囲に石版と金属板が幾重にも納められ、その中央に巨大な机のような祭壇がある。
天井近くには薄い氷晶が張りつき、光を受けてゆらゆら揺れていた。
「……綺麗」
思わず漏らすと、隣のミラが小さく息を呑んだ。
「なんだか、教会みたいです」
「教会より性質が悪いかもしれない」
ルシアン公爵が淡々と返す。
「ここにあるのは祈りではなく、縛りだからな」
「名言っぽいことをさらっと言いますね」
「名言のつもりはない」
私は祭壇へ近づき、そこに置かれた最古の金属板へ指を伸ばした。
触れた瞬間。
視界いっぱいに、白銀の文字が走った。
「っ……!」
思わず息を詰める。
これまで見てきた契約の綻びとは比べものにならない。
文字そのものが光を帯び、その周囲に無数の細い余白が層になって浮かんでいる。
「大丈夫か」
ルシアン公爵がすぐ後ろで問う。
「はい……ただ、情報量が多いです」
「読めるのか」
「ええ。少しずつなら」
私は深呼吸し、ひとつずつ文字を追った。
古い言い回しだが、意味は分かる。
北方の守護、境界の維持、結界の代償、当主の責務。
やはり基本構造は、これまで聞いた通りだった。
けれど。
余白の奥、通常なら見えない細い層に、別の文字が眠っていた。
「……ありました」
「何が」
「修正条項です」
ルシアン公爵がわずかに身を乗り出す。
私は金属板の端を指した。
「『盟約が一命に余るとき、辺の読者と印の担い手は、選択の誓いをもって文を編み直すことができる』」
「辺の読者」
「余白を読む者、という意味だと思います」
「……やはりか」
さらに読み進める。
その先に、もっと重要な文があった。
「『支配のために約を重ねるな。記録なき命令を増やすな。一人へ集めた責は、やがて地を裂く』」
私はゆっくり読み上げた。
「これ、ほとんど警告ですね」
「初代は分かっていたのか」
「たぶん。盟約は最初から、組織が大きくなるほど危うい造りだったんです」
私は周囲の石版へ視線を巡らせる。
歴代の追記、戦時特例、税制変更、軍配備調整――とにかく膨大だ。
そして、そのいくつかに黒い綻びが絡みついている。
「公爵様、これを」
私は別の石板を指した。
「王都優先規定に関する追記です。年代が浅い。しかも……正式な追記じゃない」
「何?」
「本来必要な竜印の重ね打ちがありません。王家の外部写しをもとに、こちらへ模写しただけです」
「偽造か」
「ええ。たぶんヴァルター侯の系統です。権威だけ借りて、実体はない」
ヨナスが慄いたように言う。
「そんなものが盟約に干渉していたのですか」
「干渉というより、亀裂です」
私は低く答えた。
「正しい契約の上に、嘘の条項を貼り重ねていた。だから公爵様の加護が際限なく歪む」
そこまで読んだところで、祭壇の中央が淡く光った。
銀白の輪が広がり、空気がかすかに震える。
ミラが「ひっ」と息を呑む。
輪の中に浮かび上がったのは、竜の瞳に似た縦長の光だった。
音ではない。けれど、意味だけが頭に流れ込んでくる。
――読む者よ。
――担い手よ。
――余りたる責を、なお一命に載せるか。
私は身じろぎもできなかった。
隣でルシアン公爵も同じように光を見つめている。
「……載せる気はありません」
思わず答えると、光が揺れた。
否定でも肯定でもない、ただ聞いているという気配。
ルシアン公爵が低く言った。
「私は北を守る。その責は逃れない」
――ならば、独りで背負うか。
その問いに、彼は少しだけ黙った。
私は先に口を開いた。
「独りでは駄目です」
竜の光がこちらを向く。
「責任の所在は必要です。でも、一人が全部痛む仕組みは壊れています。修正しなければ、また同じことが起きます」
――編み直すか。
「はい」
――何をもって。
私は息を飲んだ。
修正条項の最後の一文が、ゆっくりと脳裏に浮かぶ。
「『選択の誓い』……」
ルシアン公爵も同じ箇所を見ていた。
「義務でも命令でもなく、自ら選んだ誓いが必要なのか」
「たぶん」
光はそれ以上何も告げず、ゆっくりと薄れていった。
あとに残ったのは静かな寒気と、祭壇の上に浮かぶ未完成の文だけ。
私はしばらくその光景を見つめていたが、やがて机へ両手をついた。
「分かりました」
「何が」
ルシアン公爵が問う。
「根本解決の条件です。盟約を編み直すには、公爵様と私の両方が必要。しかも、形だけでは駄目」
「真実の誓いが要る」
「ええ」
言った瞬間、妙な沈黙が落ちた。
私と公爵。真実の誓い。
意味が重すぎる。
私は慌てて話題を戻すように石板の写しを取り始めた。
「と、とにかく証拠を写しましょう! 王都裁定会議でこの偽追記を突きつければ、ヴァルター侯の言い逃れはかなり潰せます」
「……ああ」
「公爵様?」
「何でもない」
「何でもない顔ではありません」
「君もだろう」
確かに、その通りだった。
書庫を出るころには外は完全に夜になっていた。
階段を上る途中、ミラが私にだけ聞こえるよう小声で囁く。
「奥様」
「何」
「いまの、ほとんど求婚条件みたいでしたね」
「やめて」
「だって」
「やめてください」
でも、否定しきれない自分がいるのが、もっと困るのだった。




