今さら戻れと言われても、勤務先は選びます
吹雪が去り、領都へ戻って三日。
ようやく通常業務へ戻れるかと思った矢先、正面玄関から実に聞き覚えのある声が響いた。
「セラフィーナ! 会ってちょうだい!」
私は監理室でペンを止めた。
ミラが青い顔で駆け込んでくる。
「奥様、リディア様です……! それと伯爵も!」
「……来たのね」
「どうします?」
「通さない」
「それがですね、玄関で泣いて騒いでまして」
「余計に通したくないわね」
とはいえ、庁舎の正面で騒がれ続けるのも面倒だ。
私は応接室へ移動し、最低限の礼儀だけ整えて二人を迎えた。
父――アシュクロフト伯爵は、以前よりずっとやつれて見えた。
豪奢だった外套は質が落ち、髭の手入れも甘い。
半妹リディアは相変わらず美しく装っているが、その顔には焦りが滲んでいる。
「セラフィーナ!」
父が両手を広げた。
「会いたかったぞ」
「私はそうでもありません」
即答すると、父の笑顔が引きつった。
「相変わらず冗談の通じない子だ」
「冗談ではなく事実です。それで、ご用件は」
「そんな言い方はないだろう。お前の家族だぞ」
「昔はそうでしたね」
リディアが涙ぐんだ声を作る。
「お姉様、ひどいわ……」
「用件を」
「っ……」
取りつく島もないと悟ったのか、父はすぐに本音を出した。
「伯爵家の資金繰りが一時的に厳しい」
「存じております」
「存じているなら話は早い。お前の名で保証を――」
「お断りします」
「最後まで聞け!」
「聞く必要がありません」
私は机上に用意していた文書束を滑らせた。
父とリディアの前に、旧契約の写しが広がる。
「これ、私の旧署名を模した偽造ですね」
父の顔色が変わった。
「な、何のことだ」
「三年前の農園賃貸契約、二年前の鉱山借入更新、昨年の婚資前借証文。全部、私の確認印が使われていますが、私は一度も見ていません」
「家族のことだ、いちいち許可を」
「つまり無断使用を認めるのですね」
「そういう意味ではなく」
「ではどういう意味です?」
リディアが耐え切れず声を荒らげた。
「だって仕方ないでしょう! お姉様はどうせ書類しか取り柄がないんだから、それくらい家のために使って何が悪いのよ!」
ぴたりと、部屋の空気が止まる。
私はリディアを見た。
昔と同じ言葉だ。何ひとつ変わっていない。
「そう」
静かに返すと、彼女は一瞬だけたじろいだ。
「なら、その取り柄がなくなった今、伯爵家がどうなるかもご存じでしょう?」
「……っ」
「私はもう、あの家の無償労働力ではありません」
父が机を叩いた。
「お前が恩を忘れるとはな! 誰がここまで育てたと思っている!」
「教育費の回収なら、王家への婚約で十分おつりが来たはずです」
「親に向かって!」
「親が子に偽署名を使って借金する方が先では?」
そこまで言ったところで、扉が開いた。
ルシアン公爵である。
「騒がしいな」
ただそれだけなのに、父とリディアの勢いが目に見えて萎む。
「グレイフォード公……」
父は慌てて姿勢を正した。
「これは家族の話でして」
「ここは公爵領庁舎だ」
ルシアン公爵は私の隣へ立つ。
「家族の情に逃げ込むには不適切な場所だな」
父が苦々しく顔を歪めた。
「娘に少し手を貸してほしいだけです」
「偽署名で借入を起こしたうえで、か」
「なっ」
「証拠は見た」
私は少し驚いて公爵を見る。
いつの間に。
視線が合うと、彼は平然と言った。
「君の机に置かれていた」
「あ、勝手に見ましたね?」
「見るべき案件だと思った」
「あとで抗議します」
「受けて立つ」
こんなやり取りの最中なのに、父とリディアは呆気に取られている。
たぶん私たちが夫婦らしく見えない会話をしているせいだ。
「アシュクロフト伯爵」
ルシアン公爵の声が冷える。
「要求は却下だ。偽署名文書については、こちらで調査に入る」
「そ、それは」
「異議があるなら王都裁定会議で述べろ。もっとも、その頃には追加証拠も揃っているだろうが」
父の顔から血の気が引く。
リディアは半泣きで私を見る。
「お姉様、まさか本気で家を潰すつもり?」
「潰したのは、自分たちでしょう」
「そんな……」
「私は勤務先を選びます。もうあの家では働きません」
その一言で、ようやく二人は理解したらしい。
私が本当に戻る気がないことを。
泣けば、怒鳴れば、家族だと叫べばどうにかなる相手ではもうないことを。
父たちは護衛に伴われて退出した。
去り際、リディアが振り返って何か言いかけたが、結局何も言えなかった。
扉が閉まったあと、私はようやく椅子に座り込む。
どっと疲れが押し寄せる。
「大丈夫か」
ルシアン公爵の声が少し近い。
「はい、たぶん」
「たぶんか」
「家族相手は、少しだけ別腹なので」
「分かるような、分からんような言い方だな」
私は息を吐き、机に散った書類を揃えた。
「でも、はっきり言えてよかったです」
「ああ」
「勤務先は選ぶって」
「いい言葉だな」
「でしょう?」
するとルシアン公爵は、ほんの少しだけ目を柔らかくして言った。
「なら、選び続けろ」
「はい?」
「一年後も、その先も。誰かに決められるな。君は自分で選べ」
胸がじんわり熱くなる。
私は小さく頷いた。
「はい」
その返事をしたとき、たぶん私ははじめて、自分がどこを選びたいのかをぼんやりと自覚し始めていた。




