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17/20

吹雪の夜、同じ部屋で

 第三砦への緊急補給は、丸一日かけてようやく形になった。


 村の橇隊を使った小口輸送、薬草を乾燥のままではなく煎じ液にして先行便へ載せる手配、負傷兵搬送の中継所設置。

 人も紙も休む暇はない。


 そして二日目の夕刻、私はついに現地へ呼ばれた。


「奥様、旦那様から急ぎです!」

 雪まみれの伝令が監理室へ飛び込んでくる。

「現地で契約確認が必要とのこと。南西峠の中継小屋へ!」


 私は迷わず立ち上がった。

 危険だから行くなと言われていたけれど、公爵本人が呼んだのなら話は別だ。


 ハンナとエリオットの制止を振り切ることはせず、最小護衛をつけて出る。

 吹雪の中を進むのは想像以上に厳しかった。

 視界は白く、風は容赦なく頬を打つ。馬車は無理で、途中から橇に乗り換えた。


 中継小屋に着いたとき、私は指先の感覚が半分ほど消えていた。

 けれど扉を開けた瞬間、そんなことはどうでもよくなる。


「セラフィーナ!」

 ルシアン公爵が、奥の机から立ち上がった。


 彼は無事だった。だが顔色は悪く、左肩の外套には血が滲んでいる。

 私は即座に駆け寄った。


「怪我をしたんですか」

「かすり傷だ」

「嘘です、その量は」

「大したことではない」

「皆さん、責任者の『大したことない』は信用してはいけません!」


 小屋にいた兵たちが一斉に視線を逸らした。

 つまり、みんな同じことを思っていたのだろう。


 ルシアン公爵は苦々しい顔をしたが、反論より先にひとつ息を吐いた。

「……まずはこれを見ろ」


 机の上に広げられていたのは、急報書と補給再配分指示書だった。

 見るまでもなく綻びがある。いや、あるどころではない。

 真っ赤だ。


「ひどい……」

「砦へ届いた追加指示だ」

 公爵が低く言う。

「王都緊急優先令により、北方補給の一部を南回りへ転送せよ、と」

「偽造です」

「やはりそうか」

「公印は本物に近い。でも文体が違うし、緊急令に必要な付則が欠けています。なにより……」

 私は紙の右端を指した。

「この条項、後から差し込んである。余白が裂けています」


 兵たちがざわめく。

 つまり、補給を止めたのは天候だけではない。

 誰かがこの吹雪に合わせて、偽命令を流したのだ。


「すぐ訂正を書きます」

 私はペンを取ろうとして、そこで自分の手がかじかんで震えていることに気づいた。

 その様子を見たルシアン公爵が、無言で私の指先を包む。

 ひどく冷たい手だった。


「公爵様こそ冷えています」

「君もだ」

「だからって」

「まず温めろ」


 結局、私は机の前ではなく小屋奥の暖炉近くへ引っ張られた。

 中継小屋は兵用の宿泊設備が乏しく、暖の取れる個室はひとつしかない。正確には、個室というより書類保管も兼ねた狭い指揮室だ。

 そこへ私と公爵が押し込まれ、ミラと医師が傷と体温の確認をし、他の兵は外で詰めることになった。


「……同じ部屋ですね」

 私が言うと、ミラがものすごく複雑な顔をした。

「緊急事態なので!」

「分かってるわ」

「本当に?」

「ええ」

「ならいいんですけど!」


 何がならいいのかはよく分からないが、いまはそれどころではない。


 医師が公爵の肩を診る。

「浅いですが、縫うほどではありません。安静に」

「無理だ」

「無理でも少し横に」

「仕事が」

「あります」

 私が引き取った。

「なので、公爵様は横になってください。私が読み上げます」

「またそれか」

「有効だったので」


 結局、狭い指揮室の長椅子にルシアン公爵、机に私といういつもの夜勤体制が、雪山の中継小屋で再現された。


 ただし今回は、互いの距離が近すぎる。


 暖炉の熱で室内は十分暖かいのに、公爵の顔色はまだ悪い。

 傷の痛みだけではない。砦、補給、偽命令。破られた約束の総量が一気に彼へ返ってきているのだろう。


「声、もう少し近くで」

 長椅子から掠れた声がした。

「聞こえませんか」

「外の風の音がうるさい」


 私は仕方なく椅子ごと少し近づく。

 膝と長椅子が触れそうな距離だ。


「では、読みます」

 私は書類を整えた。

「第一砦から第三砦への薬草液中継、村組合オルネス担当。違約時は同等品を」

「承認」

「第二便の馬借契約、雪崩時は河岸倉へ迂回」

「承認」

「村のパン窯貸与については」

「……それも」


 返事が徐々に曖昧になっていく。

 私は書類から目を上げた。

 ルシアン公爵の瞼が重そうに落ちかけている。


「眠いですか」

「少し」

「寝てください」

「まだ」

「大丈夫です。私が必要なところだけ起こします」


 そう言うと、彼は薄く目を開けたまま、しばらく私を見ていた。

 火の赤が夜色の瞳に映り込む。


「……君がいると、音が遠い」

「書類の音ですか」

「全部だ」

「そうですか」

「だから、少しだけ」

「はい」

「ここにいてくれ」


 心臓が一拍、大きく鳴った。

 私はとっさに「仕事がありますので」とだけ答える。

 それで十分だったのか、公爵は小さく頷き、そのまま目を閉じた。


 数分後、呼吸が深くなる。

 眠ったのだ。


 吹雪は窓の向こうで唸っているのに、この狭い部屋だけ妙に静かだった。

 私はその静けさを壊さないよう、そっと書類をめくる。

 途中、暖炉の薪が崩れそうになって立ち上がると、眠っているはずの公爵の手が、無意識に私の袖を軽くつかんだ。


「……公爵様?」

 離そうとしても、力は弱いのに指先だけ離れない。


 起こすのも可哀想で、私は結局、そのまま椅子へ座り直した。

 片袖を握られた姿勢のまま、片手で書類を読み進める。

 なんというか、非常に不便で、そしてとても困る。


 明け方前、偽命令の訂正と代替輸送契約はすべて整った。

 私は最後の一枚に承認印を押し、ようやく息をつく。


 すると、長椅子の上でルシアン公爵が目を開けた。

 最初に見たのは私の袖口、それから自分の手だった。


「……これは」

「掴まれていました」

「すまない」

「いえ」

 いえ、で済ませていいものか分からないが、他に言いようがない。


 彼はゆっくり体を起こし、机上の書類を見て、そして私を見た。

「全部終わったのか」

「はい。第三砦への再配分も、偽命令の無効化も」

「君は」

 彼はそこで言葉を切り、ひどく静かな声で言った。

「本当に、私がいないときでも前に進めるな」

「そういう仕組みにしたいと申し上げたでしょう」

「ああ」

「でも」

 私は少しだけ迷ってから続ける。

「公爵様がいた方が、早いです」

「……そうか」

「はい」


 その返事に、彼はほんの少しだけ笑った。


 吹雪の夜、同じ部屋で。

 それはたぶん、白い結婚の枠から見ればかなり例外的な出来事なのだろう。

 でも不思議と、嫌ではなかった。


 嫌ではないどころか。

 少しだけ、このまま朝が来るのが惜しいとすら思ってしまった。

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