吹雪の夜、同じ部屋で
第三砦への緊急補給は、丸一日かけてようやく形になった。
村の橇隊を使った小口輸送、薬草を乾燥のままではなく煎じ液にして先行便へ載せる手配、負傷兵搬送の中継所設置。
人も紙も休む暇はない。
そして二日目の夕刻、私はついに現地へ呼ばれた。
「奥様、旦那様から急ぎです!」
雪まみれの伝令が監理室へ飛び込んでくる。
「現地で契約確認が必要とのこと。南西峠の中継小屋へ!」
私は迷わず立ち上がった。
危険だから行くなと言われていたけれど、公爵本人が呼んだのなら話は別だ。
ハンナとエリオットの制止を振り切ることはせず、最小護衛をつけて出る。
吹雪の中を進むのは想像以上に厳しかった。
視界は白く、風は容赦なく頬を打つ。馬車は無理で、途中から橇に乗り換えた。
中継小屋に着いたとき、私は指先の感覚が半分ほど消えていた。
けれど扉を開けた瞬間、そんなことはどうでもよくなる。
「セラフィーナ!」
ルシアン公爵が、奥の机から立ち上がった。
彼は無事だった。だが顔色は悪く、左肩の外套には血が滲んでいる。
私は即座に駆け寄った。
「怪我をしたんですか」
「かすり傷だ」
「嘘です、その量は」
「大したことではない」
「皆さん、責任者の『大したことない』は信用してはいけません!」
小屋にいた兵たちが一斉に視線を逸らした。
つまり、みんな同じことを思っていたのだろう。
ルシアン公爵は苦々しい顔をしたが、反論より先にひとつ息を吐いた。
「……まずはこれを見ろ」
机の上に広げられていたのは、急報書と補給再配分指示書だった。
見るまでもなく綻びがある。いや、あるどころではない。
真っ赤だ。
「ひどい……」
「砦へ届いた追加指示だ」
公爵が低く言う。
「王都緊急優先令により、北方補給の一部を南回りへ転送せよ、と」
「偽造です」
「やはりそうか」
「公印は本物に近い。でも文体が違うし、緊急令に必要な付則が欠けています。なにより……」
私は紙の右端を指した。
「この条項、後から差し込んである。余白が裂けています」
兵たちがざわめく。
つまり、補給を止めたのは天候だけではない。
誰かがこの吹雪に合わせて、偽命令を流したのだ。
「すぐ訂正を書きます」
私はペンを取ろうとして、そこで自分の手がかじかんで震えていることに気づいた。
その様子を見たルシアン公爵が、無言で私の指先を包む。
ひどく冷たい手だった。
「公爵様こそ冷えています」
「君もだ」
「だからって」
「まず温めろ」
結局、私は机の前ではなく小屋奥の暖炉近くへ引っ張られた。
中継小屋は兵用の宿泊設備が乏しく、暖の取れる個室はひとつしかない。正確には、個室というより書類保管も兼ねた狭い指揮室だ。
そこへ私と公爵が押し込まれ、ミラと医師が傷と体温の確認をし、他の兵は外で詰めることになった。
「……同じ部屋ですね」
私が言うと、ミラがものすごく複雑な顔をした。
「緊急事態なので!」
「分かってるわ」
「本当に?」
「ええ」
「ならいいんですけど!」
何がならいいのかはよく分からないが、いまはそれどころではない。
医師が公爵の肩を診る。
「浅いですが、縫うほどではありません。安静に」
「無理だ」
「無理でも少し横に」
「仕事が」
「あります」
私が引き取った。
「なので、公爵様は横になってください。私が読み上げます」
「またそれか」
「有効だったので」
結局、狭い指揮室の長椅子にルシアン公爵、机に私といういつもの夜勤体制が、雪山の中継小屋で再現された。
ただし今回は、互いの距離が近すぎる。
暖炉の熱で室内は十分暖かいのに、公爵の顔色はまだ悪い。
傷の痛みだけではない。砦、補給、偽命令。破られた約束の総量が一気に彼へ返ってきているのだろう。
「声、もう少し近くで」
長椅子から掠れた声がした。
「聞こえませんか」
「外の風の音がうるさい」
私は仕方なく椅子ごと少し近づく。
膝と長椅子が触れそうな距離だ。
「では、読みます」
私は書類を整えた。
「第一砦から第三砦への薬草液中継、村組合オルネス担当。違約時は同等品を」
「承認」
「第二便の馬借契約、雪崩時は河岸倉へ迂回」
「承認」
「村のパン窯貸与については」
「……それも」
返事が徐々に曖昧になっていく。
私は書類から目を上げた。
ルシアン公爵の瞼が重そうに落ちかけている。
「眠いですか」
「少し」
「寝てください」
「まだ」
「大丈夫です。私が必要なところだけ起こします」
そう言うと、彼は薄く目を開けたまま、しばらく私を見ていた。
火の赤が夜色の瞳に映り込む。
「……君がいると、音が遠い」
「書類の音ですか」
「全部だ」
「そうですか」
「だから、少しだけ」
「はい」
「ここにいてくれ」
心臓が一拍、大きく鳴った。
私はとっさに「仕事がありますので」とだけ答える。
それで十分だったのか、公爵は小さく頷き、そのまま目を閉じた。
数分後、呼吸が深くなる。
眠ったのだ。
吹雪は窓の向こうで唸っているのに、この狭い部屋だけ妙に静かだった。
私はその静けさを壊さないよう、そっと書類をめくる。
途中、暖炉の薪が崩れそうになって立ち上がると、眠っているはずの公爵の手が、無意識に私の袖を軽くつかんだ。
「……公爵様?」
離そうとしても、力は弱いのに指先だけ離れない。
起こすのも可哀想で、私は結局、そのまま椅子へ座り直した。
片袖を握られた姿勢のまま、片手で書類を読み進める。
なんというか、非常に不便で、そしてとても困る。
明け方前、偽命令の訂正と代替輸送契約はすべて整った。
私は最後の一枚に承認印を押し、ようやく息をつく。
すると、長椅子の上でルシアン公爵が目を開けた。
最初に見たのは私の袖口、それから自分の手だった。
「……これは」
「掴まれていました」
「すまない」
「いえ」
いえ、で済ませていいものか分からないが、他に言いようがない。
彼はゆっくり体を起こし、机上の書類を見て、そして私を見た。
「全部終わったのか」
「はい。第三砦への再配分も、偽命令の無効化も」
「君は」
彼はそこで言葉を切り、ひどく静かな声で言った。
「本当に、私がいないときでも前に進めるな」
「そういう仕組みにしたいと申し上げたでしょう」
「ああ」
「でも」
私は少しだけ迷ってから続ける。
「公爵様がいた方が、早いです」
「……そうか」
「はい」
その返事に、彼はほんの少しだけ笑った。
吹雪の夜、同じ部屋で。
それはたぶん、白い結婚の枠から見ればかなり例外的な出来事なのだろう。
でも不思議と、嫌ではなかった。
嫌ではないどころか。
少しだけ、このまま朝が来るのが惜しいとすら思ってしまった。




