不器用に甘い人
手袋の件以来、ルシアン公爵は妙な方向に実用的な甘さを発揮し始めた。
まず、私の机の椅子が変わった。
翌朝出勤すると、座面の広い新しい椅子が置かれていたのである。
「これ、どうしたの」
ミラに尋ねると、彼女はにこにこと答えた。
「旦那様が、奥様は長時間座るのだから腰に良いものを、と」
「……そんなことまで」
「あと、机の高さも少し上げさせました」
「誰が」
「旦那様が」
次に、監理室の暖炉の薪が上質なものに変わった。
さらに夕方には、私の好きだと一度だけ言った濃い茶葉が追加され、三日後には書類の端を留めるための小さな真鍮クリップまで届いた。
「公爵様」
私はついに本人を捕まえた。
「最近、備品改善がすごいのですが」
「問題があるか」
「いえ、ありがたいですけど」
「ならいい」
「よくないです。予算が」
「私費だ」
「もっとよくないです」
「なぜだ」
「そういうのは、困ります」
「何が困る」
「……全部です」
ルシアン公爵は本気で分かっていない顔をした。
この人、戦場の機微には鋭いのに、こういう方面だけ本当に鈍い。
「君の作業効率が上がるなら必要経費だ」
「必要経費で真鍮クリップを贈る人はあまりいません」
「気に入らなかったか」
「そういう話じゃありません!」
思わず声が大きくなったところで、後ろを通りがかったハンナとミラが揃ってにやにやしているのが見えた。
非常に腹立たしい。
その日の午後、私は契約確認のため領都市場へ出た。
公開入札で入った新規商人たちの納品状況を見るためだ。
市場は以前よりずっと活気があった。
小規模商人が増え、荷馬車の出入りも多い。防寒具を売る露店、袋材を運ぶ組合、薬草の下処理を請け負う女性たち。
動きが分散すると、町はこんなにも息をし始めるのかと少し感心する。
「奥様!」
振り向くと、先日雇ったネラが走ってきた。
「今朝入った荷、全部検品終わりました! 数量も契約通りです」
「よかった。問題は?」
「木箱の一部に水染みがありましたけど、運送組合がその場で補償を認めました」
「早いわね」
「契約書を見せたら一発でした!」
ネラが目を輝かせる。
ちょっと嬉しい。
そんな様子を見ていた露店の女主人が、ぽつりと呟いた。
「奥様が来てから、紙が怖くなくなったよ」
「紙が?」
「前は上の人間が書いたものは絶対だったからねぇ。今は、読めば分かるようにしてくれてる」
その言葉に、私は一瞬返事を失った。
紙が怖くなくなった。
それはきっと、私が一番やりたかったことのひとつだ。
「ありがとうございます」
私は素直に頭を下げた。
「そう思ってもらえるなら、頑張った甲斐があります」
そこへ、後ろから低い声がした。
「それはよかったな」
振り向くと、ルシアン公爵がいる。今日は外回り帰りらしく、外套に雪が少し積もっていた。
「どうしてここに」
「兵站部から報告を受けに来た」
「それだけですか」
「……ついでに、君が昼食を忘れていないか確認に」
「確認に」
「契約だろう」
また契約を盾にされた。
最近この人、便利に使いすぎである。
市場の一角で簡単な昼食を取ることになり、私はパンと煮込み、ルシアン公爵は肉の串焼きを買った。
長椅子に腰掛けて食べていると、向かいの屋台の子どもがこちらをじっと見てくる。
「どうしたの?」
私が笑いかけると、男の子ははにかんで言った。
「おくさま、ありがとう」
「私?」
「おかあが、ことしはごはんがたかすぎなくてたすかるって」
胸が少し熱くなる。
私は子どもの頭を撫で、屋台から小さな焼き菓子を買って渡した。
その様子を横から見ていたルシアン公爵が、なぜかしばらく無言だった。
「公爵様?」
「いや」
「何ですか」
「君は、数字を見る時と人を見る時で顔が違う」
「そうでしょうか」
「ああ」
「どちらが怖いですか?」
「数字を見る時だな」
「ひどい」
「人を見る時は……」
彼はそこで少しだけ視線を逸らした。
「やわらかい」
また、急にそういうことを言う。
私は串焼きの包み紙を無意味に折りたたんで時間を稼いだ。
「それは」
「何だ」
「ちょっと反則です」
「事実を述べただけだ」
「そのやり方、本当にずるいです」
市場から戻る道すがら、ミラが後ろで小さく歌いだしそうなほど機嫌が良かった。
何も言わないが、どうせ全部見ていたのだろう。
監理室に戻ると、机の上に小さな箱が置いてあった。
開けてみると、金属製のしおりが二枚入っている。ひとつには細い線で雪の結晶、もうひとつには小さな羽根ペンの彫り込み。
「……公爵様」
振り返ると、本人は書類のふりをしてこちらを見ていない。
「これは」
「市場の鍛冶屋が作っていた」
「だから買ったんですか」
「便利だと思った」
「しおりが?」
「君はすぐ資料を積むから、途中が分からなくなる」
「……それは、まあ、たまに」
「なら必要だ」
必要。
そう言われるたびに、昔の嫌な記憶が少しだけ疼く。
けれどこの人の言う必要は、何かが決定的に違う。
私を使い潰すためではなく、働きやすくするために向いているからだろうか。
あるいは、そこにちゃんと私自身への眼差しが含まれているからだろうか。
「ありがとうございます」
私はしおりを大事に引き出しへしまった。
「大切に使います」
「そうしてくれ」
その返事が、ほんの少しだけ嬉しそうに聞こえたのは、たぶん気のせいではない。
不器用に甘い人。
頭の中でそう定義した瞬間、なんだか負けた気がして、私は少しだけ悔しくなった。
ここまでで関係性の温度が少し上がってきました。
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