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12/17

公爵様の安眠は、私の机から始まる

 その夜から、臨時監理室の隣に小さな休憩室が用意された。


 用意したのはルシアン公爵である。

 正確には、私が「夜勤をするなら仮眠場所が必要です」と言い、彼が「なら私も使う」と言い出した。


 結果、監理室の壁一枚向こうに、長椅子と毛布、湯沸かし器を置いた簡易休憩室ができた。

 どう考えても公爵用の設備なのに、公爵本人は「君の業務効率のためだ」と言い張っている。

 苦しい。


「奥様、旦那様って本当に分かりにくいですね」

 湯を注ぎながらミラがしみじみ言った。

「同感」

「でも昨夜、休憩室のクッションを選んでたんですよ」

「えっ」

「かたいのは駄目だ、とか、毛布は軽い方がいい、とか」

「……誰のために?」

「奥様のためじゃないですか?」

「公爵様ご自身のためかもしれないわ」

「半分ずつでしょうね」

 ミラはにやにやしている。

 こういうときだけ妙に勘がいい。


 その晩も、書類整理は深夜まで続いた。

 北方の穀物輸送記録、退役兵の雇用契約、冬季医薬品の配分表。綻びの多い資料から順に分類していく。

 ミラは途中で睡魔に負けて隣室で仮眠に入り、代わりにヨナスが記録係として残っていた。


「奥様」

「何でしょう」

「旦那様のことですが」

 ヨナスはペン先を整えながら、静かに言った。

「昔はあそこまで眠れない方ではなかったのです」

「そうなんですか」

「五年前、北方遠征で大きな補給事故がありました。旦那様の異母弟君が、その混乱で亡くなられた」

「……」

「補給契約が改竄され、予定していた薬と防寒具が届かなかったのです」


 私は手を止めた。

 胸が冷える。


「それ以来、旦那様は『自分が見落とした』と仰って、何でもご自身で抱え込むようになりました」

「見落としたのは、改竄した側でしょうに」

「ええ。ですが旦那様は、責任の帰属をそう考えられる方ではないのです」


 なるほど。

 強い人ほど、自分で背負ってしまう。

 それで壊れていく。


 そのとき、監理室の扉が開いた。

 ルシアン公爵だ。外套を肩に掛けたまま、いつもよりさらに目元が険しい。


「また頭痛ですか」

 私が尋ねると、彼は一瞬だけ眉を寄せた。

「顔に出ているか」

「かなり」

「そうか」


 否定しないところが、以前よりは進歩している気がする。


「休憩室を使ってください」

「まだ仕事がある」

「その顔で?」

「……ある」

「では、ここへ資料を持ってきてください」

「何を言っている」

「休憩室で横になって、私が読む資料の要点だけ聞いてください。確認が必要なところだけ起きればいい」

「そんなやり方が成立するか」

「成立させます」


 ルシアン公爵はしばらく私を見ていたが、やがて観念したように椅子を引いた。

「十分だけだ」

「三十分です」

「二十分」

「二十五」

「……分かった」


 交渉成立である。


 私は綻びの強い契約束を選び、公爵は休憩室の長椅子へ横になった。

 扉は開けたまま。こちらの声が届く程度の距離だ。


「まず、退役兵再雇用の件ですが」

 私は読み上げる。

「旧契約では報酬支払いが季末一括になっています。これでは冬前に金が回らないので、月次に改めたいです」

「理由は」

「防寒具と食料の即時購入が必要だからです」

「承認」


 短いやり取りを何度か繰り返すうちに、公爵の返事は少しずつ短く、遅くなっていった。


「次に、薬草輸送の代替路ですが」

「……ああ」

「峠越えより川沿いの方が」

「任せる」

「投げましたね?」

「……」

「公爵様?」


 返事がない。

 私は書類を置き、隣室を覗き込んだ。


 長椅子の上、ルシアン公爵は片腕を額に乗せたまま眠っていた。

 さっきまでの険しさが消え、呼吸は深い。

 扉越しに私の声を聞きながら、そのまま落ちたのだろう。


「すごい……本当に寝ましたね」

 いつの間にか起きていたミラが、扉の陰からひそひそ言う。

「ええ」

「奥様の声、子守歌みたいなんでしょうか」

「それはないと思う」

「じゃあ紙をめくる音?」

「それもどうかしら」


 でも、もしかしたら。

 私の声というより、私が綻びを整理していく過程そのものが彼を落ち着かせているのかもしれない。

 破綻が見える場所で、破綻が放置されないと分かること。それが安眠につながっているなら、あまりにも皮肉で、でも少し救いがある。


 私は毛布を整え、隣の卓へ湯を置いた。

 起きたときに喉が渇くだろうと思って。


「奥様」

 ミラが小さく笑う。

「優しいですね」

「労務管理よ」

「またそうやって誤魔化す」

「誤魔化してないわ」

「じゃあ、さっき旦那様が眠ったのを見て、ちょっと嬉しそうだったのは?」

「……見てたのね」

「ばっちり」


 返す言葉がなく、私は咳払いした。

 ミラはますますにやにやしている。困った侍女である。


 そのまま一時間ほど経った頃、公爵が静かに目を開けた。

 最初に視線を向けたのは、私でも天井でもなく、監理室の机に積まれた整理済み書類だった。

 それを見て、彼はほんの少しだけ安堵したような顔をする。


「起こしてくださればよかったのに」

「起きる必要がなかったので」

「仕事が進んでいる」

「進めました」

「……君は有能だな」

 さらりと言われ、私は逆に言葉に詰まった。

「いま、普通に褒めました?」

「事実を述べただけだ」

「最近その手法、多いですね」

「不満か」

「いえ。困るだけです」


 公爵は起き上がり、卓上の湯を一口飲んだ。

 そして、ふと低く言う。


「弟が死んだ夜も、私は帳簿を見ていた」

「……」

「あと一日早く気づけていればと思った。だから今も、見落とすのが怖い」


 私はその言葉を受け止めるのに数秒かかった。

 やがて静かに答える。


「なら、二人で見ましょう」

「セラフィーナ」

「一人で見落とすのが怖いなら、二人で確認すればいい。三人でも四人でも。仕組みにしましょう」

「仕組み」

「ええ。人が倒れないように」


 ルシアン公爵はしばらく無言だった。

 それから、ごく小さく頷く。


「……ああ」

 その一言は、どんな誓約よりも少しだけ重く聞こえた。

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