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プロローグⅧ『すのぴ:Waking again』◆

 誰何の問いに明確な答えはなく、存在の証明は朧げな記憶の断片——

『自分は何者なのか?』

 それは朧げな記憶の残滓だった。


 温かい光で包まれた空間で、自分に背を向けて立つ姿があった。

 腰まで伸びた白亜の髪を流れるそよ風に泳がせ、見上げた視線はここではない何処かへと思いを馳せているのだと感じさせる。


「もう……だけ……なっちゃった……」


 目の前の女性が振り返ることなく、こちらへと言葉を投げ掛けてくるが、音は大気へ溶けていき、僅かにしか聞き取れなかった。

 ただ、


 ——悲しそうな声……


 きっと、その頬は流れる涙で濡れ、悔しさを堪えるために噛み締めたであろう口元は、こちらの心を掻き乱すだろう。

 だけど、そうさせないために、女性は毅然と立ち、前を向き続ける。

 その背に掛ける言葉を探していると、女性は目元を拭い、こちらへと振り返る。

 しなやかな手足の動きは悲しみの中であっても気品さを感じさせ、その表情は、


 ——見えない……


 靄がかかったように、女性の顔が認識出来ない。

 それでも——どうしようもなく、胸が締め付けられた。


 彼女は、自分にとって特別な存在なのだと、理屈ではなく、心が知っていた。


 静かな動作で、彼女がこちらへと手を差し伸べてくる。

 それに応えるよう、その手を取ろうとしたところで、


「——ッ!?」


 身体の動きが停止する感覚に襲われる。

 何故、という問い掛けは発する前にその原因が視界に映る。


 影が蠢く。


 生き物のように。


 足元の影が、ゆっくりと形を変えていた。


 四肢へ絡みつき、地面の奥へ、奥へと引きずり込もうとしてくる。


 底なし沼の泥のような質感を持つ影から抜け出そうと試みる。


 身体を動かそうとしてみるが、抵抗は虚しく、余計に身体を影の中へと沈め込ませてしまう。


 突然の出来事になす術もなく、瞬く間に下半身が闇に飲み込まれていく。


 黒に沈んだ部位の感覚が無くなっていき、そこに自身の身体が繋がっているのかさえ覚束なくなってくる。


「——!!」


 女性がこちらに駆け寄り、連れて行かれまいと手を掴もうとしてくれる。


 しかし、彼女までもがこの漆黒の奥底へと連れて行かれるかもしれない。

 そんな不安から彼女に制止を呼び掛けようとして、


「——……」


 そして、その時になってようやく、自分は大切なことを見失っていることに気付いた。


 最早首から下の感覚が途切れてしまった中で、気付いてしまった事実に、喪失感と申し訳なさで溢れかえる。


 必死に手を伸ばす。

 彼女は、恐らくこちらの名前を叫んでいる。

 大切な存在だったはずの彼女を見つめ、それでも——彼女の名前が、思い出せなかった。



「おい、大丈夫か!?」


 身体を揺さ振られた衝撃と呼び掛けによって、意識が表層へと浮上してくる。


「ん……」


 全身のこわばった筋肉を解すように身動ぎし、重たい瞼をゆっくりと開けていく。


 淡い光が目に刺さる。

 眩しさに視界が揺れ、しばらく像を結ばなかった。


 ようやく視界が周囲の状況を受け取ることが出来るようになったタイミングで、こちらの様子を窺っていた男性が、再び口を開いた。


「大丈夫か? 随分うなされていたみてぇだったが」


 精悍な顔立ちに鋭い視線を携えながら、男は力強い声に心配の色を滲ませて訊ねてくる。


「えっ……と……」


 声を出そうとする。

 だが、視界と同じように言葉もうまく出てこない。


 その様子を見て、騎士の鎧を兜以外身につけた青年が男の背中越しから言葉を挟んでくる。


「まだ意識が朦朧としているようですね。今がどういう状況か分かりますか?」


 問われ、視線を動かす。


 そこは自然光ではなく、発光する鉱石により視界が確保された洞窟内、といった様相だった。


 そして、自分はそこで横たわっている状態である。

 仰向けになった自分の背と硬い地肌の間に柔らかな感触を感じられ、広げられた布か何かの上にいるのだと理解する。


 軋む身体に力を込め、どうにか上体を起こそうとすると、男性が背を支えてくれる。

 おかげで、どうにかそれを完遂する。


「ここは……」


 自分が今どこにいるか分からない。

 自分の様子を窺っている彼らのことも知らない。


 青年が訊いてきた、どういう状況かなどもってのほかだ。

 分かるとすれば、


「ご自身の名前は、分かりますか?」

「——すのぴ」


 青年の問い掛けに、自然と音が紡がれた。


 耳に馴染んでいるこの響きが、自身の名前なのだと疑うことなく、口にしていた。


 しかし、自身のことで思い出せるのはそれぐらいだった。

 どこで生まれ、家族は何人かといった情報が引き出せない。

 何故自分が——


「あの化け物は!?」


 そこでようやく思い至る。


 自身ことは分からないことばかりだ。

 だが、網膜に焼き付いた光景から自身を何度も捕食し続ける存在を思い出す。


 途切れ途切れの光景だが、自分は繰り返しあの化け物に呑み込まれていたのを覚えている。


 助けられた、という希望はしかし、この身にこびりついた絶望が直ちに塗りつぶしていく。


 ——逃げようとしても、アレからは逃げられない……


 かつて自分が試みた末の結末が、やがて訪れる結果を想起させる。

 心にのしかかる真っ黒い気持ちに、思考が覆われていく。


「訊いてもいいか?」


 そこで、男性から声が掛かり、いつの間にか俯いていた視線をもたげていく。

 お読みいただきありがとうございます! 


 少しでも気に入っていただけたり、続きが気になるなぁと感じていただけましたら、幸いです。

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