第56章『招かれざる合流』
突き付けられるは、非情の現実。
されど、それこそが世の必定なれば——
『仕方がないこと』
夜の静寂に満ちた濃紺が、世界を満たしていた。
果てを見通すことは叶わず、無辺の闇の中で漂い続ける。
意識は茫洋として、自身の境界すら曖昧に溶け出しているように感じてしまう。
何故このような空間にいるのか。
断絶された記憶に自問は答えを導かない。
存在の根底が揺らぎ、大切な何かが千々に引き裂かれたように、胸の奥が苦しくなる。
時間の流れもが不確かな感覚に苛まれる中、不意に視線の先で変化が訪れる。
青黒い空間が波打つ。
波紋が重なり、溶け合い、形を浮き上がらせていく。
陽炎のような相貌は不確かだった。
だが、その体格が、特徴的な長耳は、まるで鏡面に映し出された——己の姿のようで——
「——ッ」
それが、自分と同質の存在であると直感した瞬間、臓腑を締め上げられるような感覚を味わう。
嫌悪、ではない。
憎悪や拒絶でもない。
その感情に名を付けるのならば——悔恨や罪悪感、なのかもしれない。
——君は……?
問い掛けが喉を振るわすことはなかった。
ただ視線だけが、空間の揺らぎを見据える。
青黒く象られた陽炎は、何も答えない。
音もなく、こちらとの距離を詰めてくる。
手を伸ばせば触れられる位置で、相手の歩みが止まる。
淀みのない動作で持ち上げられた腕に、意識が集中する。
指先が一つ突き出され、それがこちらの胸部に触れる。
その動作の意味を正確に理解出来たとは思わない。
だけど、自身の内側に何かがあると示されているような気がして——
どういうことなのか。
眼差しだけで、その真意を問い掛けても、青黒い揺らめきは何も答えない。
代わりというように、指先がこちらの背後を指し示した。
吸い寄せられるように振り返ると、
——あれ、は……
濃紺の闇の中。
視線を凝らすことで、どうにかその姿を捉える。
膝を抱え、顔を伏して蹲る、誰か。
焦燥感に突き動かされるかのように、気が付けば駆け出していた。
無辺の闇の中では、距離感は曖昧だった。
近付いている実感が持てないまま、走り続ける。
足裏に伝わる感触が泥土のように変化して、こちらを絡め取ろうとしてくる。
疾走はやがて遅々とした歩みに変わる。
だけど、前に進むことを止めることはしなかった。
——行かなきゃ!
独り、闇の中で蹲る姿を、放っておくことは出来ない。
だって、あそこに居るのは——
◆
「なるほど……そんなことがあったんですね」
ぽーの得心がいったという声が静かに染み渡る。
とらから語られた内容に、すのぴに起きた異変と結び付いたようだった。
「やっぱり、あの時スノーウルフの群を殲滅したのはすのぴだったんだね」
ぽー同様に事情を知らずにいたレインが、雪崩後に起きた惨状を思い返したようで、こちらも納得の頷きを繰り返している。
その表情が、どことなく嬉しそうにしているの見て、とらは胸の奥に澱のようなものが蟠るのを感じた。
嫌な予感と呼ぶにはあまりにも些細な棘を飲み込むようにして、話を続ける。
「……事情が事情だったからな。黙っていて悪かった」
「雇われの身としては、ちゃんと情報共有しておいて欲しかったかな」
「まぁまぁ、とらさん達にも事情があるようですし」
冗談交じりの口調のレインを、ぽーが宥めるように割って入ってくる。
だが、レインの言うことも尤もだ。
契約関係である以上、何から何まで打ち明ける必要はないだろう。
しかし、護衛対象が暴走する危険性を持ち合わせているという情報は秘匿するべきではなかった。
「この件が落ち着いたら、ちゃんと話させてくれ」
もちろんぽーにもな、と続ける。
ぽーは曖昧な笑みを浮かべていたが、ここまで場数を共にした以上、全くの無関係と爪弾きにするのは違うだろう。
むしろ、生物学者としての知見を今後も頼る場面があるだろう。
打算混じりであることに、内心で苦笑を溢す。
——にしても……
意識を、鞘に包んで背負っているすのぴへと向ける。
今は静かな寝息をたてているが、意識を失う直前の様子は明らかに異常だった。
ハラミを助けるために誰よりも早く飛び出したすのぴ。
その姿は不気味な青黒い紋様が生物のように這い回り、
——言動が荒々しかったな……
普段の温厚な姿とはあまりにも懸け離れていた様子に驚愕を禁じ得なかった。
あれも暴走による影響だとすると、良くないものに侵食されているのだという考えが頭を過ぎる。
それと同時に、嫌でも異形の災禍の姿が想起される。
暴走の果てに行き着く先が、あの化け物なのかもしれない。
そんな悍ましい推測を振り払うように、歩調を速めていく。
すのぴのことは気掛かりだが、目下の問題としては、シェイプシフターへの対策をどうするか。
それと、ハラミについてだろう。
すのぴに助けられ、ここに逃げ込んでからというもの、ハラミは見るからに意気消沈といった様子だった。
バニラに促されるように、ハラミは重い足取りで後をついてきている。
その姿は、意図的にすのぴと距離を取っているようだった。
助けられた際に浴びせられた怒声により、すのぴを恐れているというよりは——
——すのぴにそうさせてしまったことへの申し訳なさ、ってところか……
離れてはいても、すのぴを気遣うような視線が、ハラミの内心を物語っているように感じられた。
すのぴの変わり様が何に因るものかは分からない。
だが、ハラミは自身に原因があるのだと感じてしまっている。
——ちゃんと話し合わさせねぇとな……
何かの勘違いかもしれない。
あるいは、本当にすのぴがハラミに対して怒りを覚えて力を暴走させかけたのかもしれない。
どちらにせよ、すのぴとハラミには言葉を交わす必要がある。
——早く、目ぇ覚ませよな……
背に感じる鼓動へ、心の中で呼び掛ける。
返ってくる声は響かず、まばらな足跡が掠れる音だけが狭い通路に溶けていった。
◆
「着いたぞ」
先頭を行くとらから声が掛かり、バニラは詰まりそうになっていた息を吐き出した。
とらの肩越しに顔を覗かせると、視線の先は広大な空間が待ち構えていた。
高さは20メートル程だが、広さは先程の吹き抜けの倍以上はありそうだった。
大小様々な岩石が辺りに散らばっていて見通しが悪かったが、見える範囲でざっと壁面を見渡したところ、いくつか通路へ繋がる入り口を見つける。
そのどれもがヒトが二人横並びで通れるかどうかの手狭なものばかりだ。
魔物の気配はなく、もしかしたら迷宮区画の安全地帯と呼べる場所なのかもしれない。
「とらさん! 無事でしたか!」
こちらの到着に気付いたのか、岩陰から先程見掛けたばかりの青年が姿を表し、安堵の表情で出迎えてくれる。
「まぁな……ただ、随分厄介な相手だったからな。一時撤退、ってところだ」
「そんな、とらさんでも……」
とらとローウェンの関係性は分からないが、彼の中でのとらの評価はかなり高いようだった。
そのとらをもってしてもあの魔物を仕留められなかったとあって、ローウェンの表情に影が差す。
「そう暗い顔すんなっての。やり合ったお前達の意見も聞きたいが、良いか」
「も、もちろんです! どうぞ、こち、ら……え?」
先導しようとしていたローウェンの表情が、見る間に緊張を帯びていく。
鋭い視線が、こちらのすぐ隣に注がれているのに気付き、バニラは咄嗟に前に進み出る。
「お、お待ちくださいまし!」
「とらさん——どういうことですか!?」
こちらの制止など聞こえていない様子で、ローウェンが信じられないとでも言うように、糾弾の叫びを挙げる。
「どうして——ミノタウロスを連れているんですか!?」
拳を構え、今にもハラミに襲い掛かってきそうである。
とらが刺激しないよう、落ち着いた声音でローウェンに呼び掛ける。
「落ち着け。確かにこいつはミノタウロスだが、危害を加えてくるような奴じゃねぇ」
「……いくら貴方が言うことでも、そう簡単に信じられるとでも?」
とらの説得も虚しく、ローウェンの警戒を強めるだけであった。
「ローウェン、何があったの!?」
騒ぎを聞きつけたのか、野営地と覚しき場所から武装した者達が駆け付けてくる。
先頭に立つ女性をはじめ、皆が憔悴した様子だった。
だが、ハラミの姿を捉えた直後にローウェン同様、臨戦態勢をとってくる。
——拙いですわね……
ローウェン達は、先のヒュドラ擬きとの戦いでかなり消耗していた。
野営地に逃げ込み、気を休めようとしていたところで、ミノタウロスを連れ込まれたとあっては、殺気立つのも当然だろう。
こちらがどれだけハラミが無害だと説いたところで、
「……自分は、立ち去りますので……ご安心、ください」
震える声を押し殺すように絞り出された声に、ハラミの顔を見上げる。
ミノタウロスの表情の機微は読み取り難いが、その瞳に宿した悲しみと諦観を感じ取り、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
ローウェン達から、ハラミが声を発したことに対する驚愕と困惑が広がっているのを感じるが、今はそれどころではない。
ハラミが肩を落とし、覚束ない足取りでこの場から離れていく。
ヒトと魔物は相容れない。
ハラミと出会うまで、自分も当然のことだと感じていたことが、改めて突き付けられる。
ローウェン達の反応は至極当然である。
彼等を非難することは出来ない。
だけど——
「——ッ! ハラミさんはお任せくださいまし!」
そう言って駆け出した身に、とらが力強く頷き返してくれる。
見送られる視線に背を押され、薄闇の中に消えて行こうとするハラミを追い掛ける。
——貴方を、独りにはさせませんわ!
お読みいただきありがとうございます!
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