第55章『撤退』
臆病者と罵るか。
英断と称えるか。
その判断は後より生じるものなれば——
『ここは退こう』
宙に浮かんで留まっている黒い靄。
それを眺めていると、頭の中に火花が散ったような感覚に襲われる。
暗がりの中で明滅を繰り返すそれは次第に勢いを増していき、知らないはずの知識が濁流のように脳内に流れ込んできた。
「時空、穿穴……」
初めて口にするはずの言葉が、妙に耳に馴染んでいた。
思い出せそうで、最後の一欠けらが喉元でつっかえているようなもどかしさを感じる。
——思い出せ!
強く念じたところで、都合よく何かを思い出すことはなかった。
代わりに、自分の奥底から這い出てくるものの感覚に襲われる。
気持ち悪い。
一瞬視界がぶれたように感じ、
——あれ、は……
いつの間にか、あらゆる存在が全ての動きを停止させてしまっており、意識だけがその自由を許されていた。
指一本動かせない状態に困惑していると、青い炎のような揺らめきがヒトの形を成していく。
形作られていく輪郭が鮮明になっていくにつれて、止まっているはずの鼓動が跳ねたような錯覚を覚える。
見てはいけないものを見てしまったような忌避感が、全身を飲み込んでいく。
揺らぎが収束し、ヒトの形を露わにしたそれは、
——僕、なの……?
青黒い姿だが、アレは自分の容姿と瓜二つだった。
そのことを理解したが、本能が納得を拒んでいた。
全てが静止した状況で、青い似姿が浮かべていた表情が、あまりにも——凄惨なまでの狂気を孕んだ笑みへと口角を吊り上げていくことに、心が拒絶している。
「————————」
目の前の存在に誰何の問いを投げ掛けようとしても、声は生み出せず、ただただ視線を交差させるだけだった。
数秒——現状でその感覚が正しいかどうかは不明だが、体感としてはそれぐらいの時間経過だと思うが——の後、青黒い姿の口が歪み、言葉を発しているように見え、
——え……?
音は響いてこなかったが、何かを伝えてようとしているのだと、直感が訴えかけてくる。
何とかそのメッセージを受け取ろうと、口の動きに集中しようとした所で、
「おい! 返事をしろ!!」
耳朶を打つ呼び声に、意識が引き摺り戻される。
そして、
「ッ! ハッ——げほっ!」
いつの間にか呼吸さえ忘れていたようで、噎せ返りながら肺に空気を取り込んでいく。
滲み出る涙で歪んだ視界が、心配そうに覗き込んでくるとらやバニラの姿を捉える。
世界が動きを取り戻したことに気付き、先程まで存在していた自分に似た何かは最初から存在していなかったように跡形もなく消えてしまっていた。
——皆には、見えていなかった……?
とら達の反応からして、先程の奇妙な時間は自分だけが体験したもののようだ。
疑問が際限なく溢れてくるが、今も目の前に存在する異変を優先すべきだと思考を切り替える。
時空穿穴。
それに対する仲間達の問いに、植え付けられたような知識で答えていく。
変色した自身の体毛や頭の中に重く圧し掛かってくる知らないはずの知識に違和感を覚えながらも、どうにか受け答えを続けていく。
結論は、現状では打つ手なしである。
時空穿穴が開くタイミングを狙って攻撃を打ち込むという案も浮かんだが、有効打になるかも分からない上に、接続のタイミングが把握出来ない以上、忍耐勝負となってくる。
急激に増えた知識量で脳が焼けきれそうな痛みを覚え、思わず膝をついてしまう始末であったので、とらから一時撤退の提案が挙がり、素直に頷こうとしたが、
「——逃げてください!!」
頭上から降り注いだ警告に、咄嗟に反応出来なかった。
一瞬の内に視界が何かに覆われ——それが、頭部を再生させながらこちらを飲み込もうと飛び掛かってきた大蛇であると理解した時には、既にその顎が閉じ切ってしまう瞬間で——
「まったく——油断し過ぎだよ」
嘲笑を帯びた声が全身を冷ややかに撫でる。
直後、細切れに刻まれた肉と骨が宙を舞い、再生されたばかりの魔血が肌を打ち付けてくる。
再生能力はオドから放出されたマナによって発動するという認識から、再生するとしたら胴体——現状ではあの黒い靄を基点にと予測していた。
それが切断された首からとは思いも寄らなかったし、独立して襲い掛かってくるなんて想定の埒外だった。
咄嗟のことに反応が遅れていると、赤黒い光景の向こう側に立つ人物がやれやれといった様子で双剣を振るい、刀身を濡らす血を払い飛ばす。
「レインさん!」
「それに、こんなのでどうにかなると思われたのは——非常に腹立たしいんだけど」
こちらのことなど特に気にした様子もなく、静かな、それでいて明確な怒気を孕んだ声に全身が粟立つのを抑えられない。
その怒りが、大蛇に向けられたものかと思ったが、そうではなかった。
仰ぎ見る視線が誰を捉えているのかはすぐに分かった。
「ハラミさん……」
上層から様子を伺っていたのか、こちらの危機を知らせてくれたハラミに対して、レインは余計なお世話と言わんばかりに苛立ちを露わにしている。
「……まずいですね」
その傍らで、ぽーの表情が緊迫したものへと色を変えていく。
彼の言葉が何を意味するのか、瞬時に理解する。
ハラミが、危機的状況に陥ったのだ。
ぽーがハラミに施した隠匿の魔法は、あくまでマナの波長を認識させないものだ。
肉体そのものを見えなくするものでもなければ——
——あんな大声を出したら!
外界に干渉を行い、視認されたとなれば、その効力は霧散したものと考えるべきだ。
そうなると、この場で一番マナの出力が高いハラミは、魔物からの標的となってしまう。
こちらが強制的にマナを放出すればヒュドラの気を引けるかもしれないが、
——リスクが、デカ過ぎる!
下手をすれば暴発したマナにより、仲間達を危険に晒してしまうかもしれない。
嫌な予感が首をもたげてくる間にも、事態は刻一刻と進行していく。
黒い靄が脈打つ。
そこから肉が泡立つように膨れ、骨が軋み、鱗が編まれていく。
驚異的なスピードで再生された大蛇の首がこちらを囲うように蠢きだす。
敵意を剥き出しにした眼光がこちらを射貫いてくるが、九つある首の一つだけは異なる動きを見せた。
上層の壁面へと真っ直ぐ突き進むその先に、恐怖で涙を浮かべたハラミの姿を見付ける。
迫り来る大蛇を前に後退り、ハラミは固く目を閉じて、
「こ、来ないでくださいぃ!」
そんな、情けない嘆願の言葉が耳に届いた瞬間、自分の中で何かが弾けるような感覚に襲われる。
今からでは間に合わない、なんて思考とは裏腹に、気が付けばハラミに迫った大蛇の横っ面を蹴飛ばしていた。
「——!!?」
大蛇にとっては完全な不意打ちだったのだろう。
困惑と怒りが混じり合った悲鳴を溢しながら、力を失ったように地面目がけて落下を始める。
それを尻目に、煮え立つ感情をぶちまけるよう——
「なに——してんだ!!!!」
口をついて出た荒々しい口調に、内心驚きを感じずにはいられなかった。
それでも、今この時はそれを止めようという気にはなれなかった。
ハラミが戦いを恐れていることは理解している。
その理由は本人にも分かっていないが、きっと彼の優しい性格が理由の一つだと思っている。
だが、迫る脅威に対して目を閉じて、届くはずのない懇願をわめきちらす姿を——到底、受け入れることは出来なかった。
それは、戦いを恐れる者の振る舞いではない。
抗うことを諦めた——TOIKIに囚われていた頃の自分を彷彿とさせる姿に、嫌悪を伴った衝動に駆り立てられる。
「え……?」
「ボサッとしてないで、逃げるんだよ!!」
大蛇を蹴り飛ばした反動で、ハラミの傍らへと降り立つ。
何を言われているのか、あるいは事態そのもの理解していないのか、呆然としているハラミを見て、またしても感情に熱を帯びるのを感じる。
苛立ちに任せて、こちらの胴体程ある腕を掴み、力任せに引っ張る。
本来であれば力強く感じるであろうその腕には、今は頼り無さしか感じられなかった。
まるでどうすれば良いのか分からない迷い子のようなハラミを引き連れ、吹き抜けへと身を投げ出す。
「ヒッ——!?」
ハラミの短い悲鳴が聞こえるが、意識は眼下へと集中させる。
再生した大蛇を相手にとら達が奮戦しているが、切断したり粉砕したところで、再生を続ける相手に、このままでは分が悪い。
——撤退を——
そうする為にも、敵の包囲が薄い所を探し出す。
視線を凝らし、入り乱れる戦況を俯瞰する。
身体が重力に引かれて落下を始めてすぐに、包囲が手薄となっている場所を見つけ出すことに成功した。
幸いにもその場所は、これから退避しようとしていた通路への最短ルートとなる箇所であった。
空中で身を翻し、足裏から圧縮したマナを放出して軌道を整える。
放ったマナの反動で加速した勢いを乗せて、
「円旋蹴撃・墜!!」
初撃で放った一撃を遥かに凌ぐ威力が大蛇の身を砕き、地面に亀裂を走らせる。
直前で手を離したハラミの着地を補助して、周囲の状況を確認すると、先程の威力を警戒したのか、残った大蛇の首が遠巻きに様子を伺ってくる。
すぐに敵意に任せて攻撃を再開してくるだろうが、僅かな隙であってもこちらとしては十分だった。
「こっちだ!!」
呼び掛ける前には既にこちらの意図を察した仲間達が応戦から撤退へと切り替え、こちらへと向かってくる。
遅れて、逃がすまいと追撃を掛けてくる大蛇であったが、殿のとらが放った地殻の槍群に阻まれて、その牙がこちらへと届く事はなかった。
◆
「——臥龍堅殻・守護甲陣!」
迫る鋭牙を掻い潜り、通路への退避が完了する。
直後に、地殻を隆起させて隔壁を作り出す。
「レイン!」
「氷牢壁!」
こちらの呼び掛けに、意図を汲み取ったレインが戦技を放つ。
防壁を覆い、隙間を埋めるように氷の檻が形成される。
敵の巨体では通路への浸入は物理的に無理である。
だが、相手が姿を変えられる存在であるならば話は別だ。
追撃を潰すためにも<大空洞>に繋がる穴は塞いでおく必要がある。
——時間稼ぎでしかねぇが……
戦技の効果も永続ではない。
籠められたマナが枯渇すれば、障害は解けてしまう。
そうなれば、ヤツはこちらを追ってくるだろう。
すぐにでもこの場を離れなくてはならない。
皆を急かすように、とらは声を張り上げる。
「全員無事だな? ローウェン達の拠点まで急ぐぞ!」
それぞれから頷きや短い同意が返ってくる。
その中で唯一、すのぴからの反応がなかった。
先頭に立つ背中は、こちらの声など届いていないように進行方向を見据えていた。
「す、すのぴさん?」
彼の傍らにいたハラミが恐る恐るといった様子で呼び掛ける。
それでも、すのぴは振り返ることはなかった。
——まさか……
先程発現した青黒い紋様。
数日前の惨劇が脳裏に浮かび、大剣を握る手に力が入る。
だが、
「……………………」
不意に、すのぴの身体が揺れ動く。
直後、力が抜けたかのように全身が沈み込み——
まるで、糸が切れた操り人形かのように、無造作に倒れ込んでしまう。
「すのぴ!?」
彼の名を呼ぶ声が、薄闇の通路に溶け込んでいった。
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