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もうどうでもよくなったので、私に関わろうとするのはご遠慮ください  作者: はな
本編

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最終話 もう、どうでもよくない



 アルバートに想いを伝えてから、数日が過ぎた。


 私は再び王城を訪れていた。

 通された部屋には国王陛下とお父様、そしてアルバートがいる。

 その顔ぶれを見渡した瞬間、どこかで見たことのある光景だと思った。


 十一年前――七歳だった私は、この場所で王太子の婚約者になることを告げられた。


 アルバートが私を望んだのだと知ったのは、ずっとあとのことだ。

 けれど、あの時の私自身がどうしたいのかを尋ねられた記憶はない。


 王太子が選んだのだから。

 公爵令嬢なのだから。


 そういうものなのだと思っていた。


 けれど、今日は違う。


「レティシア」

「はい」


 名前を呼ばれて顔を上げると、アルバートがまっすぐ私を見ていた。


 いつもより少しだけ表情が硬い。

 わずかに緊張しているようにも見える。


 この人がこんな顔をすることさえ、昔の私は知らなかった。


「改めて、君に聞きたい」

「はい」


 アルバートは一度静かに息を吸い、それから口を開いた。


「俺と婚約してほしい」


 静かな部屋に、その言葉が響く。


 今度は、誰かから一方的に告げられるのではない。

 目の前にいる人が、私に尋ねている。


「王太子妃になることも、いずれ王妃になることも、簡単なことではない」

「はい」

「君の力を必要とする人間も、これから増えると思う」


 それは、きっとそうなのだろう。


 私は白銀の魔女と呼ばれ、珍しい魔法を使うことができる。

 今続けている仕事も、これから先、さらに大きなものになっていくかもしれない。


「でも、君一人に何もかもを背負わせるつもりはない。今続けている仕事も、やめる必要はない。やりたいことがあるなら、教えてほしい」

「はい」

「俺にできることなら協力する」

「ありがとうございます」

「それから、また旅に出たくなったら――」


 そこでアルバートは一度言葉を切り、何かを考えるようにわずかに視線を落とした。


「……相談してほしい」

「相談、なのですね。止めるのではなく?」

「ああ。止めない」


 返事は速かった。

 それからほんの少しだけ間を置いて、付け加えた。


「ただ、できれば俺も行きたい」

「…………公務はどうなさるのですか?」

「調整する」

「できるのですか?」

「何とかする」

「陛下」


 思わず国王陛下へ視線を向けると、陛下はすでに額を押さえていた。

 どうやら、息子が何を言い出すのかくらいは予想していたらしい。


「なぜそこで私を見る」

「王太子殿下がこのようなことをおっしゃっていますが」

「アルバート。王太子としての自覚は持て」

「もちろんです」

「今の発言のどこに自覚があった」

「公務を放り出すとは言っていません」

「当たり前だ」


 呆れたような陛下の声に、ふと隣を見ると、お父様が口元を押さえていた。

 俯いてはいるものの、わずかに肩が揺れている。


「お父様?」

「いや。何でもない」

「笑っていらっしゃいませんか?」

「気のせいだ」


 絶対に違う。


 そんな私たちを見渡し、陛下が小さく息を吐いた。


「まったく……」


 呆れているような声だったけれど、その表情はどこか穏やかだった。


 やがて陛下は姿勢を正すと、改めて私を見る。


「王太子の婚約について必要な承認は、すでに得ている。もっとも――最後に必要なのは、そなたの答えだ。レティシア嬢」

「はい」

「今度は、そなた自身に聞こう。アルバートとの婚約を望むか?」


 その言葉に自然と背筋が伸びると同時に、胸の奥が静かに温かくなった。


 やっと、聞かれた。


 十一年前にはなかった問い。


 公爵家のためでもない。

 国のためでもない。

 王太子に選ばれたからでもない。


 私がどうしたいのか。


 その答えを、今度は私自身が決められる。


 だから、迷うことはなかった。


「はい、望みます。私が、アルバート殿下のお隣にいたいのです」

「……そうか」


 そう言ってアルバートを見ると、金色の瞳がわずかに揺れた。


 次いで、張り詰めていたものを吐き出すように、ゆっくりと息をついた。


 どうやら、まだ緊張していたらしい。


 陛下が私たちを見比べ、それから少しだけ笑った。


「では、今度こそ二人で決めた婚約だな」

「はい」


 今度は、迷わずに答えた。


 陛下は満足そうに頷くと、今度は隣に立つアルバートへ視線を向けた。


「ただし、アルバート」

「はい」

「一度白紙にした婚約を、こうしてもう一度結び直すのだ。次はないと思え」

「……はい」

「レティシア嬢に、三度目の婚約を申し込むような真似はするなよ」

「するつもりはありません」

「ならばよい」


 アルバートは真顔で答えたけれど、陛下はどこか呆れたように息を吐いた。


「こちらとて、王太子の婚約を何度も結んだり解いたりするほど暇ではないのでな」


 呆れの滲んだ陛下の言葉に、何となく隣のアルバートへ視線を向ける。

 すると、同じようにこちらを見ていた金色の瞳と目が合った。


「……大丈夫だ」

「まだ何も申し上げていません」

「顔に書いてある」

「そうですか?」

「ああ」


 何が大丈夫なのかと思いながらも、その迷いのない返事がおかしくて、私は少しだけ笑った。


◇


 話を終えて部屋を出たあと、アルバートに誘われ、私たちは王族の居住区に面した庭園へ向かった。


 王族とその近しい者しか立ち入ることのない私的な庭で、人の気配はほとんどない。


 以前なら、王太子とその婚約者が並んで歩く、ごく当たり前の光景だった。


 今も外から見れば、きっと何も変わらないのだろう。


 けれど、私にはまったく違って感じられた。


 隣を歩くアルバートを見上げる。


「殿下」

「緊張していらしたのですね」

「……何の話だ」

「先ほどです」

「してない」

「嘘ですね。私が『はい』と言ったあと、随分大きく息を吐いていらっしゃいました」

「見てたのか」

「目の前にいましたから」

「……そうだったな」


 アルバートは少し気まずそうに視線を逸らした。あれほど緊張していたところを見られていたのが、今になって恥ずかしくなったらしい。


「でも、あんなに緊張なさるとは思いませんでした」

「……それはもう言うな」

「どうしてです?」

「恥ずかしいからだ」

「ですが、数日前に好きだと申し上げたばかりですし」

「分かってる」

「それでも緊張したのですか?」

「するだろう」

「そういうものですか?」

「そういうものだ」


 以前にも誰かから聞いたような言葉だ。


 思わず笑うと、アルバートが訝しげに私を見る。


「何だ?」

「いいえ。何でもありません」


 庭園の奥まで来たところで、アルバートが足を止めた。私もそれに合わせて立ち止まる。


「レティシア」

「はい」

「……本当に、いいんだな?」


 その問いに、私は少しだけ目を見開いた。

 何を確認されているのか分からず、アルバートの顔を見つめ返す。


「何がですか?」

「俺と婚約することだ」

「…………」

「レティシア?」

「先ほど、お答えしました」

「ああ」

「数日前にも、殿下のお隣にいたいと申し上げました」

「……ああ」

「好きだとも申し上げました」

「ああ」


 答えるたび、なぜかアルバートの口元がわずかに緩んでいく。


 対する私は、だんだん納得がいかなくなってきた。


「それなのに、まだ聞くのですか?」


 少しだけ不満が声に滲んだのか、アルバートが目を瞬いた。

 それでも、先ほどまでの緊張した表情はどこへ行ったのか、口元には笑みを堪えるような気配が残っている。


「もしかして、私の言葉を信じてくださっていないのですか?」

「違う」

「では、どうしてです?」

「……何度聞いても、嬉しいからだ。……聞けなかった分まで、聞きたいのかもしれない」

「聞けなかった分?」

「君がどうしたいのか。どう思っているのか。俺は十年も聞かなかっただろう」

「…………」

「だから今は、聞けるなら何度でも聞きたい」


 そんなことを言われてしまえば、不満を言い続けることもできない。


「……ずるいです」

「何が?」

「何でもありません」


 アルバートの口元が、堪えきれないように緩む。


 なぜ笑うのだろう。

 私は不満を訴えているつもりなのだけれど。


「……何ですか?」

「いや」

「笑っていませんか?」

「少し」

「どうしてです?」

「君がそんな顔をするのは、初めて見た気がしてな」

「そんな顔?」

「ああ」


 アルバートはそれ以上説明するつもりはないらしい。

 それなのに、口元にはまだ笑みが残っている。


「では、もう一度だけ聞いてもいいか?」

「もう聞いています」

「答えてくれないのか?」

「…………」


 私は小さく息を吐いた。

 どうやら、きちんと言葉にするまで満足してくれないらしい。


「私が望みました」

「ああ」

「私が、殿下のお隣にいたいのです」

「……ああ」


 今度こそ満足したらしく、アルバートの笑みが深くなる。


 そして私へ向かって手を伸ばしかけ――その手が途中で止まった。


「レティシア」

「はい」

「抱きしめてもいいか?」

「…………」


 思わず、アルバートを見つめた。


 婚約者なのだから、以前の私たちならそれだけで十分な理由になったのかもしれない。


 けれど今のアルバートは婚約者だからと決めつけるのではなく、私がどうしたいのかを尋ねてくれる。


 だから私は、言葉で答える代わりに一歩前へ出た。


「……レティシア?」


 そのままアルバートの胸元へ腕を回す。


 自分から誰かにこうして抱きつくのは、初めてかもしれない。


「…………」


 腕の中で、アルバートの身体が固まった。

 息を呑む気配がして、それきりしばらく動かない。


「これで、答えになりますか?」

「…………」

「殿下?」

「……反則だ」

「何がです?」

「いや。何でもない」


 次の瞬間、背中へ腕が回った。


 強く、けれど苦しくはない。

 大切なものを確かめるように、ゆっくりと抱きしめられる。


「……レティシア」

「はい」

「もう少し、このままでいてもいいか?」

「はい」


 アルバートの胸元に頬を寄せると、耳の近くで規則正しい鼓動が聞こえた。


 けれど、思っていたよりも少し速い。


 ――温かい。


 十年以上知っている人なのに、この人の腕の中がこんなにも温かいことを、私は今日まで知らなかった。


「殿下」

「何だ?」

「心臓が速いです」

「……言わなくていい」

「緊張していらっしゃるのですか?」

「レティシア」

「はい?」

「今は黙っていてくれ」

「どうしてです?」

「……恥ずかしい」


 そんなことを言う人なのだということも、昔の私は知らなかった。


 知らなかったことを、これから少しずつ知っていく。


 そう思うと何だか嬉しくて、私はアルバートの胸元でそっと笑った。


◇


 それから、数か月が過ぎた。


 婚約したからといって、私の生活がすべて変わったわけではない。


 私は今も、各地から集まる魔力異常や災害の兆候を整理し、必要な部署へ繋ぐ仕事を続けている。

 以前より関わる人間も増え、私が直接確認しなくても判断できる仕組みも、少しずつ整ってきた。


 もちろん、今でも忙しい日はある。


 けれど、疲れた時には休み、できない時には人に頼る。

 そして自分がやりたいと思ったことには、自分から手を伸ばす。


 それが少しずつ、当たり前になってきた。


「お嬢様。ヴァルガードから、お手紙が届いております」

「リオンさんから?」

「はい」


 書類を整理していると、アンナに呼ばれて顔を上げる。

 差し出された封筒には、すっかり見慣れた名前が書かれていた。


 私は仕事の手を止め、それを受け取る。


「今回は何かしら。以前は、お菓子を再現したという報告だったわね」

「その前は、城下町で珍しい店を見つけた、というお話ではございませんでしたか?」

「そうだったわ」


 相変わらず、リオンとは手紙をやり取りしている。


 仕事に関する話もあれば、本当にどうでもいい話もある。

 私たちの関係は以前とは少し変わったけれど、なくなりはしなかった。


 旅をともにした大切な人であることは、今も変わらない。


 封を切ろうとしたところで、扉が叩かれた。


「レティシア」

「どうぞ」


 聞き慣れた声に、自然と口元が緩む。

 扉が開き、アルバートが入ってきた。


「仕事は?」

「ちょうど一区切りついたところです」

「本当か?」

「はい」

「なら、今日はもう終わりにしないか?」

「何かあるのですか?」

「君と食事がしたい」


 あまりにも自然に言われて、少しだけ笑ってしまった。


「何だ?」

「いいえ」

「嫌か?」

「嫌ではありません」

「なら、行こう」

「はい」


 机の上を片づけようとして、手にしていた封筒を置く。


 その瞬間、アルバートの視線がそこへ向いた。


「…………」

「殿下?」

「何でもない」

「…………」

「本当だ」

「まだ何も聞いていませんが」

「…………」


 何も言わなくても、何が気になっているのかくらいはもう分かる。

 こういうところは、本当に分かりやすい。


「リオンさんからです」

「やっぱりか」

「気になるのですか?」

「気にはなる」


 返事は即答だった。

 少しは誤魔化すのかと思っていたけれど、そんなつもりはないらしい。


「では、お読みになりますか?」

「いや」

「どうしてです?」

「君宛ての手紙だから」

「…………」

「読みたいけど」

「どちらですか?」

「ものすごく読みたい。でも読まない」


 あまりにも率直な答えに、思わず笑ってしまった。

 こんなふうに隠さず言われることにも、いつの間にか慣れてきた気がする。


「リオンさんとは、これからも手紙をやり取りしますよ」

「知ってる」

「仕事の話もしますし」

「ああ」

「それ以外のお話もします」

「……それは、できれば減らしてほしい」

「殿下」

「言ってみただけだ」

「…………」

「やめろとは言わない。……俺が嫌だと思うことと、君にやめさせることは別だろ」


 アルバートは小さく息を吐くと、少しだけ不満そうな顔で続けた。

 その言葉に、胸の奥が温かくなる。


「ただし」

「はい?」

「嫌だとは言う」

「随分便利に使いますね、その言葉」

「リオネルにも似たようなことを言われた」

「そうでしたっけ?」

「……何であいつと同じことを言うんだ」

「知りません」


 ますます不満そうになったアルバートを見ながら、私は笑って封筒を開いた。


「今読むのか?」

「気になりますから」

「俺の前で?」

「殿下がいらっしゃると読んではいけないのですか?」

「……いけなくはない」

「では、読みます」

「…………」


 紙を開くと、相変わらず大きな字が並んでいた。


 ――アルバートと婚約したって聞いた。


 その次の一文を見て、思わず眉を寄せる。


 ――趣味が悪いな。


「…………」

「何て?」

「お読みにならないのでは?」

「君の顔を見たら気になった」

「秘密です」

「レティシア」


 聞こえないふりをして、そのまま続きを読む。


 ――まあ、おめでとう。

 ――泣かされたら来い。

 ――王妃の席はまだ空けておいてやる。


 ……これは、絶対に見せない方がいい。


「今、隠しただろう。紙を伏せた」

「隠していません。読み終わったからです」

「何て書いてあった?」

「何でもありません」

「レティシア」

「殿下」

「何だ?」

「知らない方が幸せなこともあります」

「それ、リオネル関係で言われると一番嫌な言葉なんだが」


 あまりにも正直な反応に、とうとう堪えきれず笑ってしまった。

 アルバートはそんな私を見て、ますます疑わしそうに目を細める。


「絶対ろくなこと書いてないだろ」

「さあ?」

「見せてくれないのか?」

「嫌です」

「……分かった」


 意外にも、アルバートはそれ以上何も言わなかった。

 まだ気になっているのは、その表情を見れば十分すぎるほど分かるのだけれど。


「諦めるのですか?」

「君が見せたくないなら見ない。ただし、気にはなる」

「存じています」

「かなり」

「それも存じています」

「今夜眠れないかもしれない」

「大袈裟です」

「俺にとっては大袈裟じゃない」


 本当に面倒な人だ。


 けれど、以前のように何も言わず、不機嫌なまま黙り込まれるより、ずっといい。


 嫌なら嫌だと言う。

 気になるなら気になると言う。


 そんな当たり前のことを、この人も覚えている途中なのだ。


 私は手紙を引き出しへしまい、席を立った。


「参りましょうか」

「ああ」

「今日は何が食べたいですか?」

「魚がいい」

「香草は?」

「少なめ」

「私に合わせなくてもよいのですよ?」

「今日は俺もそうしたい」

「そうですか」

「ああ」


 以前なら、きっと相手の好みを察して、それに合わせていた。


 今は聞く。

 そして、自分の望みも口にする。


 そんな小さなことが少し嬉しくて、私はアルバートと並んで部屋を出た。


◇


 食事を終えたあと、すぐに帰るにはまだ少し早かった。


「少し歩くか?」

「はい」


 アルバートに差し出された手を取る。

 指先が触れたかと思えば、そのまま指と指が絡み合った。


 少し前までなら、それだけで意識してしまっていたのに、今ではこうして手を繋いで歩くことにも、少しずつ慣れてきた。


 夜の庭園は静かだった。


 王族の居住区に面したこの庭は、昼間でも人の出入りが少ない。

 ましてこの時間ともなれば、聞こえるのは風に揺れる木々の葉音くらいだった。


 昼間よりも涼しい風が庭に咲いた花を揺らす。

 その中を、手を繋いだままゆっくりと歩いた。


 今日食べた料理のこと。

 仕事のこと。

 次の休みに、どこへ行きたいかということ。


 特別な話は何もしていない。


 けれど、こうしてこの人と過ごす時間を、私は好きだと思う。


 しばらく歩いたところで、繋いでいた手がわずかに引かれた。

 足を止めて振り返ると、アルバートがじっと私を見ている。


「どうかなさいました?」

「レティシア」

「はい」


 アルバートは私を見つめたまま、なかなか次の言葉を口にしなかった。


 どこか様子がおかしい。


「殿下?」

「……一つ、聞いてもいいか?」

「はい」


 何だろう。


 そう思って待っていると、アルバートがほんのわずかに視線を逸らした。


「…………」

「殿下?」

「……口づけてもいいか?」

「…………」


 聞かれた言葉の意味を理解するまでに、一拍かかる。

 理解した途端、繋いだ手の温度まで急に意識してしまって、頬が熱くなった。


「レティシア?」

「…………」

「嫌ならしない」

「い、嫌では……」


 自分の声が思っていたよりも小さくなった。


 先ほどまで普通に話していたはずなのに、急にアルバートの顔をまともに見られなくなる。


「……それは、してもいいという意味か?」

「…………」


 どうして、こういう時だけ余裕があるような顔をするのだろう。


「……聞くのですね」

「聞く」

「婚約者なのに?」

「婚約者だからいい、とはもう思わない。……君が嫌なら、しない」


 アルバートは私を急かすことなく、ただ静かに、私自身の言葉で答えるのを待っている。


 だから私も、曖昧な言葉で誤魔化すのではなく、きちんと自分の気持ちを言葉にすることにした。


「はい……してください」


 顔が熱くなるのを感じながらも、今度は目を逸らさず、まっすぐアルバートを見つめた。


 金色の瞳が、わずかに見開かれる。


「……本当に?」

「何度聞くのですか」

「悪い」

「私、以前も申し上げましたよね」

「何を?」

「何度も確認されると、私の言葉を信じてくださっていないのかと思います」

「……それは困る」

「では、信じてください」

「ああ。信じる」


 アルバートの表情が、少しだけ緩む。

 そして彼の手がゆっくりと私の頬へ伸びた。


 触れる直前に一度止まり、私の様子を確かめるように金色の瞳がこちらを見る。


 私は、今度は動かなかった。


 やがて頬にアルバートの手のひらが触れ、その温度を感じた途端、胸の鼓動がまた少し速くなる。


 ゆっくりと近づいてくる顔を見つめながら、私はそっと目を閉じた。


 唇に、柔らかなものが触れる。


 ほんの一瞬だった。


 触れたと思った時にはもう離れていて、ゆっくりと目を開けると、すぐ近くにアルバートの顔がある。


「……殿下」

「何だ?」

「近いです」

「今さら?」

「今さらでもです」


 思わず離れようとすると、頬に触れていたアルバートの手がわずかに動いた。

 けれど、引き止めることはせず、そのまま止まる。


「レティシア、もう一度してもいいか?」

「……一度ではなかったのですか?」

「一度でいいとは言ってない」

「…………」

「嫌?」


 ずるい。

 本当に、ずるい聞き方だと思う。


「……一度だけなら」

「分かった」

「本当ですか?」

「努力する」

「守ってください」

「……善処する」

「殿下」


 思わず睨むと、アルバートが楽しそうに笑う。その顔を見ているうちに、私までつられて笑ってしまった。

 そうして今度は、先ほどよりも少しだけ長く唇が重なった。


 触れている時間が長くなっただけなのに、先ほどとはまるで違う。


 離れた瞬間、急に恥ずかしさが込み上げてきて、私は逃げるようにアルバートの胸元へ顔を埋めた。


「レティシア?……顔を見せてくれないか?」

「嫌です」

「何で」

「今は無理です」

「赤いから?」

「…………」

「レティシア」

「嫌です」

「……分かった」


 声が笑っている。

 絶対に笑っている。


「殿下」

「何だ?」

「楽しんでいませんか?」

「嬉しいだけだ」

「…………」

「すごく」

「それも、もう何度も聞きました」

「これからも言う」


 何だか悔しい。


 先ほどまであれほど緊張していたのはアルバートの方だったはずなのに、いつの間にか私ばかりが困らされている。


 胸元に顔を隠したまま、少しだけ考える。


 それから私は、そっと顔を上げた。


「殿下」

「何だ?」

「少し、屈んでいただけますか?」

「?」


 不思議そうな顔をしながらも、アルバートは素直に少し身を屈めた。


 その瞬間、私はほんの少しだけ背伸びをして、アルバートの唇に自分の唇を重ねる。


 触れるだけの短い口づけをして、すぐに離れた。


「…………」

「殿下?」

「…………」

「アルバート殿下?」


 返事がない。


 先ほどまであれほど余裕がありそうに笑っていたのに、今は金色の瞳を見開いたまま、完全に固まっている。


 その顔を見た瞬間、胸の奥に小さな満足感が生まれた。


 ――少しだけ、勝った気がする。


「……仕返しです」


 そう言って笑うと、アルバートがようやく瞬きをした。


「……レティシア」

「はい?」

「今のは、かなりまずい」

「何がです?」

「……俺の理性に決まってるだろう」

「…………」


 今度は、私が固まった。


 意味を理解した途端、せっかく少し落ち着いていた顔が一気に熱くなる。


「……帰ります」

「待て」

「帰ります」

「自分からしておいて?」

「知りません」

「レティシア」

「知りません」


 再び顔を隠そうとすると、アルバートの笑う気配がした。


 ――少しだけ仕返しをするつもりだったのに。


 どうやら、この人を相手に最後まで私だけが勝つのは難しいらしい。


「……もうしません」

「それは困る」

「知りません」

「レティシア」

「知りません」


 口ではそう答えながらも、笑いを堪えることはできなかった。


 アルバートも笑っている。


 やがてその腕がもう一度私の背中へ回り、今度は私も何も言わず、その腕の中に身体を預けた。


 温かい。


 やっぱり、そう思う。


 ふと、胸の奥に一つの言葉が浮かんだ。


 ――幸せだな、と。


 以前の私は、自由になりたくて、すべてを捨てた。


 王太子の婚約者という立場も、決められた未来も、期待される自分も。


 何もかも、もうどうでもいいと思った。


 けれど、今なら分かる。


 自由とは、何も持たないことではなかった。

 何も背負わないことでもない。


 自分で選ぶこと。


 やりたいことを選び、大切な人を選び、その選んだものに、自分の意思で向き合うこと。


 私は今も仕事をしている。


 これから先、王太子妃になれば、きっとやるべきことは増える。いつか王妃になれば、背負うものだって増えるだろう。


 けれど、それはもう、誰かに決められた人生ではない。


 疲れた時には、疲れたと言う。

 嫌な時には、嫌だと言う。

 やりたい時には、やりたいと言う。

 会いたい人には、会いたいと言う。


 そして、大切な人には、大切だと伝える。


 全部を一人で背負う必要はない。誰かの期待に応えるためだけに、生きる必要もない。


 私はもう、何もかもがどうでもいいとは思わない。


 ふと、あの日のことを思い出した。


 何もかもに疲れ果てて、もうどうでもいいと思ったあの日。


 アルバートのことも、王太子の婚約者であることも、それまで必死に守ってきたものも、すべて手放してしまいたくて、もう私に関わらないでほしいとさえ思っていた。


 そんなあの日の私が今の私を見たら、きっと驚くだろう。


 一度はどうでもいいと思った人が、今ではこんなにも大切な人になっている。

 その人のことをもっと知りたいと思い、会いたいと願い、自分から好きだと伝えるようになるなんて、あの頃は想像すらしていなかった。


 まして、一度は自分から離れたその人の隣に、もう一度、自分の意思で立ちたいと願う日が来ることなど。


「レティシア」

「はい?」

「何を考えている?」


 以前なら、この人はきっと私の表情を見て、勝手に答えを想像していた。


 そして私も、聞かれなければ何も言わず、それでいいのだと思っていた。


 けれど、今は違う。


 アルバートが私の気持ちを聞いてくれるから、私もきちんと自分の言葉で伝える。


「幸せだな、と」

「…………」


 アルバートが固まった。


 こうして言葉を失う姿を見るのも、これで何度目だろう。

 以前はもっと余裕のある人だと思っていたのに、最近になって、どうやらそうでもないらしいと分かってきた。


「殿下?」

「もう一度言ってくれ」

「嫌です。恥ずかしいから」

「俺は何度でも言ってるだろ」

「それとこれとは別です」

「好きだ」

「ほら、また」

「愛してる」

「増やさないでください」

「じゃあ、幸せ?」

「もう言いません」

「レティシア」

「嫌です」


 そんなやり取りをしながら、私は笑った。


 すぐ隣からも楽しそうな声が聞こえてきて、それがまた可笑しくて、笑みが深くなる。


 十一年前と同じ人の隣にいる。


 けれど、あの頃とは違う。


 誰かに決められたからではない。

 求められた役割を果たすためでもない。


 私が知りたいと思った人を知って。

 私が大切にしたいと思ったものを大切にして。

 私がここにいたいと、自分で決めた。


 だから、これから先もきっと迷うことはある。


 疲れる日も、嫌になる日もあるのだろう。


 それでも、その時にはまた考えればいい。

 話して、聞いて、自分で選べばいい。


 もう、誰かに決めてもらう必要はないのだから。


 自分で選んだ道を、自分で選んだ人の隣で、これからも。







最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!


実は作者はリオン派なのですが(笑)、なぜアルバートエンドを選んだのかなど、執筆中のあれこれについては活動報告で改めてお話ししたいと思います(^^)


リオンエンドのIFストーリーも、少しお時間をいただくかもしれませんが、いつか形にしたいと思っています。


皆さまはアルバート派でしたか? それともリオン派でしたか?

よろしければ、感想で教えていただけると嬉しいです(´艸`)


そして、少しでもこの物語を楽しんでいただけましたら、評価★で応援していただけると嬉しいです!


長い物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
アルバート、ポンコツでしたが、ものすごく純粋です。 アルバートで良かったです!ー☆⌒d(´∀`)ノ
元サヤ拒否勢・リオン派でした(苦笑)。 でも、身体を張って庇って、国に帰って。 ああ、コレは元サヤだなぁとあの時点で思いました(苦笑)。 好きが弟と半分で、押し足りないのが敗因でしょう(苦笑)。 新し…
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