第90話 今のあなたのお隣に
リオンと別れたあと、私は一度屋敷へ戻った。
すぐにアルバートのもとへ向かうことも考えたけれど、鏡に映った自分の顔を見て、思いとどまる。
目元が赤い。
このままでは、何があったのかと尋ねられるに決まっていた。
――何があったのか。
そう考えた途端、胸の奥が少し痛んだ。
私は今日、大切な人を傷つけた。それでもリオンは、最後まで私の答えを尊重してくれた。
泣いた私を慰め、笑わせ、最後には幸せになれと言ってくれた。
だからこそ、次に伝える言葉も曖昧にはしたくなかった。
誰かを選ばなかったから、もう一人を選ぶのではない。
リオンではなかったから、アルバートなのでもない。
私は、自分が誰の隣にいたいのかを知った。
だから今度は、それを本人に伝えなければならない。
鏡の前で目元を冷やしながら、私は静かに息を吐いた。
◇
アルバートに会いたいと伝えると、その日のうちに返事が来た。
――いつでもいい。
短い返事だった。
その日の夕方、私は王城を訪れた。
案内されたのは、以前にも何度か二人で話したことのある小さな応接室だった。
扉を開けると、アルバートはすでに待っていた。
「お待たせいたしました」
「いや」
いつもと変わらない声だった。
けれど、どこか硬い。
「座ってくれ」
「はい」
向かいの椅子へ腰を下ろすと、アルバートも向かいに座った。
それから、しばらく沈黙が続いた。
妙に静かだった。
普段なら、アルバートの方から何かしら話し始める。
最近読んだ本のことだったり、仕事のことだったり、あるいは何が飲みたいかと尋ねてきたりする。
けれど今日は、何も言わない。
「殿下?」
「ああ」
「どうかなさいました?」
「……いや」
アルバートは一度口を閉じた。
何かを迷うように視線を落とし、それから私を見る。
「……リオネルと、話したんだろう?」
「はい」
「そうか」
それだけだった。
何を話したのかとは聞かれない。
私は少し不思議に思いながらも、頷いた。
「そのことで、殿下にもお話ししたいことがあります」
「…………ああ」
ほんのわずかに間があった。
アルバートが背筋を伸ばす。
その表情は静かだったが、膝の上に置かれた手が、ゆっくりと握られたのが見えた。
「聞く」
短くそう告げたアルバートは、それ以上何も言わず、ただ私の言葉を待っている。
その静かな視線を受けながら、私は一度ゆっくりと息を吸い、口を開いた。
「この一年、ずっと考えていました」
「ああ」
「殿下のことも。リオンさんのことも。そして、自分のことも」
「……ああ」
「最初は、何を基準に考えればいいのかも分かりませんでした」
どちらといる方が楽しいのか。
どちらが自分を大切にしてくれるのか。
どちらの隣なら幸せになれるのか。
そんなふうに比べようとしたこともあった。
けれど、途中でやめた。
誰かを選ぶということは、条件を並べて優劣を決めることではないと思ったからだ。
「私は、この一年で殿下のことをたくさん知りました」
「…………」
「古い歴史書がお好きなことも。木の実を使った焼き菓子がお好きなことも。意外と負けず嫌いなことも」
「意外と?」
「そこは今、重要ではありません」
「……そうか」
「それから、思っていたより嫉妬深いことも」
「それは否定しない」
「そうでしょうね」
思わず少し笑う。
けれど、アルバートは笑わなかった。
ただ静かに、私の言葉を待っている。
その様子を見て、私も表情を戻した。
「そして、私自身のことも少しずつ知りました」
桃が好きで、甘いものが好きで、本を読むのが好き。
知らない場所を見ることも、知らなかったことを知ることも好きだった。
仕事も、今は好きだと思える。
誰かに言われたからではなく、自分で選んだことなら、頑張ることそのものが嫌いなわけではなかった。
「それから……会いたい人には、自分から会いたいと言ってもいいことも」
アルバートの瞳が、わずかに揺れた。
「殿下を初めて私からお誘いした時、随分驚いていましたね」
「……驚くに決まってるだろう」
「そうですか?」
「十年待った」
「その十年は婚約者だったでしょう?」
「だからだ」
「?」
「……いや。続けてくれ」
よく分からなかったけれど、今はそのまま続けることにした。
「私、殿下に会いたいと思うことが増えました」
「…………」
「何かを見つけた時に、殿下にも見せたいと思ったり。面白いことがあった時に、話したいと思ったり」
それは、いつからだったのだろう。
はっきりとは分からない。
ただ、少しずつ積み重なっていた。
「先日、殿下に新しい婚約のお話が出ていると聞きました」
アルバートの表情が、わずかに強張った。
「……誰から聞いた?」
「ルーカスです」
「そうか」
「私にも縁談は来ていますから、殿下にもそういうお話があること自体は当然だと思います」
「ああ」
「私には、殿下のそれを止める権利はありません」
「…………」
「殿下にも、ご自分で選ぶ権利があります」
「ああ」
アルバートはそれ以上何も言わず、私の言葉を受け止めるように頷いた。
私は膝の上で重ねた両手に、ほんの少しだけ力を込める。
「でも……嫌でした」
その言葉が予想外だったのか、アルバートがわずかに目を見開く。
けれど何かを尋ねることはせず、続きを待つように私を見つめていた。
「殿下が、別の誰かと婚約するのは嫌だと思いました」
「……レティシア」
「最初は、それがどうしてなのか分かりませんでした」
十年間、隣にいたから。
ずっと自分の場所だったから。
それを取られるように感じているだけなのかもしれない。
「でも、リオンさんにも縁談のお話があると聞いて、考えました」
リオンの名前を出した途端、それまでわずかに揺れていたアルバートの表情が静まった。
何を思ったのかまでは分からない。
ただ、先ほどよりも少しだけ硬い眼差しが、まっすぐ私へ向けられている。
「リオンさんが誰かと結婚することを想像すると、寂しかったです。……悲しいとも思いました」
「……そうか」
「はい。だから今日、リオンさんとお話ししました」
「…………ああ」
「私の答えを、伝えました」
その言葉に、アルバートの指先がわずかに動く。
何かを尋ねかけたようにも見えたけれど、結局その口から言葉が出ることはなかった。
「……そうか」
「はい」
それきり、アルバートは何も尋ねてこなかった。
私がどんな答えを伝えたのか、気になっていないはずはないと思うのに。
そのことを不思議に思い、私は少しだけ首を傾げた。
「……聞かないのですか?」
「何を」
「私が、何と答えたのか」
アルバートは黙った。
しばらくして、ゆっくりと息を吐く。
「聞きたい」
「では――」
「でも、俺から答えを決めるような聞き方はしたくない」
「…………」
「君が俺に話したいと思ったことを、君の言葉で聞きたい」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
一年前なら、きっと違った。
私も、アルバートも、互いに相手の気持ちを分かったつもりになって、聞かずに決めていた。
だから私は、きちんと言葉にしようと思った。
「リオンさんのことは、大切です」
「ああ」
「誰かと結婚すると聞けば、きっとこれからも寂しいと思います」
「…………ああ」
「でも、私がその隣に立ちたいとは思いませんでした」
「…………」
それまで黙って私の話を聞いていたアルバートが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳にわずかな揺らぎが見えたけれど、何も口にはせず、ただ続きを待つように私を見つめていた。
「だから、お断りしました」
「…………」
「殿下?」
「……断った?」
「はい」
「リオネルを?」
「他に誰がいるのですか?」
「…………そうか」
アルバートは目を閉じると、張り詰めていたものを吐き出すように、長く息をついた。
「……そうか」
もう一度こぼれた声は、先ほどよりもわずかに力が抜けていた。
「どうかなさいました?」
「いや、何でもない」
何でもないようには見えない。
けれど、それ以上尋ねる前に、アルバートが私を見た。
「それで……俺にも、答えを聞かせてくれるのか?」
「はい」
頷くと、先ほど一度は緩んだはずのアルバートの表情が、再び硬くなった。
リオンへの答えはもう伝えたというのに、なぜだろう。
私がこれから何を言うのかを恐れているようにも見える。
「殿下」
「ああ」
私は、この一年考えてきたことを思い返す。
十年間、私はアルバートの婚約者だった。
彼の隣に立つことは決められていて、いつか王太子妃になり、その先には王妃になる未来があった。
そこに私の意思はなかった。
だから一度、そのすべてを手放した。
婚約を白紙にして、アルバートの隣から離れ、レティシア・エトワールとして生きることを選んだ。
その選択を、後悔してはいない。
「私は、殿下の隣に戻りたいのではないのだと思います」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、アルバートの表情が強張った。
何かを言おうとしたのか、わずかに唇が動いたけれど、結局そのまま言葉を飲み込む。
「婚約者だった頃の続きをしたいわけではありません」
「…………ああ」
「以前のような関係に戻りたいとも思いません」
「……そうか」
返ってきた声は平静だったけれど、アルバートはわずかに視線を落とした。
表情こそ大きく変わらないものの、先ほどまで私をまっすぐ見ていた金色の瞳が伏せられたことで、なぜかひどく落ち込んでいるように見える。
思っていた反応とは違って、私は思わず首を傾げた。
「殿下?」
「いや。続けてくれ」
「はい」
何か変だった。
けれど、今は最後まで伝えたい。
「私はもう、殿下の隣に立たなくても生きていけます」
「ああ」
「王太子妃にならなくてもいい。誰とも結婚せずに仕事を続けることもできます。旅に出たいと思えば、また旅に出ることだってできる」
「ああ」
「どこへ行くのかも、誰といるのかも、今は自分で選べます」
「……ああ」
返事は変わらず平静だったけれど、先ほどから少しずつ間が長くなっている。
最後まで私の話を聞こうとしてくれていることは分かるのに、なぜか話せば話すほど、アルバートの余裕がなくなっているような気がした。
「だから――」
ここから先を口にするのは、思っていたよりも勇気がいった。
けれど、もう迷っているわけではない。
胸の奥にある気持ちをきちんと言葉にするために、私はゆっくりと息を吸い、まっすぐアルバートを見つめた。
「私は、婚約者だった頃の続きをするのではなく――今の私として、今のあなたのお隣にいたいです」
「…………」
言葉が届いた瞬間、アルバートは息をすることさえ忘れたように私を見つめた。
先ほどまでかろうじて保たれていた表情が完全に崩れ、金色の瞳が大きく見開かれている。
それでも何も言わないので、今度は私の方が不安になってきた。
「殿下?」
「…………」
「アルバート殿下?」
「……少し待ってくれ」
「はい?」
アルバートが片手で口元を覆った。
しばらくそのまま黙り込んだあと、ようやく小さく息を吐く。
「どうかなさいました?」
「……確認している」
「何をですか?」
「今、俺が聞いた言葉を」
「…………」
やがて手を下ろしたアルバートが、まっすぐ私を見る。
「それは……俺を選ぶ、という意味で受け取っていいのか?」
「…………」
そこまで念を押すように尋ねられて、ようやくアルバートの様子がおかしかった理由に思い至った。
もしかして、先ほどからずっと――
「殿下」
「何だ」
「私に断られると思っていました?」
「…………」
「……思っていたのですね」
「……君がリオネルと二人で話していたと聞いた」
「はい」
「泣いていたとも」
「…………」
「リオネルに頭を撫でられていたとも聞いた」
「…………」
私は固まった。
――見られていた。
「そのあと二人で笑っていたとも」
「…………」
「だからといって、君が何を決めたのかを俺が勝手に決めるつもりはなかった」
「はい」
「なかったが……俺にとって都合のいい想像は、かなり難しかった」
「それで、先ほどから……?」
「ああ。……しかも最初に『隣に戻りたいわけではない』と言われた」
「……申し訳ありません」
「謝らなくていい。君は何も悪くない」
「ですが」
「ただ、心臓には悪かった」
「…………」
ようやく、先ほどからアルバートの様子がどこかおかしかった理由が分かった。
あれほど平静に見えていたのに、内心ではずっとそんなことを考えていたらしい。
そう思うと、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んで、自然と口元に笑みが浮かんだ。
「笑うところじゃない」
「すみません」
「だから謝らなくていい」
アルバートも、ようやく少しだけ笑った。
その顔を見て、胸の奥が温かくなる。
「それで」
「はい?」
「まだ答えを聞いていない」
「…………」
「俺を選ぶ、という意味でいいのか?」
もう一度まっすぐに尋ねられても、今度は迷わなかった。
ここへ来るまでに何度も考えて、自分の中で出した答えは、もう決まっている。
「はい。私は、あなたのお隣にいたいです」
アルバートの金色の瞳が大きく揺れた。
その反応を見つめながら、私は胸の奥に残っていた緊張を押し出すように、もう一度ゆっくりと息を吸う。
自分の望みは、もう伝えた。
けれど、隣にいたいと望むのは、私だけで決めることではない。
「……これからも、お隣にいてもいいですか?」
「……ああ」
「殿下?」
「悪い。今、かなり余裕がない」
「そうなのですか?」
「分からないのか?」
「……少しは」
「少しか」
私は困ったように笑うその顔を見ながら、もう一つ伝えなければならないことを思い出した。
たぶん、これが一番大切な言葉だ。
「それから」
「まだあるのか?」
「あります」
「……聞く」
十年前、彼が私を選んだ。
けれど、私は選ばなかった。
選ぶということそのものを、知らなかった。
――でも、今は違う。
私は自分で考えた。
自分が何を望むのかを知ろうとした。
そのうえで、ここにいる。
「……好きです」
「…………」
「アルバート殿下のことが、好きです」
とうとう口にしてしまった途端、恥ずかしさが一気に込み上げ、頬が熱を持つのが分かった。
それでも何とか視線を逸らさずにいると、アルバートは私を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「…………」
「殿下?」
「もう一回」
「……嫌です」
「何で」
「恥ずかしいからです」
「俺は十年待ったんだぞ」
「先ほども聞きました」
「なら、もう一回くらいいいだろう」
「嫌です」
「レティシア」
「嫌です」
「…………」
しばらく互いに譲らないまま見つめ合っていると、やがてアルバートの表情がふっと緩んだ。
堪えきれなくなったように笑うその顔を見て、私の肩からも少しだけ力が抜ける。
「……分かった」
「諦めるのですか?」
「今日はな」
「今日は?」
「これから何度でも言ってもらう」
「言いません」
「俺は言う。……好きだ、レティシア」
真正面から返された言葉に、今度は私の方が何も言えなくなった。
これまでにも何度も聞いてきたはずなのに、自分の気持ちを認めたあとでは、同じ言葉がまるで違って聞こえる。
せっかく落ち着きかけていた頬が、また熱を持つのが分かった。
「――愛してる」
「…………」
「これからも何度でも言う」
「……そうですか」
「ああ」
どうしていいのか分からないくらい、嬉しかった。
胸の奥へ落ちてきたその言葉から、じわじわと熱が広がっていく。
アルバートの顔を見ていたいのに、見つめていると恥ずかしくて、とうとう耐えきれずに少しだけ視線を落とした。
――好きな人に好きだと言われるのは、こんな気持ちになるのね。
そんな当たり前のことさえ、私は今まで知らなかった。
それでももう一度顔を上げると、アルバートがこちらへ身を乗り出すところだった。
反射的に胸が跳ねる。
けれど、私へ向かって伸びかけたその手は、触れる寸前で止まった。
「レティシア」
「はい」
「手を繋いでもいいか?」
「…………」
その言葉に、胸の奥がいっぱいになった。
十年前なら、きっと尋ねなかった。
婚約者なのだから、触れてもいいと思っていたかもしれない。
私も、それを当然だと思っていた。
けれど今は違う。
私は自分で選べる。
だから私は、自分から手を伸ばした。
机の上に置かれたアルバートの手に、自分の手を重ねる。
アルバートが目を見開いた。
「……はい。繋いでください」
「……ああ」
ゆっくりと、指が重なる。
強く握りしめるのではなく、確かめるように。
私が嫌なら、いつでも離せるくらいの力で。
けれど私は、離さなかった。
「レティシア」
「はい」
「俺は、今かなり幸せだ」
「そうなのですか?」
「……本当に分かってないな」
「何がです?」
「いや。今は、それでもいい」
アルバートはそう言って笑った。
繋いだ手から伝わる温かさを感じながら、私も笑った。
十年前に決められた場所へ戻ったのではない。
王太子の婚約者だから、ここにいるのでもない。
誰かに求められたからでも、期待に応えなければならないからでもない。
私は一度、自分の意思でこの手を離した。
そして今、自分の意思で、もう一度手を伸ばした。
同じ場所に見えても、きっと以前とは違う。
これは、戻るための一歩ではない。
私が自分で選んだ、新しい一歩だった。
【おまけ】
レティシアが一度屋敷へ戻っていた頃――
王城では、アルバートのもとへ一つの報告が届いていた。
「……レティシアが?」
「はい」
執務机の向こうで、報告に訪れた近衛騎士がわずかに言い淀む。
「リオネル殿下と、お二人で庭園の奥へ向かわれました」
「そうか」
「かなり長くお話しになっていたようです」
「……そうか」
アルバートは手元の書類へ視線を落としたまま答えた。
別に、おかしなことではない。
リオネルがレティシアに想いを告げていることは知っている。
そしてレティシアが、その答えをまだ出していないことも。
いつか二人が話をすることになるのは、最初から分かっていた。
分かっていた、はずなのだが。
「それから……」
「何だ」
「レティシア様が、泣いていらしたと」
紙を押さえていた指先が止まった。
「……泣いていた?」
「はい」
「…………」
「その、リオネル殿下が慰めておられたようで」
「慰めて?」
「頭を撫でていらした、と」
「…………」
アルバートは何も言わなかった。
頭を撫でた。
リオネルが。
レティシアの。
「…………」
「殿下?」
「……続けろ」
「はい。その後は、レティシア様も笑っておられたそうです」
「…………そうか」
自分でも驚くほど平静な声が出た。
ただし、先ほどから書類は一行も進んでいない。
泣いていた。
慰められていた。
頭を撫でられていた。
そのあと、二人で笑っていた。
そこから導き出される可能性を考えようとして――やめた。
考えるな。
何を話したのかは知らない。
なぜレティシアが泣いたのかも、なぜ最後に笑っていたのかも知らない。
知らないことを勝手に補って、彼女の気持ちを決めつけるな。
この一年で、嫌というほど学んだことだった。
「なお、会話の内容については――」
「いい」
「ですが」
「言うな」
「……殿下?」
思ったより強い声が出た。
アルバートは一度目を閉じ、息を吐く。
「……レティシアが俺に話すと決めたことなら、本人から聞く」
「……承知いたしました」
近衛騎士が一礼する。
そのまま踵を返しかけたところで、アルバートはふと口を開いた。
「待て」
「はい」
「…………」
「殿下?」
一瞬、迷った。
何を話していたのか。
レティシアは、リオネルに何と答えたのか。
どうして泣いたのか。
どうして頭を撫でられていたのか。
どうして、そのあと笑っていたのか。
聞こうと思えば、聞ける。
「……いや。何でもない」
「承知いたしました」
扉が閉じた。
一人になった執務室に、長い沈黙が落ちる。
アルバートはしばらく動かなかった。
やがて手元の書類へ視線を戻す。
書類へ視線を戻して一行読んでみるものの、まるで意味が頭に入ってこない。
もう一度同じところを読み返してみても、結果は同じだった。
諦めて、書類を机へ置いた。
「……仕事にならないな」
椅子の背へ身体を預け、深く息を吐く。
分かっている。
レティシアが誰を選ぶのかは、レティシアが決めることだ。
自分は待つと決めた。
リオネルも待つと言った。
そして今日、二人は話をした。
「…………」
考えるな。
そう思うほど、先ほど聞いた言葉が頭の中を回る。
泣いていた。
頭を撫でられていた。
そのあと、笑っていた。
「……何で頭を撫でる必要があるんだ」
呟いてから、自分でも嫌になる。
そこではない。
いや、そこも気にはなるが。
今考えるべきなのは、そこではない。
窓の外へ目を向ける。
傾き始めた陽が、王都を淡い橙色に染めていた。
今日、答えを出したのだろうか。
もしそうなら。
「…………」
その先を考えるのをやめた。
知らないことを勝手に決めつけない。
レティシアの気持ちは、レティシアから聞く。
そう決めたのだから。
――できれば、まだ聞きたくないが。
そんなことを考えた、その時だった。
扉が叩かれる。
「殿下」
「何だ」
「エトワール公爵令嬢より、使いの者が参っております」
「……レティシアから?」
「はい」
嫌な予感がした。
いや。
嫌な予感と決めつけるな。
「何と?」
「本日、殿下にお会いしたいとのことです」
「…………」
「殿下?」
「……今日?」
「はい」
今日――リオネルと二人で話した、その日の夕方に。
会いたい。
「…………」
聞きたくない。
先ほど、自分で本人から聞くと言った。
聞きたくない。
だが、レティシアが自分から話そうとしている。
聞きたくない。
だが、断れるわけがなかった。
「いかがいたしましょう」
「…………いつでもいいと伝えてくれ」
「承知いたしました」
近衛騎士が一礼して部屋を出ていく。
「…………」
アルバートは机の上で両手を組んだ。
待つと決めた。
何を言われても、最後まで聞くと決めている。
彼女が自分で考え、自分で選んだ答えなら、それを尊重すると決めた。
もう一度、深く息を吐いた。
誰もいない執務室に、低い声が落ちる。
「本人から聞くとは言ったが……今日聞きたいとは言ってないんだが……」
もちろん、そんなことをレティシアに言えるはずもなかった。
――ということが、あったとかなかったとか。
次回、最終話です!
明日25日20時30分に更新します。
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