第89話 あなたの口から
リオンに手紙を出したのは、それから三日後のことだった。
何度も書き直した末、結局そこに記したのは、たった一文だけだった。
――お話ししたいことがあります。
それ以上、何を書けばいいのか分からなかった。
手紙で伝えることではないと思ったし、かといって何について話したいのかを書けば、それだけで答えを告げることになってしまう気がした。
返事が届いたのは、それから数日後だった。
――二週間後にフィオーレへ行く。
ちょうど外交上の用件で訪れる予定があったらしい。
その下には、いつもの少し乱れた文字で、一言だけ付け加えられていた。
――その時、聞く。
それを読んだ瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
きっと、リオンは気づいている。
それでも、何も聞かずに二週間待ってくれたのだ。
◇
二週間後、王城での予定を終えたリオンと、私は庭園を歩いていた。
季節は少しずつ移ろい始め、風にはわずかに冷たさが混じっている。
そんな中、リオンがふと周囲を見回し、懐かしそうに口を開いた。
「ここ、前にも歩いたな」
「そうでしたか?」
「お前、覚えてねぇの?」
「リオンさんとは色々なところを歩きましたから」
「それ、俺との思い出が多すぎるってことでいいか?」
「どうしてそうなるのですか」
「そういうことにしとく」
いつもと変わらないやり取りだった。
けれど、そう思うほど、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
私が呼び出した理由を、リオンは一度も尋ねなかった。
ただ私の隣を歩き、ときおりどうでもいいことを話している。
やがて、人の姿がほとんど見えない庭園の奥まで来ると、リオンは足を止めた。
「この辺でいいか?」
「……はい」
向かい合うと、リオンは急かすことなく、ただ静かに私を見つめた。
私は一度息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「リオンさん」
「ああ」
「以前、私に言ってくださったことを覚えていますか?」
「色々言ったからな。どれだ?」
「……私が答えを出すまで、待つと」
「ああ」
リオンはあっさりと頷いた。
まるで、そんなことを今さら確認する必要などないとでも言うような顔だった。
「覚えてる」
「随分、お待たせしてしまいました」
「一年くらいだろ」
「一年も、です」
「俺にとっては同じだ」
「ですが――」
「レティ」
名前を呼ばれて、私は言葉を止めた。
リオンは困ったように眉を下げる。
「待つって決めたのは俺だ」
「…………」
「俺が待つって決めたんだ。お前が急いで答えを出したって、意味ねぇだろ」
どこかで聞いたような言葉だった。
昨日、アンナに言われたことを思い出す。
私が勝手に背負う必要はない。
待つことも、待たないことも、その人自身が選ぶことなのだ。
「……はい」
「ちゃんと考えたんだろ?」
「はい」
「なら、それでいい」
そう言って、リオンは笑った。
その笑顔を見た途端、胸の奥がまた少し痛んだ。
「リオンさん」
「ああ」
「私、あなたにお会いできて、本当によかったと思っています」
「……おい」
「はい?」
「それ、振られる前に言われると結構きついな」
「…………」
思わず口を閉じると、リオンは片手で顔を覆った。
「やっぱりそういう話か」
「……申し訳ありません」
「謝るなって」
「ですが」
「まだ最後まで聞いてねぇだろ」
やがて顔から手を離したリオンは、私をまっすぐに見た。
いつものような笑みは、もう消えている。
「ちゃんと聞く」
「…………」
「俺が勝手に察して終わるのは嫌だ」
その言葉に、私は目を瞬いた。
答えが何であっても、私自身の口から聞こうとしてくれている。
そのことが、思っていた以上に胸に響いた。
「お前が考えて、お前が決めたんだろ」
「はい」
「だったら、お前の口から聞かせてくれ」
逃げることはできない。
――違う。
逃げたくないのだ。
リオンが私に、自分の気持ちを言葉にして伝えてくれたように、私も自分の言葉で返したい。
「リオンさん」
「ああ」
「あなたのことが、大切です」
「…………」
「旅に出たばかりの私は、何も知りませんでした。自分が何をしたいのかも、何が好きなのかも。王都のことだって、知識として知っているだけで、自分の目で見て知っていることは、ほとんどありませんでした」
あの頃の私は、ただ逃げたかった。
何も考えたくなくて、誰にも期待されたくなくて、もう何も背負いたくなかった。
「旅をする中で、少しずついろいろなものを知りました。そして、リオンさんと出会ってからも、私はたくさんの知らなかったものを知りました」
知らない街。
知らない景色。
知らない人たち。そして、自分の知らなかった自分自身。
「リオンさんが、王太子になったことでできることが増えたとおっしゃった時も……私には、とても大きな言葉でした」
立場とは、ただ人を縛るものではない。
そこにいるからこそ、できることもある。
私はリオンを見て、それを知った。
「だから、本当に感謝しています」
「……レティ」
「リオンさんと出会えて、本当によかった」
「……お前、それ以上言うと本気で俺がへこむぞ」
「……すみません」
「謝るな」
少しだけ困ったように笑ったリオンは、短く息を吐いた。
「で?」
「…………」
「続きがあるんだろ」
「はい」
私は自分の手を見つめた。
指先がわずかに震えている。
それを握りしめ、もう一度リオンを見た。
「あなたのことが、大切です」
「ああ」
「これからも、できることなら、ずっと大切な人でいてほしいと思っています」
「ああ」
「でも――あなたのお隣へ行きたいとは、思えませんでした」
「…………」
リオンは何も言わなかった。
ただ静かに、私を見ている。
「昨日、リオンさんにも縁談のお話があると聞きました」
「……誰から聞いたんだ、それ」
「アンナです」
「あいつ、そんなことまで知ってんのか」
「ヴァルガードからの使者が話していたそうです」
「余計なこと喋ってんな……」
いつもの調子でそう言ったあと、リオンは改めて私を見た。
「それで?」
「リオンさんが誰かと結婚することを考えました」
「…………」
「寂しかったです」
口にすると、胸の奥がまた痛んだ。
隣に立ちたいとは思えなくても、この人が私にとって大切な人であることまで、なくなるわけではない。
「悲しいとも思いました。もう一緒に街を歩いたり、手紙を送り合ったりできなくなるのかもしれないと思ったら……嫌ではない、というわけではありません」
「随分複雑だな」
「私もそう思います」
リオンが少しだけ笑う。
その顔を見ながら、私は言葉を続けた。
「でも、その人の代わりに、私があなたの隣に立ちたいとは思わなかったのです」
「…………」
「それで、分かりました」
もう一人、誰かがその人の隣に立つと想像しただけで、どうしようもなく嫌だった人。
「……アルバートか」
名前を言われ、私は目を見開いた。
「……まだ何も言っていません」
「言ってるようなもんだろ」
「…………」
「違うのか?」
私は答えられなかった。
それだけで、十分だったらしい。
リオンは空を仰いだ。
「あー……やっぱり、あいつか」
「リオンさん」
「分かってたけどな」
ぽつりと落とされた言葉に、胸が痛む。
それでもリオンは、私の答えを先回りして決めることなく、最後まで私の言葉を待ってくれていたのだ。
「……分かっていたのですか?」
「何となくな」
「では、どうして――」
「分かってることと、お前から聞くことは別だろ。それに、絶対だとは思ってなかった」
「…………」
「俺にも可能性くらいはあると思ってたぞ」
「ありました」
誤魔化すこともできたはずなのに、口から出たのは正直な答えだった。
リオンが意外そうに目を瞬き、しばらく私の顔を見つめる。
「……それ、今言うか?」
「本当のことです」
「余計きついんだけど」
「すみません」
「だから謝るなって」
今度は、リオンが少しだけ笑った。
困ったような、それでいて私を安心させようとするような笑い方だった。
「俺なら、お前を幸せにできたと思うけどな」
「…………」
「色んなところに連れて行ってやるし、やりたいことがあるなら好きにやればいい。王妃になったって、お前が全部背負わなくて済むようにしてやる」
「はい」
「俺、お前のこと相当好きだぞ」
「……知っています」
「ちょっとくらい惜しいと思え」
「思っています」
「…………」
リオンは何とも言えない顔で私を見つめた。
冗談めかしていた表情が、ほんの少しだけ揺らぐ。
「とても」
もう一度そう告げると、リオンは視線を逸らし、小さく息を吐いた。
何かを言おうとして、結局そのまま口を閉ざす。
「だから……困っています」
「何が」
「あなたを傷つけることが、嫌です」
「…………」
「でも、それを理由にあなたを選ぶことは、もっと違うと思うから」
その瞬間、リオンの表情が少しだけ変わった。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうだな」
「…………」
「それで俺を選ばれたら、俺も嫌だ」
そう言って、リオンは笑った。
寂しさがないはずはない。
それでも、その笑みには私の答えを責めるような色は少しもなかった。
「俺は、お前が自分で決めるところまで含めて好きになったからな」
「…………」
胸の奥が、強く痛んだ。
どうしてだろう。
答えを伝えられたのだから、これでよかったはずなのに――視界が滲んだ。
「……レティ?」
「…………」
瞬きをすると、頬を何かが伝った。
自分でも驚いて指先で触れると、涙だった。
「……何でお前が泣くんだよ」
「分かりません」
「振られたの、俺なんだけど」
「……分かっています」
「じゃあ俺が慰めるのおかしいだろ」
「申し訳ありません……」
「だから謝んなって」
呆れたような声がした次の瞬間、大きな手が私の頭に触れた。
ぽん、と、子どもをあやすように一度。
それからもう一度、優しく頭を撫でられる。
「……振った相手を慰めるのですか?」
「泣いてるからな」
「…………」
「俺が泣かせたみたいになるだろ」
「ある意味では、そうなのでは?」
「じゃあ俺にしとくか?」
「それは違います」
「即答かよ」
呆れたような声が、あまりにもいつものリオンらしくて、涙の残ったまま笑ってしまった。
こんな時なのに、いつもと変わらないやり取りができることが、少しだけ嬉しかった。
「……ひどいな、お前」
「すみません」
「また謝った。……ちゃんと自分で決めたんだろ?」
「……はい」
「なら、それでいい」
その声は、驚くほど穏やかだった。
私は唇を噛み、頷いた。
「……ありがとうございます」
「ああ」
「リオンさん」
「何だ?」
「これからも、手紙を書いてもいいですか?」
「何で駄目になるんだよ」
「ですが、私がアルバート殿下を――」
「まだ選んでねぇだろ」
「…………」
「これからだろ? あいつに言うの」
「はい」
「じゃあまだ俺にも一発逆転あるな」
「ありません」
「だから即答すんなって」
また笑ってしまう。
リオンも笑った。
いつものように。
けれど、少しだけ違っていた。
きっと今日を境に、私たちの関係も少し変わるのだろう。
それでも、すべてがなくなるわけではない。
旅をした時間も、笑ったことも、助けてもらったことも、私がリオンを大切に思っていることも。
それらまで、なくなるわけではないのだ。
「まあ、覚えとけ」
「何をですか?」
「あいつに泣かされたら、ヴァルガードに来い」
「…………」
「その時は、今度こそ俺がもらう」
「王太子がそのようなことを言ってよいのですか?」
「俺が王太子だから言えるんだろ」
「そういうものですか?」
「そういうもんだ」
絶対に違うと思う。
けれど、もう訂正する気にはなれなかった。
「それと」
「まだあるのですか?」
「ある」
リオンがまっすぐ私を見る。
先ほどまで浮かんでいた笑みはもうなくて、その緑の瞳は、ただ静かに私を見つめていた。
「幸せになれよ、レティ」
「…………」
また泣きそうになった。
けれど今度は、何とか堪えた。
「――はい」
それだけを答えると、リオンは満足そうに笑った。
その顔を見ながら、私は思う。
この人を好きにならなかったわけではない。
大切ではなかったわけでもない。
ただ、私が隣にいたいと思った人は、別の人だった。
その違いを知るために、一年かかった。
けれど、その一年を長かったとは思わない。
誰かに決められた答えではなく、待たせているから出した答えでもない。
自分で考えて、自分で知って、自分で選んだ答えだから。
今度こそ私は、自分の足で、その人のところへ行こうと思った。




