第88話 嫌だわ
アルバートとの婚約を解消してから、間もなく一年が経とうとしていた。
そのことに気づいたのは、机の上に積み上げられた報告書の日付を目にした時だった。
「……もう、そんなに経ったのね」
「何がですか?」
向かいの机で書類を整理していたアンナが、顔を上げる。
「婚約を白紙にしてからよ」
「ああ」
アンナは納得したように頷くと、手にしていた書類へ一度視線を落とした。
日付を確かめるように目を細めてから、どこか感慨深そうに息をつく。
「間もなく一年でございますね」
「早いわ」
「そうでしょうか」
「違う?」
「この一年のお嬢様は、以前より随分とお忙しそうでしたので」
「……働きすぎていた?」
「いいえ。楽しそうでございました」
「…………」
思いがけない言葉に、私はわずかに目を見開いた。
けれど次の瞬間には、自然と口元が緩んでいた。
「そうね」
確かに、忙しかった。
各地から寄せられる魔力異常や小さな異変の報告を集め、必要に応じて調査員を派遣する仕組みは、この一年で少しずつ形を整えていった。
報告の形式も統一され、以前なら別々の部署で処理されていた情報を、一つの場所で確認できるようになった。
私自身が現地へ赴いたことも何度かあったけれど、すべてを一人で担うことはしなかった。
任せられることは任せる。
自分がやりたいことと、自分にしかできないことを見極める。
それは今でも時折難しい。
気づけば、自分でやった方が早いと思って手を伸ばしそうになることもある。
けれど、そんな時には周囲が止めてくれるし、私自身も、一度立ち止まって考えられるようになった。
一年前よりは、きっと上手になったと思う。
そして、変わったのは仕事だけではなかった。
アルバートとは、あれから何度も会った。
食事をしたり、街を歩いたり、馬に乗ったり。
彼が好きだという古い歴史書を一緒に探したこともあれば、私が見たいと言った魔法具の展示に付き合ってもらったこともある。
最初の頃は、アルバートから誘われることの方が多かった。
けれど、いつからだっただろう。
私から声をかけることも、少しずつ増えていった。
初めて誘った日のことは、今でもよく覚えている。
『……俺を誘ってるのか?』
『そうですが』
『レティシアから?』
『そう申し上げています』
『もう一回言って』
『嫌です』
『何で』
あの時は、どうしてあそこまで喜ぶのか分からなかった。
けれど今なら、少しくらいは分かる気がする。
会わなければならないから会うのではない。
婚約者だからでも、王太子と公爵令嬢だからでもない。
私が会いたいと思ったから、誘う。
その違いを、彼はきっと私以上に大切にしていた。
そして、リオンとの交流も途切れてはいない。
ヴァルガードへ戻ったあとも手紙のやり取りは続いていた。
外交や魔力異常に関する書類に紛れて、時折、どうでもいい一文が書かれてくる。
――この間フィオーレで食べた菓子を再現させた。
――どうでした?
――不味くはない。
――では失敗ですね。
――何でそうなる。
半年ほど前には、調査の一環で私がヴァルガードを訪れた。
その時、リオンは私の顔を見るなり、当然のように言った。
『今度こそ二人で出かけるぞ』
『仕事で来ているのですが』
『半日くらいいいだろ』
結局、私は半日だけ彼に王都を案内してもらった。
以前とは逆だった。
フィオーレでは私が案内し、ヴァルガードではリオンが案内する。
知らない店へ連れていかれ、知らない料理を食べ、まだ見たことのなかった景色を見た。
――楽しかった。
そのことを、否定するつもりはない。
アルバートと過ごす時間も、リオンと過ごす時間も、どちらも私が自分で選んだものだった。
だからこそ、私は急いで答えを出そうとはしなかった。
どちらかを選ばなければならないから考えるのではなく、自分がどうしたいのかを知りたかった。
そして二人も、それを待ってくれていた。
◇
その日の夕方、屋敷へ戻ると、廊下でルーカスに呼び止められた。
「姉上」
「何?」
「今、時間ある?」
「ええ」
「少し話したい」
「仕事のこと?」
「いや……」
珍しく歯切れが悪い。
私は首を傾げながら、ルーカスとともに近くの談話室へ入った。
「どうしたの?」
「……姉上には、伝えておいた方がいいと思って」
「何を?」
ルーカスが少し迷う。
その様子を見ているうちに、なぜか胸の奥がざわついた。
「アルバート殿下のこと」
「殿下?」
「うん」
「何かあったの?」
思ったより早く声が出た。
ルーカスは一瞬だけ私の顔を見たけれど、何も言わずに続ける。
「殿下に、新たな婚約の話が出ている」
「………婚約?」
「まだ候補が挙がっているだけだよ。正式に何か決まったわけじゃない」
「…………」
「姉上との婚約が白紙になって、間もなく一年だろ」
「……そうね」
「王太子がいつまでも婚約者のいない状態ではいられない。そう考える貴族が出てくるのは、別におかしなことじゃない」
「分かっているわ」
そう、何もおかしくない。
アルバートはフィオーレの王太子だ。
いずれ国王になる。
その隣に立つ相手について話が出るのは、当然のことだった。
何より、私との婚約はもう終わっている。
私自身が、それを望んだのだ。
「王家には、すでにいくつか話が持ち込まれているらしい」
「そう」
「……まあ、姉上のところにも来ているんだから、分かるとは思うけど」
「ええ」
婚約を解消してからというもの、私にもいくつもの縁談が持ち込まれていた。
国内の貴族だけではない。
中には、他国の王侯貴族から寄せられたものもある。
けれど、今のところ誰かと新たに婚約するつもりはなかったため、そのすべてを断っていた。
だから、アルバートにも同じような話が持ち込まれること自体は、何も不思議ではない。
「もちろん、殿下が受けると決まったわけじゃないからね」
「分かっているわ」
「姉上」
「何?」
「……大丈夫?」
私は瞬きをした。
どうしてそんなことを聞かれるのか、すぐには分からなかった。
「何が?」
「いや……何でもない」
ルーカスはしばらく私を見ていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
◇
その夜、私はなかなか眠れなかった。
寝台に入って目を閉じても、頭の中には同じ言葉が浮かんでくる。
――新たな婚約。
「…………」
おかしなことではない。
何度考えても、結論は同じだった。
私は殿下との婚約を白紙にした。
私が自分の人生を選ぶ権利を持つのと同じように、殿下にも誰かを選ぶ権利がある。
そんなことは、ずっと前から分かっていた。
それなのに――アルバートの隣に、知らない女性が立つ。
そう考えた瞬間、胸の奥がざわついた。
その女性と食事をするのだろうか。
会いたいと手紙を書くのだろうか。
何が好きなのかを尋ねて、その人の好きなものを少しずつ覚えていくのだろうか。
疲れていれば、疲れたのかと聞くのだろう。
帰りたければ、帰りたいかと尋ねるのだろう。
私とこの一年かけて積み重ねてきたような時間を、今度は別の誰かと。
胸の奥が、先ほどよりも強くざわついた。
「……嫌だわ」
ぽつりと声に出してから、自分で驚いた。
――嫌。
何が?
殿下が婚約することが?
他の女性と?
「…………」
十年間、殿下の隣は私の場所だった。
だから、それを他の誰かに取られるように感じているだけなのかもしれない。
自分から婚約を白紙にしたくせに、殿下にはいつまでも自分を待っていてほしい。
もし私がそんなことを望んでいるだけなら、それはあまりにも身勝手だ。
私は自由だ。
殿下も自由だ。
分かっているが、それでも。
「……嫌だわ」
二度目の言葉は、先ほどよりもはっきりしていた。
◇
翌朝、執務室へ入るなり、アンナが私の顔を見て眉をひそめた。
「顔色が悪いですよ」
「……そう?」
「はい。眠れませんでした?」
「……少しね」
アンナは紅茶を置くと、私の顔を覗き込むようにして眉を寄せた。
誤魔化しても無駄だと言わんばかりの視線に、私はわずかに目を逸らす。
「何かございましたか?」
「…………」
何と答えるべきか迷って、私はしばらくカップの中の紅茶を見つめた。
自分でも、どうして昨夜あれほど眠れなかったのか、まだうまく説明できない。
それでも、アンナになら話してみてもいいような気がして、私はゆっくりと口を開いた。
「……殿下に、新しい婚約のお話が出ているそうよ」
「はい」
「知っていたの?」
「噂程度には」
「そう」
アンナはすぐには何も言わず、私の顔をじっと見つめていた。
何かを確かめるようなその視線に居心地が悪くなり、私は誤魔化すように紅茶へ手を伸ばす。
けれど、アンナの視線は逸れなかった。
「それで眠れなかったのですか?」
「…………」
「お嬢様」
「何?」
「嫌なのですか?」
あまりにも真っ直ぐに問われて、すぐには言葉が出てこなかった。
昨夜、確かに私は「嫌だ」と口にした。
けれど、では何が嫌なのかと改めて問われれば、その答えまではまだ自分の中で形になっていない。
「……分からない」
「では、嬉しいですか?」
「それは違う」
「…………」
考えるより先に答えていた。
アンナが何も言わないので、私は紅茶へ視線を落とす。
「何?」
「いえ」
「何なの?」
「分からないとおっしゃった割には、今のは随分と早かったなと思いまして」
「…………」
言われてみれば、その通りだった。
私は小さく息を吐く。
「……嫌、なのよ」
「はい」
「でも、それが殿下を好きだからなのかは、まだ分からない」
十年間、私の隣にいた人だから、その場所に別の誰かが立つことをただ受け入れられないだけなのかもしれない。
「そうかもしれません」
アンナは否定しなかった。
そのことに、少しだけ安心する。
アンナはいつだって、私の代わりに答えを決めない。
「だから、もう少し考えたいの」
「よろしいのでは?」
「でも」
「何でしょう?」
「殿下は、待っているでしょう?」
「そうですね」
「もう一年よ」
「はい」
「これ以上――」
「お嬢様」
アンナが静かに私の言葉を遮った。
咎めるような声音ではなかった。
ただ、私がまた一人で何かを背負おうとしていることに気づいた時の、いつもの穏やかな声だった。
「アルバート殿下は、お嬢様を待つとご自身で決めていらっしゃるのでしょう?」
「…………」
「でしたら、それは殿下の選択です。お嬢様がアルバート殿下の代わりに、『もう十分待たせたから答えなければ』と決める必要はないのでは?」
「…………」
何も返せなかった。
そうだ。
それもまた、私が勝手に背負おうとしていたことだった。
アルバートが何を望むのかまで、私が決める必要はない。
「……そうね」
「はい」
「ありがとう、アンナ」
「どういたしまして」
少しだけ肩の力が抜ける。
けれど、その時だった。
「そういえば……リオネル殿下にも、縁談のお話は多いそうですね」
「…………」
アンナが思い出したように付け加えた言葉に、紅茶へ伸ばしかけていた手が止まる。
「リオンさんに?」
「はい」
「どうしてそれを?」
「先日のヴァルガードからの使者が話しておりました」
「…………」
「リオネル殿下は、アルバート殿下より年上でいらっしゃいますし、正式に王太子となられましたから」
「……そう」
考えてみれば、当然のことだった。
リオンだって王太子なのだ。
しかもアルバートより年上なのだから、縁談の一つや二つ、ない方がおかしい。
「まだ、お決めになるつもりはないようですが」
「そうなの」
「はい」
私は再び紅茶へ視線を落とした。
リオンが、誰かと結婚する。
ヴァルガードの王宮で、その人がリオンの隣に立つ。
リオンはその人に笑いかけ、会いたいと言い、一緒に食事をしたいと言うのだろう。
知らない場所を見つければ、一緒に行こうと誘うのかもしれない。
相手が疲れていれば、疲れたのか、帰りたいのかと尋ねるのだろう。
「…………」
胸の奥が、静かに痛んだ。
――寂しい。
そう思った。
寂しいし、きっと悲しい。
旅をして、笑って、知らない景色を一緒に見た人が、今までとは違う場所へ行ってしまうような気がした。
もう二人で街を歩くこともなくなるのだろうか。
手紙にどうでもいいことを書いて送り合うことも、いつかできなくなるのかもしれない。
そう考えると、胸が痛む。
リオンは、私にとって大切な人なのだ。
それは、間違いない。
けれど――昨日、アルバートが誰かと婚約するかもしれないと聞いた時。
私が感じたものは、寂しさでも悲しさでもない。
――嫌だった。
ただ、どうしようもなく嫌だった。
「…………」
「お嬢様?」
アンナの声が聞こえる。
けれど私は、すぐには返事ができなかった。
リオンが誰かの隣に立つ未来を思えば、寂しい。
アルバートが誰かの隣に立つ未来は――嫌だ。
同じではない。
私はずっと、二人のどちらと過ごす時間が楽しいのかを比べる必要はないと思っていた。
実際、どちらと過ごす時間も楽しかった。
どちらも大切だった。
だからこそ――今、初めて見えたその違いから、目を逸らすことはできなかった。
「アンナ」
「はい」
「私……」
そこまで言って、言葉を止める。
まだ、アンナに答えを聞いてほしいとは思わなかった。
これは、自分で考えて、自分で言葉にしたかった。
「少し、一人で考えてもいいかしら?」
「もちろんでございます」
アンナは何も尋ねなかった。
そして静かに部屋を出ていく。
一人になった部屋で、私は窓の外へ目を向けた。
遠くに、王城の尖塔が見える。
そのどこかに、アルバートがいる。
私は自由だ。
彼も自由だ。
だから、殿下が誰かを選ぶことを止める権利など、私にはない。
それでも、嫌だと思うことまで否定する必要はないのかもしれない。
なぜ嫌なのか。
なぜ、リオンの時とは違うのか。
その答えを、私はもう――見なかったことにはできなかった。




