第85話 見ていることと、知ること
婚約が正式に解消されてから、三週間ほどが経った。
王城では、地方から寄せられる異変の報告を集約するための準備が進められていた。
まだ正式な部署として発足したわけではないものの、農政を扱う部署や騎士団、魔術師団などがそれぞれ保管していた過去の報告を集め、魔力との関連が疑われるものを洗い出す作業が始まっている。
私も父を通して陛下の許可をいただき、その作業に加わっていた。
旅の途中で実際に目にした異変と照らし合わせながら報告書を読み進めていると、それまで無関係に見えていた出来事の中にも、いくつか気になるものが見つかった。
まだ何かが分かったわけではない。
けれど、それでも楽しかった。
仕事に対して「楽しい」という言葉が自然に浮かぶことが、自分でも少し不思議だった。
誰かに与えられた役目ではなく、自分からやってみたいと言って始めたことだからなのかもしれない。
「お嬢様」
その時、声をかけられて顔を上げると、アンナが一通の封筒を手に立っていた。
「アルバート殿下からお手紙が届いております」
「殿下から?」
受け取った封筒を開くと、中の便箋には短い文章が記されていた。
『今日の仕事が終わったあと、時間はあるだろうか。よければ、一緒に食事をしたい』
「…………」
思わず、二度読み返した。
特別なことが書かれているわけではない。
けれど、以前なら届くことのなかった手紙だった。
婚約していた頃、殿下と食事をすることは珍しくなかった。
王城を訪れた日に昼食を共にすることもあれば、王家との晩餐に招かれることもあった。
けれど、そのたびに理由があった。
婚約者だから。
王太子と、その婚約者だから。
今日のように、ただ一緒に食事をしたいという理由だけで誘われた記憶はない。
「お返事はどうなさいますか?」
アンナに尋ねられ、私はもう一度手紙へ目を落とした。
行かなければならない理由はない。
断ったところで、何か問題が起きるわけでもない。
私はもう、殿下の婚約者ではないのだから。
――では、私はどうしたいのだろう。
「……行くわ」
「かしこまりました」
口にしてから、不思議な気持ちになった。
以前なら、予定が空いているかどうかだけを確認していた。
けれど今は違う。
行けるかどうかではなく、行きたいかどうかを考えた。
そして私は、殿下と食事をしたいと思った。
◇
仕事を終えたあと、指定された部屋を訪れると、アルバート殿下はすでに席についていた。
そこは王族が公式の晩餐で使う広間ではなく、王城の奥にある小さな食事室だった。
私の姿を見た殿下が立ち上がる。
「来てくれたな」
「お誘いいただきましたから」
「ああ。ありがとう」
あまりにも素直に礼を言われて、私は少しだけ戸惑った。
向かいの席へ腰を下ろすと、料理が運ばれてくる。
しばらくして、私はふと口を開いた。
「……何だか、不思議ですね」
「何が?」
「殿下と二人で食事をすることです」
「今まで何度もしてきただろう」
「そうなのですけれど」
うまく説明できずにいると、殿下は少し考えてから尋ねた。
「婚約者ではなくなってからは、初めてだからか?」
「……たぶん」
きっと、そうなのだと思う。
これまでの私たちは、会うことに理由を必要としなかった。
婚約者なのだから会う。婚約者なのだから食事をする。
婚約者なのだから隣に立つ。
十年間、それが当たり前だった。
「俺も、こういうのは慣れていない」
「殿下がですか?」
「ああ」
「女性をお食事に誘うことに?」
思わず聞き返すと、殿下は少し嫌そうな顔をした。
「君以外の女性を食事に誘っていた方がよかったのか?」
「そういう意味ではありません」
「ならよかった」
あまりにも即答だったので、私は目を瞬いた。
「十年間、婚約者がいたからな。わざわざ女性を個人的に食事へ誘う機会なんてなかった」
「……それは、そうですね」
「君のことだって、誘ったことはほとんどなかっただろう?」
「そういえば……」
思い返してみると、確かに殿下から「食事をしよう」と誘われた記憶はほとんどなかった。
「誘わなくても、君は婚約者として俺の隣にいたからな」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
「……殿下は、それでよかったのですか?」
「何が?」
「私と食事をすることも、婚約者だからそうしていただけなのかと」
尋ねると、殿下は意外そうに目を瞬いた。
「そんなわけないだろう」
「違うのですか?」
「ああ。俺は、君と一緒にいられるだけで嬉しかった」
あまりにもまっすぐに言われて、今度は私が言葉を失った。
「……そうだったのですか?」
「そうだった」
「でも、殿下はいつも……」
そこで言葉に詰まる。
何と言えばいいのだろう。
「……あまり、楽しそうには見えませんでした」
「緊張していたからな」
「緊張?」
「好きな相手が目の前にいたんだぞ」
当然のことのように言われて、私はますます困惑した。
「何か話したいとは思っていた。でも、何を話せばいいのか分からなかった。変なことを言って嫌われるのも嫌だったしな。そうしているうちに、結局ろくに言葉が出てこなかった」
「…………」
「それでも俺は、一緒にいられるだけで嬉しかった。君も同じだと思っていた」
そんなこと、考えたこともなかった。
私にとって、殿下との食事は婚約者として当然にこなす予定の一つだった。
けれど、同じ席に座っていた殿下は、まったく違うことを考えていたらしい。
「……言ってくださらなければ、分かりません」
「ああ。今なら分かる」
殿下は苦笑した。
「だから、今日は言う。俺が君と食事をしたかった。婚約者だからじゃない。君と一緒にいたかったから、誘った」
「……そうですか」
「ああ」
ただそれだけの言葉なのに、なぜだか返事に困った。
ちょうどその時、前菜が運ばれてきたので、私はそちらへ視線を逃がした。
それからしばらくは、最近の仕事について話した。各地から集められた報告書のこと。
同じ時期に近い地域で起きていた異変のこと。
まだ試験的な段階ではあるものの、今後は専門の人員を置く話も進んでいること。
殿下は時折質問を挟みながら、静かに耳を傾けていた。
「楽しいか?」
「はい。楽しいです」
答えてから、自分の口からあまりにも自然に言葉が出たことに気づいた。
殿下も少し目を見開く。
「……何ですか?」
「いや。そんなふうに答える君を見るのは、珍しいと思って」
「そうでしょうか」
「ああ」
そこで、私はふと気づいた。
「殿下は、聞いたことがありませんでしたね」
「何を?」
「王太子妃教育が楽しいかどうか」
「……そうだな。聞かなかった」
「私も、言いませんでした」
「言わなくても分かると思っていたんだろうな。君は何でもできたから」
「……はい」
「できることと、苦しくないことは違うのにな」
以前も殿下から言われた言葉だった。
あの時は、自分に向けられたその言葉を、今度は私が父に伝えた。
「……その言葉、私もお父様に言いました」
「そうなのか?」
「はい」
「役に立ったならよかった」
「殿下から言われた時は、あまり素直に受け取れなかった気もしますけれど」
「それは……仕方ないな」
少し気まずそうに視線を逸らす殿下がおかしくて、私は小さく笑った。
「でも、本当にそうだと思う。……俺は君を見ているつもりだった」
「……え?」
「実際、見ていたとも思う」
その言葉の意味が分からず、私は瞬いた。
ちょうどその時、魚料理が運ばれてきた。
白身魚に、数種類の香草を使ったソースが添えられている。
皿を見た殿下は、すぐに私へ視線を向けた。
「それ、大丈夫か?」
「え?」
「香草。君は香りの強いものがあまり好きじゃないだろう」
私は魚料理と殿下を交互に見た。
「どうして、ご存じなのですか?」
「どうしてって……十年一緒にいたんだぞ」
「私、お話ししたことがありましたか?」
「いや」
「では、どうして」
「香草が強い料理の時だけ、食べるのが遅かったから」
言われても、自分では覚えていなかった。
「残したことはないと思いますけれど」
「君は基本的に出されたものを残さないだろう。でも、あまり好きじゃないものは少しだけ食べる速度が落ちる」
「…………」
「何だ?」
「いえ」
少し怖い。
――ストーカー。
一瞬そんな言葉が頭をよぎった。
けれど、十年間の婚約者である。
しかも四六時中私を監視していたわけではなく、一緒にいる時の様子を覚えていただけだ。
前世なら、これはどう判断されるのだろう。
――ただし、イケメンに限る。
……違う。そういう問題ではない。
「他にもありますか?」
「何が?」
「私について、そういう……私がお話ししていないのに、殿下が知っていることです」
「あるぞ」
「あるのですか」
なぜか少し身構えてしまった。
「甘いものは好きだが、甘すぎるものはあまり食べない」
「……はい」
「果物なら桃が好きだろう」
「はい」
「茶は香りの強いものより普通のものをよく飲む」
「……はい」
「人の多い夜会では、後半になると口数が減る」
「それは疲れているだけでは?」
「だから、疲れるんだろうと思っていた」
「…………」
私は思わず殿下を見つめた。
「知っていたのですか?」
「ああ」
「私が疲れていることを?」
「たぶんな」
殿下はそこで、少し苦い顔をした。
「君の返事が短くなってくると、今日は疲れているんだろうと思っていた。だから、そろそろ帰した方がいいとも考えていた」
「それなら……」
「ああ」
私が何を言いたいのか分かったのだろう。
殿下は静かな声で続けた。
「聞けばよかった。『疲れているのか』とか、『もう帰りたいか』とか。聞けばよかったのに、俺は君を見て分かったつもりになって、自分で判断していた」
私は何も言えなかった。
「俺は、君のことを見ているつもりだった。実際、見ていたとも思う。でも、見て分かったつもりになっていた」
殿下の視線が、まっすぐ私へ向けられる。
「聞かなかった」
その言葉が、妙に胸に残った。
私はずっと、殿下は私を見ていなかったのだと思っていた。
私が何を好きで、何が嫌いで、何を考えているのか。何一つ興味がないのだと。
けれど、それは少し違ったのかもしれない。
見ていなかったわけではない。
見ていた――ただ、それだけで知ったつもりになっていた。
「……私もです」
「レティシア?」
「私も、殿下に聞きませんでした」
アリスと一緒にいるところを見た時もそうだった。
殿下は私に興味がないのだと思った。
アリスの方が大切なのだと思った。
それまで積み重なっていたものがあったからこそ、そう思ったのだけれど、それでも私は、殿下が何を考えているのか尋ねなかった。
「私たち、似たようなことをしていたのかもしれませんね」
「……そうかもしれないな」
私は目の前に座る人を、改めて見つめた。
黒い髪。金色の瞳。十年間、何度も見てきた顔。
けれど、私はこの人のことを、どれほど知っているのだろう。
「殿下」
「何だ?」
「殿下は、何がお好きなのですか?」
「レティシア」
「私以外でお願いいたします」
「駄目か?」
「質問の趣旨が変わっています」
「そうか」
少し残念そうに言われて、私はため息をついた。
けれど殿下は、そのあと本当に困ったように黙り込んだ。
「……そんなに難しい質問でしたか?」
「いや。そういうわけでは……」
殿下はしばらく考え込んだ。
「食べ物は、特に好き嫌いはない」
「甘いものは?」
「嫌いではない」
「本は?」
「読む」
「どんなものがお好きですか?」
「歴史書や外交関係のものが多いな」
「それは、お好きだから?」
「…………」
また黙ってしまう。
「剣も魔法も嫌いじゃない。馬に乗るのも好きだと思う。だが……」
殿下は少し考えてから、苦笑した。
「必要だからやってきたものが多いな」
その言葉に、私は瞬いた。
「王太子だから学ぶ。王太子だから剣も魔法も身につける。食事も服も、王族として相応しいものを選ぶ。考えてみれば、自分が何を好きなのかなんて、あまり考えたことがなかった」
それは少し意外だった。
けれど同時に、どこか納得もした。
私はアルバート殿下のことを知っている。
得意な魔法も、剣の腕も、仕事の進め方も、外交の場でどう振る舞うのかも、どんな色の正装をよく身につけるのかも。
けれど、それはすべて――。
「私、王太子殿下のことなら知っています」
「何だ、急に」
「でも……アルバート殿下のことは、あまり知らない気がします」
殿下が目を見開いた。
「殿下が何をしている時に楽しいのか。何が嫌いなのか。疲れた時にどうなるのか。辛い時にどうしてほしいのか」
――何も知らない。
「……私たち、十年も何をしていたのでしょう」
「婚約者をしていた」
「それは知っています」
「なら、それに忙しすぎたんじゃないか?」
「え?」
「王太子と、その婚約者をやることに忙しすぎて、俺たち自身のことを知るのを忘れていたのかもしれない」
妙に納得してしまい、私は小さく笑った。
「十年もあったのに」
「十年あったから、かもしれないな」
「どういうことですか?」
「いつでも知れると思っていた。……君が隣にいることも、ずっと続くと思っていたから」
殿下は少しだけ視線を落とした。
胸の奥が、かすかに揺れた。
けれど、以前のような苦しさではなかった。
「でも、一つだけ」
殿下が再び私を見る。
「十年前の俺が、自分で選んだものを一つ挙げろと言われたら、やっぱり君になる」
「……それ、少しずるくありませんか?」
「口説いてるからな」
「堂々と言わないでください」
「もう黙って失敗したからな」
思わず笑ってしまった。
「ただ、前にも言った通りだ」
殿下の声が少しだけ真面目になる。
「俺が十年前に君を選んだことと、君が今、俺を選ぶかどうかは別だ」
「……はい」
それを、この人はもう分かっている。
だからこそ、今こうして私たちは向かい合っているのだろう。
婚約者ではない二人として。
私は少し考えてから、口を開いた。
「では、探してみませんか?」
「何を?」
「殿下のお好きなものを」
「俺の?」
「はい」
自分でも、口にしてから少し驚いた。
けれど、不思議と取り消したいとは思わなかった。
「私も、殿下のことを知りたいです」
「…………」
「婚約者だった頃には知らなかったことを。これから少しずつ」
殿下が黙り込んだ。
「……殿下?」
「いや」
「何ですか?」
「俺だけが君を口説いているつもりだった」
「?」
意味が分からず首を傾げると、殿下は片手で額を押さえた。
「その顔を見る限り、自覚はないんだな」
「何のですか?」
「いや。今はいい」
何がいいのかは分からない。
問い返そうとしたところで、殿下が私の皿へ視線を落とした。
「それ、下げてもらうか?」
「大丈夫です。食べられますから」
「食べられるかどうかじゃなくて。食べたいか?」
殿下はそう言って、少しだけ笑った。
私は先ほどから、ほとんど手をつけていなかった皿を見る。
食べられないわけではない。
嫌いだからと残すほどでもない。
これまでなら、きっとそのまま食べていただろう。
けれど。
「……今日は、あまり食べたくありません」
「そうか」
口にしてみると、驚くほど簡単だった。
殿下はそれ以上何も言わず、給仕へ声をかけ、香草のソースを別のものに替えられないか尋ねた。
しばらくして、香草のソースを取り除き、代わりにあっさりとした味付けを施した皿が戻ってくる。
一口食べてみる。
「……美味しいです」
「そうか」
「はい」
殿下が嬉しそうに笑った。
ただそれだけのことだった。
食べられるものではなく、食べたいものを選ぶ。
そんな小さなことすら、今までの私はあまりしてこなかったのかもしれない。
そしてきっと、人を知ることも同じなのだ。
見ているだけでは分からない。
長く一緒にいるだけでも、きっと足りない。
知りたいと思って、言葉にして、尋ねなければ分からないことがある。
食事を終え、席を立つ前に、殿下が私を見た。
「レティシア」
「はい」
「また誘ってもいいか?」
私は少しだけ考えた。
次も行けるかどうかは、まだ分からない。
仕事が忙しいかもしれないし、その日は一人で過ごしたいと思うかもしれない。
けれど、誘われること自体は――
「はい。また、お誘いください」
私が頷くと、殿下の表情が緩んだ。
十年間、婚約者として隣にいた人。
知っているつもりで、知らなかった人。
私もまだ、自分が何を好きで、何をしたいのかを知り始めたばかりだ。
だから、急がなくてもいいのだと思う。
殿下のことも。
私自身のことも。
これから少しずつ、知っていけばいい。




