第84話 やってみたい
アルバート殿下との婚約が、正式に解消された。
その知らせを受けたのは、殿下と話をしてから数日後のことだった。
父と陛下の間でも協議が行われ、私自身も改めて意思を確認された。
十年にわたる王太子と公爵令嬢の婚約なのだから、当然、私と殿下だけの話では終わらなかった。
王城では、今さら婚約を解消する必要があるのか、このまま時間を置いて二人の関係が落ち着くのを待つべきではないかという意見も出たらしい。
王太子の婚姻は国政にも関わる。
個人の意思だけで決めてよいものではない、と。
それだけではなかった。
旅先で〝白銀の魔女〟と呼ばれた魔法使いが私であることは、今回の一件を調べる中で王家にも知られている。
大規模な浄化魔法を使える魔法使いが、王太子との婚約まで失う。
それによって私をフィオーレに留める理由が一つ減ることを、懸念する声もあったという。
他国から婚姻の話が持ち込まれる可能性もある。
もし私がそれを受け入れ、この国を離れることになればどうするのか。
父から聞かされていた通りの話だった。
どれも、以前の私なら頷いていたと思う。
国のためだから。
王家のためだから。
公爵家のためだから。
それなら、私が受け入れればいい。
そう考えていただろう。
けれど、今回は違った。
何度問われても、私は同じ答えを返した。
婚約を、一度白紙に戻したい。
アルバート殿下も、その意思を支持してくださった。
私をこの国に留めるために婚約を残すことも、私がいつか考えを変えるかもしれないからと結論を先延ばしにすることも、殿下は望まなかった。
最終的に陛下も認められ、十年間続いた私たちの婚約は、正式に解消された。
その事実を記した書類が、今、私の机の上に置かれている。
私はしばらくの間、そこから目を離せなかった。
書類に記されているのは、一つの名前だけだった。
――レティシア・エトワール。
ただ、それだけ。
もうそこに、王太子アルバート殿下の婚約者という言葉はない。
「……終わったのね」
声に出してみても、不思議と実感は湧かなかった。
もっと大きな何かが変わるのだと思っていた。
胸が苦しくなるのかもしれない。
あるいは、すべてから解放されたように身体が軽くなるのかもしれない。
けれど私は昨日までと同じ部屋にいて、同じ椅子に座り、同じ窓から庭を眺めている。
十年間あったものがなくなったというのに、世界は何も変わらず続いていた。
「……こんなものなのかしら」
「何が?」
不意に声がして振り返ると、いつの間にかルーカスが扉のところに立っていた。
「入るなら声をかけてちょうだい」
「かけたよ。三回くらい」
そう言われて、私は黙り込んだ。
まったく聞こえていなかったらしい。
ルーカスは向かいの椅子へ腰を下ろすと、机の上の書類へ視線を向けた。
「それ?」
「ええ。正式に白紙になったわ」
「そっか」
それだけ言って、ルーカスは黙り込んだ。
沈黙がしばらく続いたあと、私は彼の横顔を見ながら尋ねた。
「……何も聞かないの?」
「何を?」
「その……殿下とのこととか」
「聞いてほしい?」
どこかで聞いたことのある言葉だった。
「またそれを言うの?」
「何が?」
「何でもないわ」
ルーカスが不思議そうに首を傾げる。
その様子を見ているうちに、私はもう一度、机の上の書類へ目を落とした。
「もっと、何か変わると思っていたの」
「変わったでしょ」
「そうかしら」
「少なくとも姉上は、もう王太子殿下の婚約者じゃない」
「ええ」
「だったら、これから何をするかは姉上が決めればいい」
その言葉を聞いた瞬間、私は答えに詰まった。
何をするか。
あれほど欲しかったはずの自由を目の前に差し出されて、私は何も思いつかなかった。
「……何をしたらいいのかしら」
「知らないよ」
「少しくらい一緒に考えてくれてもいいでしょう」
「僕が決めたら意味ないじゃない」
「そうだけれど」
ルーカスは少しだけ身を乗り出し、私の顔を覗き込んだ。
「何をしたらいいかじゃなくて、姉上は何がしたいの?」
あまりにも簡単に尋ねられて、私はすぐには答えられなかった。
あの時の私は、ただここから離れたかった。
王太子の婚約者として求められることも、公爵令嬢として期待されることも、もう何も考えたくなかった。
誰にも何も求められない場所へ行きたい。
自分がどうしたいのかを、自分で決めてみたい。
そう思って家を出た先で、結果として旅をすることになった。
知らない場所へ行き、知らないものを見て、これまでなら出会うことのなかった人たちと出会った。
そして旅の途中で、私はさまざまなものを見た。
水を失った町。
魔物に怯える小さな集落。
何者かの思惑によって、何も知らないまま生活を脅かされた人々。
ヴァルガードで起きていたことも、ファルケン侯爵が仕掛けた術式も、私に魔法が使えなければ救えなかった人がいたのかもしれない。
その記憶を一つずつ思い返すうちに、胸の奥から、かすかな思いが浮かび上がってきた。
「……助けたい、とは思うの」
「誰を?」
「困っている人を」
口にした途端、自分でも随分と曖昧な答えだと思った。
案の定、ルーカスも微妙な顔をした。
「範囲、広すぎない?」
「分かっているわよ」
「姉上、一人で世界中を救うつもり?」
「そんなことは言っていないでしょう」
「ならよかった」
少しむっとしかけた私は、ふと考えた。
以前の私なら、どう考えただろう。
助けられるのなら、助けなければならない。
私にできるのなら、私がやらなければならない。
私にしかできないのなら、なおさら。
そうやって、また自分一人で抱え込んでいたのかもしれない。
「……違うわね」
「何が?」
「全部を助けたいわけではないわ」
「うん」
「私一人で、何もかもを背負いたいわけでもない」
「それは絶対やめて」
「あまりにも早い返事ね」
「だって、姉上ならやりかねないから」
真剣な顔で言われて、私は思わず笑ってしまった。
笑いが収まると、私は窓の外へ視線を向けた。
「ただ……私にできることがあって、それをしたいと思った時には、できる人でいたいの」
王太子妃だからでもない。
公爵令嬢だからでもない。
人より強い魔法が使えるのだから、それを役立てなければならないからでもない。
「誰かにやれと言われたからではなくて、私が、そうしたいと思った時に」
「いいんじゃない?」
「……随分簡単ね」
「姉上が自分でそう思ったならね」
ルーカスはそう言ってから、少し考えるように首を傾げた。
「でも、どうやって?」
「え?」
「困っている人を助けるって言っても、姉上が何か起こるたびに全国を走り回るわけにはいかないだろ?」
「それは……そうね」
「今回だって、姉上が偶然あの辺りを通らなかったら、気づくのはもっと遅れていたかもしれない」
「…………」
「だったら、異変が起きた時にちゃんと報告が上がる仕組みとか、魔力の異常を調べる人とか、そういうものがあった方がいいんじゃない?」
私はルーカスを見つめた。
「……あなた」
「何?」
「ちゃんと考えてくれているじゃない」
「話を聞いてたら思いついただけ」
ルーカスは肩をすくめた。
けれど、その言葉は私の中に残った。
――仕組み。
ルーカスの言葉を頭の中で繰り返しているうちに、ふと、前世で働いていた頃のことを思い出した。
前世で働いていた頃、部署ごとに管理されていた情報をまとめて確認する機会があった。
一件だけを見れば、それほど大きな問題には見えなくても、同じような報告が何件も続けば話は変わる。
発生した時期や場所、内容を並べてみることで、それまで見えなかった共通点が浮かび上がることもあった。
こちらの世界でも、同じことができるのではないだろうか。
井戸の水が減った。
魔物が普段とは違う場所に現れた。
作物の育ちが悪くなった。
一つ一つを別の出来事として見れば、珍しいことではないのかもしれない。
けれど、それらが同じ地域で、同じ時期に起きていたとしたら。
すべての異変を私一人が見つけに行く必要はない。
各地から上がってくる小さな異変を一つの場所へ集め、並べて確認することができれば、その中から何かを見つけられるかもしれない。
「……そうね」
考えているうちに、少しずつ形が見えてきた。
「全部、私が助けに行く必要はないのね」
「当たり前だよ」
「そうではなくて。異変を見つけるところから、私一人でやる必要はないということよ」
私一人が命を削る必要はない。
誰か一人が犠牲になる必要もない。
それでも、助けられる人は増えるかもしれない。
そう考えると、胸の奥に沈んでいたものが、少しずつ形を持ちはじめた。
「……面白そうね」
口にすると、ルーカスが少し笑った。
「姉上がそういう顔するの、久しぶりに見た」
「そう?」
「うん」
自分では分からなかった。
けれど、胸の奥に生まれた感覚には覚えがなかった。
何かをしなければならない、ではない。
――何かをしてみたい。
そう思った。
◇
その日の午後、私は父の執務室を訪れた。
「地方で起きた異変について、少し伺いたいことがあります」
「ああ」
父は机の上に置かれていた書類を何枚か手に取り、私へ差し出した。
「今回の一件を受けて、王城でも調査が始まっている。トロン伯爵に関する捜査と並行して、過去数年に起きた異変についても報告を集めているところだ」
受け取った紙へ目を通す。
井戸の水量低下。
魔物の活動範囲の変化。
作物の不作。
局地的な魔力の乱れ。
一つだけなら、よくあることとして処理されてしまいそうなものばかりだった。
けれど、今回の旅で見たものを思い返せば、それらがまったく別の出来事だとは言い切れない。
「こうした報告は、すべて同じところへ集められるのですか?」
「いや。現在は各領主から王城へ上げられているが、内容によって管轄が違う。農作物なら農政を扱う部署、魔物なら騎士団や冒険者組合、魔力そのものに関する異常なら魔術師団だ」
「では、別々に処理されているのですね」
「ああ」
それでは、一つ一つの異変は確認できても、それらを並べて見る者がいない。
私は手にしていた報告書を、机の上へ並べた。
「魔力に関係する可能性があるものだけでも、一度まとめて確認できるようにした方がよいのではないでしょうか」
「お前もそう思うか」
「はい」
「陛下も、似た案を検討されている」
「陛下が?」
「ああ。今回の件で、地方の小さな異変を軽視する危険性が分かったからな。既存の魔術師団だけに任せるのではなく、情報の集約と調査を専門に行う仕組みを作れないかという話が出ている」
思わず、並べた書類へ目を落とした。
先ほどルーカスと話していたことと、よく似ている。
もしそれが実現すれば。
旅の途中で私たちが偶然見つけたような異変を、今度は偶然ではなく見つけられるかもしれない。
「お父様」
「何だ?」
「それは……私も関わることができますか?」
「お前は、関わりたいのか?」
その問いに、私は先ほどのルーカスとの会話を思い出した。
何をするべきなのか。
何を求められているのか。
以前の父なら、きっと先に答えを示していただろう。
けれど今、父はそれをせず、私がどうしたいのかを尋ねている。
「はい。私が、やってみたいのです」
迷いはなかった。
父はしばらく私を見つめ、それから表情をわずかに緩めた。
「そうか」
「はい」
「なら、陛下に話してみよう。お前が旅先で実際に異変を見てきたことも、術式を調べた経験も役に立つはずだ」
「ありがとうございます」
「ただし」
「?」
「無理はするな」
あまりにもまっすぐな言葉に、私は一瞬、返事を失った。
「お前一人でやる必要はない。仕組みを作ると言っている本人が、結局すべて自分で抱え込んだのでは意味がないからな」
もっともな言葉に、私は少しだけ視線を逸らした。
「……分かっています」
「本当に分かっているか?」
「たぶん」
「そこは断言しなさい」
「努力します」
「それも少し心配だな」
父がため息をつく。
その様子がおかしくて、私は小さく笑った。
こんなふうに、自分がやってみたいことを父に話す日が来るとは思わなかった。
まして、それを頭から否定されるのでも、逆に「お前ならできる」と当然のように任されるのでもなく、無理をするなと言われる日が来るなんて。
◇
部屋へ戻ると、私は窓を開けた。
夕暮れの空の向こうに、王城が見える。
私はもう、王太子殿下の婚約者ではない。
未来の王太子妃でもない。
それでも、この国で私にできることはある。
――いいえ。
できること、ではない。
私が、やってみたいことがある。
ふと、ヴァルガードで聞いたリオンの言葉を思い出した。
『できることが増えたのは、悪くねぇな』
王太子という立場を得たリオンは、そう言った。
あの時、私は初めて考えたのだ。
立場があるからこそ、手の届く場所もあるのだと。
昔の私は、王太子妃という立場から逃げたかった。
けれど、本当に嫌だったのは、立場そのものだったのだろうか。
未来の王太子妃だから、こうしなければならない。
公爵令嬢だから、こうあるべきだ。
誰かに決められた立場の中で、その先の生き方まで決められていることが、苦しかったのではないだろうか。
だからといって、今すぐ何かの立場を選ぶ必要はない。
王妃になるのか。
公爵令嬢としてこの国で生きるのか。
それとも、まったく別の道を選ぶのか。
まだ何も決まっていない。
けれど、一つだけ分かった。
私はもう、何も背負いたくないから、すべてから逃げたいわけではない。
自分で選んだものなら、責任を持つこともできる。
誰かのために力を使うこともできる。
何もかもを一人で抱え込むのではなく、誰かと一緒にできる方法を考えることもできる。
それを、しなければならないからではなく。
私が、そうしたいと思えるのなら――
窓から入ってくる風が、頬を撫でる。
やらなければならない。
そう思って生きてきた。
けれど今、胸の中にあるのは、それとは少し違う。
――やってみたい。
初めて、自分の未来に対してそう思えた。
読んでいただきありがとうございます!
最終話まで書き終えました!
完結まであと少しなので、明日から更新ペースを上げて、12時と20時30分に更新します。
25日20時30分の更新で完結予定です!
最後までお付き合いいただけると嬉しいです(´꒳`)




