第83話 今度は聞く
自分の部屋は、何一つ変わっていなかった。
机も、本棚も、窓辺に置かれた椅子も、まるで私がほんの少し外出していただけであるかのように、屋敷を出た日のまま残されている。
「……本当に、そのままなのね」
部屋を見回しながら呟くと、持ち帰った荷物を整理していたアンナが手を止めた。
「はい。旦那様が、何も動かさないようにとおっしゃったそうです」
「お父様が?」
私はもう戻らないかもしれないと思っていた。
あの日、この部屋を出た時には、ここへ帰ってくる未来など考えていなかったのだ。
それでも部屋は残され、昨日は屋敷の前で家族三人が私を待っていた。
――私を、待っていたの?
あの時に感じた小さなざわめきが、また胸の奥に蘇る。
「お嬢様。旦那様と奥様が、お話をしたいとおっしゃっています」
「……そう。分かったわ」
無断で屋敷を出て、国境を越え、ヴァルガードまで行ったのだ。
話さなければならないことはいくらでもある。
私はアンナに頷き、父の執務室へ向かった。
◇
部屋には父と母が待っていた。
ルーカスの姿はない。
家族の話なのだから同席していてもおかしくはないけれど、あえて席を外してくれたのかもしれない。
「座りなさい」
「はい」
父に促され、向かいのソファへ腰を下ろす。
無断で屋敷を出たことを叱られるのだろうか。
危険なことをしたと責められるかもしれない。
けれど、しばらく黙っていた父の口から出たのは、予想していたものとはまるで違う言葉だった。
「……すまなかった」
「……お父様?」
「お前が出ていった日のことだ。いや――それ以前から、だな。……お前が、あそこまで追い詰められていたことに気づかなかった」
父は一度言葉を切り、膝の上で組んだ手へ視線を落とした。
何を言えばいいのか分からなかった。
叱られることなら考えていた。
けれど、謝られることだけは考えていなかった。
すると母が静かに口を開いた。
「……あなたは昔から、何でもできる子だったわ。教えられたことはすぐに覚えて、弱音も吐かなくて。王太子妃になるための教育が始まってからも、一度も嫌だと言わなかった。だから……大丈夫なのだと思っていたの。あなたならできる、と」
何度も聞いてきた言葉だった。
あなたならできる。
レティシアならできる。
だから、もっと。
「できることと、苦しくないことは違います」
気づけば、そう口にしていた。
少し前、アルバート殿下から言われた言葉でもある。
私はできたからやってきたし、周囲もできるのだから大丈夫なのだと思っていた。
けれど、それと苦しくないことは、まったく同じではなかった。
「……そうね。今なら分かる、なんて言ってはいけないわね。私は、あなたが苦しいことにすら気づかなかったのだから」
母は静かに頷き、けれどすぐに首を振った。
責めたいと思っていたわけではない。
だからといって、今すぐ何もかもを許せるわけでもなかった。
ただ、ずっと分からなかったことがある。
「お母様」
「何?」
「私が、王太子妃にならなくても……私は、お父様とお母様の娘ですか?」
二人の表情が止まった。
幼い頃から、私はエトワール公爵家の娘であり、王太子の婚約者であり、未来の王太子妃だった。
では、それらをすべて失った時。
何の役にも立たない、ただのレティシアとして、この家にいてもいいのだろうか。
「……当たり前だ。王太子妃であろうとなかろうと、お前は私たちの娘だ。それが変わることなどない」
「ですが、そう言っていただいたことは、一度もありません」
父も母も、何も言わなかった。
「私はずっと、王太子妃になるために育てられてきました。勉強をして、魔法を学んで、礼儀作法を身につけて。できれば褒めていただけましたけれど、それはいつも次へ進むためのものだったから」
言葉にするうちに、自分がずっと抱えていたものの形が、少しずつ見えてくる。
「私は……お父様とお母様が、私のことを好きなのかどうかも、よく分かりませんでした」
今さら子どものようなことを言っていると思った。
けれど、二人は笑わなかった。
やがて父が口を開いた。
「……そう思わせたのは、私たちだ。お前を王太子妃にすることが、お前のためでもあると思っていた。殿下との婚約は公爵家にとって名誉であり、お前の将来も約束される。お前ほどの能力があれば、いずれ国を支えることもできる。だが、その人生をお前自身が望んでいるのかと、一度も聞かなかった」
「……あなたを愛していなかったわけではないの。でも、それで許されるとは思っていないわ。私たちがどれだけ愛していたつもりでも、それがあなたに伝わっていなかったのなら、あなたが愛情だと思えなかったのは当然だから」
胸の奥が、小さく揺れた。
今さらだとも思う。
もっと早く言ってほしかったとも思う。
それでも、屋敷の前で待っていた二人の姿を思い出した。
あれは未来の王太子妃を待っていたのではなく、ただ娘が帰ってくるのを待っていたのだろうか。
「……私も、すぐにはどうすればいいのか分かりません」
「それでいい。今までのことが、一度話しただけでなくなるとは思っていない。これから考えればいい」
「……これから」
「ああ」
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
今までの私には、自分の『これから』を考える必要などなかった。
すでに決められていたからだ。
けれど今は違う。
ならば、その『これから』を考えるために、まず一つ、きちんと終わらせなければならないものがある。
「お父様。お願いがあります」
「言ってみなさい」
私は膝の上で手を組み、一度息を吸った。
「アルバート殿下との婚約を、一度、正式に白紙にしたいと思っています」
母が息を呑み、父もすぐには答えなかった。
「……殿下を嫌いになったのか?」
「分かりません。ただ、今の私は、殿下のことをもう一度知りたいと思っています」
「なら、なぜ婚約を白紙にする?」
「だからです」
アルバート殿下にとって、あの婚約は誰かに決められたものではなかった。
幼い殿下は候補者の中から私を望み、ご自身で私を選んでくださった。
――けれど、私は違う。
王太子殿下の婚約者に選ばれたと聞き、それを受け入れた。
受け入れないという道があることすら、考えなかった。
「殿下は、私を選んでくださっていました。けれど私は、自分の意思で殿下のお隣にいることを望んだことがありません」
殿下が嫌だったわけではない。
幼い頃は一緒にいることが楽しく、いつか結婚するのだと思っていた。
それでも、それは私自身が選び取った未来ではなかった。
「ですから、一度だけ……殿下の婚約者ではない、レティシア・エトワールになりたいのです。その上で、自分が何を望んでいるのかを考えたい」
旅を続けるのか。
この国に残るのか。
何か新しいことを始めるのか。
それとも、誰かの隣に立つのか。
「そして、その先でも殿下のお隣にいたいと思えたなら、婚約者だからではなく、私自身の気持ちとして、殿下にそうお伝えしたいのです」
長い沈黙のあと、父が静かに口を開いた。
「レティシア。お前が言っていることが、どういう意味か理解しているか?」
「理解しているつもりです」
「十年にわたる王太子殿下との婚約だ。白紙にすれば周囲は騒ぐ。理由を詮索する者も、勝手な憶測を口にする者もいるだろう。公爵家だけではない。お前自身も、無傷ではいられない」
「……はい」
「それに、お前はただの公爵令嬢ではない」
「魔法、ですか?」
「ああ。ルーカスからも少し聞いている。旅先では、“白銀の魔女”などと呼ばれていたそうだな」
「……そこまで聞いていたのですね」
「今回の件について調べれば、お前だと考えるのは難しくない。王家も、お前の力がどれほどのものか以前以上に理解しただろう」
父の表情が、公爵としてのものに変わる。
「王太子との婚約がなくなれば、お前をこの国に繋ぎ止めるものが一つなくなる。他国から婚姻の話が来る可能性もある。お前ほどの魔法使いが国外へ渡ることを、警戒する者もいるはずだ」
そこまで考えてはいなかった。
私にとって婚約を白紙にすることは、一度何の立場にも縛られていない自分になるためのものだった。
けれど国から見れば、意味は違うらしい。
「私は、それを理由にお前を縛るべきだとは思っていない。だが、知らないまま決めさせるわけにもいかない」
「……はい」
「そして、婚約を白紙にすれば、殿下もまた自由になる。殿下は王太子だ。新たな妃候補をと考える者は必ず出てくる。お前がいつか答えを出した時にも、今と同じ状況が残っている保証はない。――それでも望むのか?」
分かっていたはずのことだった。
私が殿下の婚約者ではなくなるということは、殿下もまた、私の婚約者ではなくなるということなのだから。
父は、私を脅しているのではなかった。
やめろと言っているわけでもない。
その先で私自身が傷つく可能性まで含めて、本当に分かっているのかと確かめているのだ。
いつか殿下の隣に私ではない誰かが立つかもしれない。
そう考えると、胸の奥に小さな痛みが走った。
けれど、その可能性を恐れて婚約者という立場に留まるのなら、私はきっとこれからも分からないままだ。
自分が殿下のお隣にいるのは、婚約者だからなのか。
それとも、私自身がそうしたいからなのか。
「それでも、白紙にしたいと思っています」
私は父をまっすぐに見つめた。
「怖くないわけではありません。その先に何があるのかも分かりません。それでも、一度この立場をなくさなければ、私は自分が本当に何を望んでいるのか分からないままだと思うのです」
父はしばらく黙ったあと、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうか」
その目はもう、公爵家の当主としてのものではなく、ただ父親として娘を見るものだった。
「分かった。ならば、まず殿下と話しなさい。陛下のお許しも必要になる。私も公爵として必要な話をしよう」
「はい」
「今までのお前は、何も言わなかった。そして私たちは、何も言わないお前に甘え続けた」
父は苦い表情を浮かべた。
「お前が何も言わないことと、何も望んでいないことは、同じではなかったのだとな」
「…………」
「だから、今度は聞く」
父が、まっすぐに私を見る。
「これからも、お前がどうしたいのかを」
胸の奥が、わずかに震えた。
昨日、私はアンナに聞いた。
――アンナは、どうしたい?
今度は、父が私にそう言っている。
何をするべきなのかではなく、私がどうしたいのかを。
「……はい。私も、ちゃんとお話しします」
「ああ。ならば、そのために必要なことを考えよう」
一瞬、許されたのだと思った。
けれど、すぐに違うと気づく。
これは許可ではない。
私が自分で決めたことを、父が初めて受け止めてくれたのだ。
今まで言えなかったことが、一度の会話ですべてなくなるわけではない。
それでも、初めて父と母に自分がどうしたいのかを話し、二人はそれを否定しなかった。
◇
アルバート殿下から使者が訪れたのは、翌日の午後だった。
王城での報告が一段落したため、都合がよければ会いたい。
そう記された短い手紙に目を通し、私は小さく息を吐いた。
「……早いわね」
「昨日、ご自身で『会いたい時は会いたいと言う』とおっしゃっていましたから」
「そうだったわね」
本当に、言葉どおり実行している。
「どうなさいますか?」
「会うわ」
迷いはなかった。
私にも、伝えなければならないことがある。
◇
王城へ着くと、小さな応接室へ案内された。
扉が開くと、アルバート殿下がすぐに立ち上がる。
「レティシア。来てくれたんだな」
「はい」
「嬉しい」
「…………」
本当に、何でも口にするようになった。
思わず見つめていると、殿下が眉を上げる。
「何だ?」
「また随分、素直におっしゃるようになったと思いまして」
「言うと決めたからな。面倒か?」
「少しだけ」
「そうか」
そう答えながらも、殿下はどこか楽しそうだった。
向かい合って腰を下ろすと、公爵家はどうだったのかと尋ねられた。
「両親とは話しました」
「そうか」
「それで……殿下にも、お話があります」
膝の上で組んだ手を見た殿下の表情が、わずかに引き締まる。
「分かった。聞こう」
私は一度息を吸い、金色の瞳をまっすぐに見た。
「――殿下との婚約を、一度正式に白紙にしたいと思っています」
「…………」
殿下の表情が固まった。
長い沈黙のあと、低い声が落ちる。
「……理由を聞いてもいいか?」
「はい」
父と母に話したことを、今度はできるだけ簡潔に伝えた。
殿下が嫌いだからではないこと。
一度、殿下の婚約者ではないレティシア・エトワールとして、自分が何を望んでいるのかを考えたいこと。
そして、その先でも殿下のお隣にいたいと思えたなら、今度は私自身の気持ちとしてそう伝えたいこと。
殿下は途中で遮ることなく、最後まで聞いてくれた。
「……正直に言っていいか?」
「はい」
「嫌だ」
「…………」
あまりにも迷いのない答えに、思わず瞬きをした。
「嫌に決まっている。十年だぞ。俺は十年間、君の婚約者だった。それを手放すのが嫌じゃないわけがない」
「殿下……」
「それに、今これを白紙にしたらリオネルが喜ぶ」
「……そこですか?」
「かなり重要だ」
「殿下」
「分かっている」
殿下は小さく息を吐き、真っ直ぐに私を見る。
「だが、俺が嫌だからといって君に婚約を続けさせることはできない。そんなことをすれば、結局また同じだ」
「…………」
「俺は君に、俺を選ぶ義務はないと言った。なら、俺がその言葉を違えるわけにはいかない」
殿下は一度目を閉じたあと、静かに告げた。
「――白紙にしよう」
予想していた言葉だった。
それでも、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「ただし、婚約者という立場を手放すことと、君に振り向いてもらうために何もしないことは別だ」
「……はい?」
「好きなら好きだと言う。会いたければ会いたいと言う。誘いたければ誘う」
「ずいぶん堂々となさいましたね」
「十年黙って失敗したからな。同じ失敗をするつもりはない」
そう言ってから、殿下は付け加える。
「もちろん、嫌なら断ればいい」
「それを最後につければ、何でも許されると思っていませんか?」
「多少は」
「殿下」
呆れた声を出すと、殿下が笑った。
「十年前は、俺が君を選んだ。あの時の君に選ぶ余地がなかったことに、俺は気づかなかった」
その表情が、少しだけ真剣なものへ変わる。
「だから今度は、君自身がどうしたいのかを考えればいい。俺でも、リオネルでも――」
そこで殿下の眉間に深い皺が寄った。
「……そこまで嫌そうにおっしゃらなくても」
「嫌なものは嫌だ。だが、誰も選ばないという答えでも構わない。決めるのは君だ」
「でも、それは殿下も同じですよね」
「何がだ?」
「婚約を白紙にすれば、殿下も自由になります。私が答えを出した時にも、殿下が今と同じお気持ちでいてくださるとは限りません。お父様にも、そう言われました」
「ああ」
「もしその時、殿下が別の方を望んでいらしたなら、私はそれを受け入れなければならないと思っています」
口にすると、胸の奥が小さく痛んだ。
殿下はそんな私をしばらく見つめたあと、少しだけ眉を上げる。
「その時、君が俺の隣にいたいと思っていたら?」
「……殿下が別の方をお望みなら、諦めるしかないでしょう」
「そうなる前に言えばいい」
「何をですか?」
「君が俺を望んでいることを」
「……私から?」
「ああ。会いたいなら会いたいと言えばいい。食事でも散歩でも、君から誘えばいい」
「私が、ですか?」
「俺はこれからそうするつもりだ。なら、同じだろう」
あまりにも当然のように言われ、私は目を瞬いた。
「君だけが、相手から選ばれるのを待つ必要はない。望むなら、自分から手を伸ばせばいい」
自分から、手を伸ばす。
誰かに望まれたから応えるのではなく、誰かに選ばれたからその隣に立つのでもない。
自分が望むのなら、自分から伝えてもいい。
「……そういうものなのでしょうか」
「少なくとも、俺はそうする」
「殿下は、随分変わられましたね」
「今さら黙っていても仕方がないからな」
殿下はそう言ってから、ふと何かを考えるように首を傾げた。
「婚約が白紙になったら、俺は君の何になるんだ?」
「……お友達でしょうか」
「それは嫌だ」
「即答ですか?」
「好きな女に友人として見られて喜ぶ男はいないだろう。少なくとも俺は嫌だ」
「注文が多いですね」
「だが、今はそれでも構わない。婚約者でなくても、君に会えるならな。次は、婚約者としてではなく、俺個人として君を誘う」
「……はい?」
「覚悟しておけ」
「何の覚悟ですか?」
「俺に口説かれる覚悟だ」
「…………殿下」
「嫌なら断って構わない」
「やはり、それを最後につければ何でも許されると思っていませんか?」
「さっきよりは思っている」
「もう」
今度こそ、笑ってしまった。
十年前から続いていた関係は、もうすぐ一度終わる。
寂しくないと言えば嘘になるし、怖くないわけでもない。
婚約がなくなれば、アルバート殿下もまた自由になる。
私がいつか答えを見つけた時、殿下が今と同じ場所にいてくださる保証などない。
けれど、それはきっと当たり前のことなのだ。
私に自分の人生を決める権利があるように、殿下にもある。
どちらか一人が選べば、それで決まるものではない。
もし、いつか私が誰かのお隣にいたいと望んだなら、その時は私も、自分の気持ちを伝えよう。
誰かに決められた関係の続きを歩くのではなく。
今度こそ、互いの意思でその先を選ぶために――




