第8話 はじめての野宿
※本日お昼に間話「月夜に見た奇跡」を投稿しています。少年視点のお話になりますので、よろしければこちらもぜひ。
宿場町を出てから、数日が過ぎた。
街道沿いをゆっくりと歩き、時折小さな村で休憩を取りながら、私たちは国境近くへ向かっていた。
とにかく王都から離れよう——そんな単純な考えのまま、私たちは歩き続けていた。
王都を出てからというもの、ときおり騎士を見かけはするが、追っ手なのかはわからない。
それでもアンナは人目の多い町を避けながら進み、この日は宿を取らずに野営を選んだ。
「今日はこの辺りで休みましょう」
そう言ってアンナが足を止めたのは、小川の流れる静かな林だった。
街道から少し離れているため人通りは少なく、身を隠すにはちょうどいい場所らしい。
「今日は宿ではないのね」
「はい。毎日宿へ泊まるより目立ちませんし、旅人には珍しいことではありません」
「なるほど……」
アンナが辺りを見回る。
私も周囲へ視線を巡らせ、小さく頷いた。
「ここなら大丈夫そうね」
指先へ魔力を集める。
足元から淡い光が静かに広がり、二人を包むように透明な膜が形成されていく。
「これで安心ね」
「警戒結界ですか」
「ええ。魔物や人が近づけばすぐ分かるわ」
「さすがお嬢様です」
「癖みたいなものよ。王城でも屋敷でも、危険に備える訓練は何度も受けたもの」
「結界があれば安心ですね」
「あくまで警戒用よ。誰かが入れば分かるけれど、完全に侵入を防げるほどのものではないわ」
鳥のさえずりと葉擦れの音が静かな森に響き、心地よい風が頬を撫でていく。
王都にいた頃には感じることのなかった静けさだった。
「では、火を起こしましょうか」
「火は私がつけるわ」
私は集めた薪へ指先を向け、小さく魔力を流した。
次の瞬間、乾いた薪へふわりと炎が灯る。
「さすがお嬢様です」
「魔法くらいしか役に立てないもの」
「十分すぎます」
乾いた薪へ火が移り、ぱちり、と小気味よい音が響く。
鍋へ干し肉や野菜を入れていくアンナを見ながら、私は首を傾げた。
私も何か手伝おうと荷物へ手を伸ばしたものの、何から始めればいいのか分からず、その場で固まってしまった。
「……私は何をすればいいのかしら」
「では、お嬢様は枝を集めてきてください」
「それならできそうだわ」
私は林の中へ入り、折れた枝を拾い集める。
公爵令嬢として必要なことは、幼い頃から数え切れないほど教え込まれてきた。
礼儀作法も、政治も、外交も、魔法も。
けれど野営の仕方だけは、一度も学んだことがない。
前世でも旅行といえば宿やホテルばかりで、こうして自然の中で一夜を過ごした経験などなかったのだから、分からなくて当然なのかもしれない。
「これくらいで足りるかしら」
「十分です」
枝を受け取ったアンナが鍋へ干し肉や野菜を入れていく。
やがて湯気とともに香ばしい匂いが立ち上った。
「できましたよ」
「ありがとう」
二人で焚き火を囲み、温かなスープを口へ運ぶ。
「……美味しい」
思わず零れた言葉に、アンナが少し照れくさそうに笑った。
「簡単なものしか作れませんでしたが」
「違うの。もちろん味も美味しいわ、でも……」
私は小さく首を横に振る。
パチリ、と薪が弾ける。
小川のせせらぎが耳に心地よく響き、木々の隙間を抜けた風が頬を優しく撫でていく。
誰にも急かされることなく、次に何をしなければならないかを考える必要もない。
ただ、温かい料理をゆっくり味わう。
そんな何気ない時間が、こんなにも幸せだったなんて。
「こんなふうに食べるご飯って、美味しいのね」
屋敷での食事は、いつも慌ただしさの中にあった。
王妃教育の一環として組み込まれたその時間は、ただ空腹を満たすためのものではない。
翌日の予定、覚えるべき作法、処理すべき課題。そういったものを頭の片隅で整理しながら、最低限のマナーを崩さないよう気を張り続ける時間だった。
沈黙が許されないわけではない。
ただ、その沈黙の中ですら、常に誰かの目があることを意識していなければならなかった。
けれど、今は違う。
誰にも急かされることがない。
何かを間違えれば叱責が飛んでくることもない。
食べる速さを合わせる必要も、次の予定を気にする必要もない。
ただ食事をしていい時間が、そこにある。
それだけのことなのに、胸の奥に積もっていたものがふっとほどけていくようだった。
何もしなくても許されるという感覚は、こんなにも心を軽くするものなのかと、少し不思議に思うほどだった。
「お嬢様」
「何?」
「少し、お顔が柔らかくなりました」
「そうかしら」
「ええ」
アンナは嬉しそうに、小さく頷いた。
その表情につられるように、私も自然と笑みをこぼしていた。
何気ない会話の中に流れる、穏やかな時間。
それだけのことが、どうしてこんなにも満たされるのだろう。
前世でも、今世でも、きっと私はこういうものを知らずに過ごしてきたのだと思う。
◇
翌朝。
朝日とともに結界を解き、朝露に濡れた草を踏みしめながら、私たちは街道へ戻った。
国境までは、あと数日。
「この先を越えれば近道ですね」
アンナが地図を見ながら言う。
私は頷き、山道へ足を踏み入れた。
けれど。
「……あら?」
思わず足を止めてしまう。
道の先が、大量の土砂と倒木で完全に塞がれていた。
大岩まで転がり落ち、馬車どころか人一人通る隙間もない。
「土砂崩れ……?」
アンナも静かに辺りを見渡す。
その脇には一本の木杭が立てられ、板が打ち付けられていた。
近づいて読む。
⸻
通行止めのお知らせ
○月○日未明に発生した土砂崩れにより、この先の街道は通行止めとなっております。
復旧工事は近日中に開始予定です。
お急ぎの方は西側街道へ迂回してください。
——王都騎士団
⸻
「既に報告は済んでいるようですね。迂回すると……」
アンナが静かに言って、地図へ視線を落とす。
「三日ほど余計にかかります」
「三日……」
私はもう一度、崩れた山肌を見上げた。
(最近は、雨が少ないと聞いていたのに……)
もちろん、自然に起きたことなのかもしれない。
それでも、胸の奥に小さな違和感だけが残る。
「どうなさいますか?」
アンナの問いに、私は崩れた道をじっと見つめた。
工事を待てばいい。
迂回してもいい。
そう思う一方で——
(……これくらいなら)
私は崩れた土砂へ一歩近づく。
少しだけ道を通れるようにするだけなら、きっと誰にも迷惑はかからない。
そう思いながら、静かに山肌を見上げた。




