間話① 月夜に見た奇跡
※本編の補足となる少年視点のお話です。
本編を読み進めるうえで必須ではありませんが、白銀の魔女の噂が広がるきっかけの一つとしてお楽しみいただけたら嬉しいです。
ある夜。
宿場町はしんと静まり返り、聞こえるのは虫の音だけだった。
「……ん、おみず……」
小さな男の子は、喉の渇きでふと目を覚ました。
寝ぼけ眼のまま寝台を降りると、部屋の隅に置かれた水瓶へ向かう。
その途中、何気なく窓の外へ目をやった男の子は、小さく首を傾げた。
「……あれ?」
月明かりに照らされた共同井戸の前に、誰かが立っている。
黒い外套をまとったその人は、夜の気配に溶け込むように、ただ静かに井戸へ手をかざしていた。
こんな夜更けに、誰だろう。
不思議に思った男の子は、そっと窓辺へ近づき、その姿を見つめる。
そのときだった。
ひゅう、と夜風が吹き抜ける。
「あっ……」
深く被っていたフードがふわりと外れ、長い髪がさらりとほどけた。
月の光を受けたその髪は、まるで銀糸を編み込んだように淡く輝き、風に揺れるたび、夜の闇に小さな光の波紋を落としているようだった。
男の子は思わず息を呑んだ。
(……きれい)
胸に浮かんだのは、その一言だけだった。
その人は慌てて髪を押さえると、辺りを見回した。
誰もいないとそう思ったのか、小さく安堵の息をつく。
それから井戸を覗き込み、指先に小さな光を灯した。
淡い光に照らされた井戸の中では、水面が月明かりを映して静かに揺れている。
井戸に水が満ちているのを確かめると、ほっとしたように微笑んだ。
そのあと、もう一度フードを深く被り直し、そのまま夜の闇へ静かに姿を消していった。
窓辺から見つめる、小さな瞳に気づくこともなく。
◇
「お母さん!」
翌朝、目を覚ますなり男の子は母のもとへ駆け寄った。
「昨日ね! 昨日ね!」
「どうしたの、そんなに慌てて」
「きらきらした髪のお姉ちゃんがいたの!」
「きらきらした髪のお姉ちゃん?」
「お月様みたいにきらきらしてた! 井戸のところにいたんだよ!」
興奮気味に話す男の子に、母はくすりと笑う。
「あらあら。夢でも見たのかしら」
「夢じゃないもん!」
男の子が頬を膨らませた、そのときだった。
「水だ!水が戻ってるぞ!」
外から驚いた声が響いた。
その一声で、町の人々が一斉に家を飛び出していく。
男の子も母に手を引かれながら井戸へ向かった。
そこには、昨日まで底が見えていた共同井戸があった。
今は澄みきった水をなみなみと湛え、朝日を受けてきらきらと輝いている。
「本当に……」
母は信じられないというように目を見開いた。
男の子は胸を張って叫ぶ。
「ほら言ったでしょ! ぼく、見たもん! お月様みたいにきらきらしたお姉ちゃんがいたんだよ!」
周囲の大人たちは顔を見合わせる。
「きらきらした……?」
「そんな人、この町にはいないぞ」
誰もが首を傾げる中、人だかりの後ろから杖をついた年配の女性が、懐かしむようにぽつりと呟いた。
「……そういえば、昔そんな話を聞いたことがあったねぇ」
その場の視線が一斉に集まる。
「困っている人々の前に現れ、人知れず救いの手を差し伸べる……白銀の髪をした魔女様のお話さ」
誰かが小さく息を呑んだ。
「白銀の魔女……?」
その名を誰かが口にする。
その小さな呟きは、やがて町中へと広がり、宿場町を訪れた旅人たちによって隣町へ、さらに遠くの村や街へと、少しずつ語り継がれていくことになる。
——その頃にはもう、当の本人は次の町へ向かう準備を始めていた。
自分が『白銀の魔女』と呼ばれ始めていることなど、知る由もないまま。




