第7話 白銀の噂
翌朝。
宿の外から聞こえる賑やかな声に、私はゆっくりと目を開けた。
昨日まで町を覆っていた重苦しい空気とは違う、明るく弾んだ声だった。
「戻ったぞ!」
「市場の井戸にも水が戻ってる!」
「宿場口の井戸もだ!」
「それは本当か!」
(……もう気づいたのね)
昨夜、目についた共同井戸をいくつか巡った。
きっと誰かが水を見つければ、町中に知らせが広がるだろうとは思っていた。
その声に安堵しながらも、私は布団の中で小さく息をつく。
(皆、少しは安心できたかしら……)
自分の目で確かめたくなり、ゆっくりと身体を起こした。
「少しだけ、行ってみましょうか」
「ええ」
いつの間にか身支度を終えていたアンナが、穏やかに微笑む。
私たちは身支度を整えると、人々の流れに合わせて井戸へ向かった。
◇
井戸の周りには、昨日とは比べものにならないほど多くの人が集まっていた。
「水だ……!」
「本当に戻ってる!」
桶を下ろした女性は、水を汲み上げると嬉しそうに両手で抱きしめる。
「よかった……これで洗濯ができる」
「うちも今日はパンが焼けるぞ!」
「子どもたちにも水を飲ませられる!」
昨日まで暗かった人々の表情には笑顔が戻り、町には久しぶりに明るい声が響いていた。
その光景を見つめながら、私は胸の奥でそっと息をつく。
(……よかった)
もちろん、これですべてが解決したわけではない。
それでも今日一日だけでも、皆が安心して暮らせる。
そう思うだけで、胸が少し温かくなった。
「レティさん」
隣に立つアンナが、小さく微笑む。
「安心されましたか?」
「ええ」
自然と笑みが零れる。
困っていた人たちが笑っている。
その姿を見るだけで十分だった。
けれど、その一方で胸の奥には小さな引っ掛かりも残っていた。
私は静かに井戸を見つめる。
(……そもそも、どうして急に水が減ったのかしら)
原因が分からないままでは、また同じことが起きるだろう。
そんな考えが頭を離れなかった。
◇
その日は宿で静かに過ごした。
窓から見える市場には昨日よりも活気が戻り、人々の笑顔が増えている。
宿の主人も何度も「助かったよ」と嬉しそうに話していた。
「これでしばらくは安心だ」
「神様のお恵みかねぇ」
「昨日の夜に雨なんて降らなかったのにな」
——しばらく?
私は思わず窓の外へ視線を向けた。
(そんなつもりはなかったのだけれど……)
今日一日だけでも困らずに済めばと思って魔力を流した。
それでも人々の様子を見る限り、水位は私の想定よりも多く戻っているらしい。
(……井戸というのは、あれくらい戻れば『しばらく安心』と思えるものなのかしら)
私は加減を間違えてしまったのだろうか。
窓の外では、水桶を抱えた人々が笑顔で行き交い、安堵したように言葉を交わしている。
その様子を眺めていると、不意に二人、三人と石畳を歩く鎧姿が目に入る。
「……騎士?」
ドクンと心臓が跳ね、思わず息を呑む。
(私を探している人たちではないと思いたいけど……)
私が静かに窓から身を引くと、それに応じるようにアンナがカーテンを閉めた。
「お嬢様」
「なあに?」
「町も落ち着きましたし、明日の早朝には発ちましょう」
「……そうね」
「レティさんの髪は目立ちます。人目を集める前に発ちましょう」
「ええ……」
騎士の姿はやはり気になる。
私の捜索が、もうここまで広がっているのか。
それとも、この水不足の調査のために派遣されたのか——。
「……レティさん」
「何かしら」
「まだ原因のことを考えていらっしゃるのでしょう?」
「……顔に出ていた?」
「ええ、少しだけ」
思わず苦笑すると、アンナも困ったように笑った。
「自然のことです。地下水の流れが変わったのかもしれませんし、雨の影響だったのかもしれません」
「そうかもしれないわ」
「ですから、あまり気になさらないでください」
アンナは静かに私を見つめた。
「ようやく、ご自分のために生きようと決められたばかりではありませんか」
その言葉に、私は静かに目を瞬かせる。
「公爵令嬢であったお嬢様でしたら、きっと原因を突き止めるまで休もうとはなさらなかったでしょう」
「……」
「でも、もう違います」
アンナの声はどこまでも優しかった。
「誰かのために命を削る人生は、もう終わりにしてください」
その言葉は責めるものではなかった。
ただ、心から願うような響きがあった。
「私は、お嬢様には少しだけのんびりしていただきたいのです」
穏やかな笑みを浮かべながら、アンナは続ける。
「美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て、好きな時間に眠って。……そんな当たり前のことを、これから少しずつ経験していただきたいのです」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
そんなふうに願ってくれる人がいる。
それだけで、十分幸せなことなのかもしれない。
「……ありがとう」
そう答えると、アンナは安心したように微笑んだ。
「ですから今日は、宿でゆっくりお休みください」
「そうね」
私は笑顔で頷いた。
けれど心の片隅では、やはり井戸のことが気になってしまう自分がいた。
◇
翌朝。
まだ日が昇ったばかりの静かな時間に、私はそっと宿を出て、一人で井戸へ向かった。
どうしても胸騒ぎがやまない。
人影のない井戸を覗き込むと、やはり水位は昨日より下がっていた。
宿場口の共同井戸も同じだった。
「……やっぱり」
昨日よりも水位が下がっている。
枯れてはいないが、確かに減っていた。
一晩でこれだけ減るということは、やはり魔法で戻した水は一時しのぎに過ぎなかったのだ。
このままでは、また町は同じ問題に苦しむことになる。
「レティさん」
その声に振り返ると、荷物を持ったアンナが立っていた。
「出発の準備が整いました」
私はもう一度だけ井戸を見つめる。
本当は原因を調べたい。
何とかしたい。
今からなら、原因を探ることもできるかもしれない。
一歩踏み出しかけた、その足が止まる。
——誰かのために命を削る人生は、もう終わりにしてください。
アンナの言葉が胸によみがえった。
私は小さく息を吐き、井戸へ向かって心の中だけで呟いた。
(ごめんなさい。……いつか、もし力になれる日が来たら)
そう願いながら踵を返す。
「参りましょう」
「ええ」
私たちは静かに宿場町をあとにした。
その背中へ、風に乗って人々の話し声が聞こえてくる。
「やっぱり、白銀の魔女様だったんじゃないか」
「昔、おばあちゃんから聞いたことがあるよ」
「困っている人を助けてくださる、白銀の髪をした魔女様のお話だよな」
「きっと、またどこかで誰かを助けているんだ」
——白銀の魔女……?
聞き慣れないその呼び名に、私は小さく首を傾げる。
「どうかなさいましたか?」
「……ううん。何でもないわ」
私は気にも留めることなく微笑み、アンナと並んで歩き出した。
その噂が、これから少しずつ国中へ広がっていくことなど、まだ知る由もなかった。
読んでいただきありがとうございます!




