第6話 眠れない夜
井戸の前には、不安そうな表情を浮かべた人たちが集まっていた。
「隣町まで汲みに行くしかないな」
「往復だけで半日はかかるぞ」
「この暑さじゃ子どもは連れて行けない……」
諦めにも似た声が、あちこちから聞こえてくる。
誰も怒ってはいない。
誰かを責めてもいない。
ただ、水がないという現実を前に、途方に暮れているだけだった。
「……いつから、こんな状態なのかしら」
「聞いてみましょうか」
思わず呟くと、隣にいたアンナが小さく頷いた。
私たちは人だかりから少し離れた場所で、困ったように話し合っていた女性たちへ近づいた。
「すみません」
「はい?」
「この井戸は、以前からこのような状態だったのですか?」
女性たちは困ったように笑う。
「いやぁ、こんなのは初めてさ。春先から少しずつ水が減ってね。ここ数日で一気に悪くなったんだよ」
「他の井戸は……?」
「どこも似たようなもんさ。まだ少し出るところもあるけど、この調子じゃ長くは持たないだろうねぇ」
「市場の井戸も、宿場口の共同井戸も似たようなもんさ。毎日どこか一つは枯れちまうんじゃないかって皆ひやひやしてるよ」
「町長も王都へ使いを出したらしいけど、まだ返事は来なくてね」
「うちの孫も熱を出しちまってねぇ。水が足りないと身体も拭いてやれないんだよ」
「パン屋も困ってるよ。生地を仕込む水まで節約しなきゃならないからねぇ」
どれも他人事ではない声だった。
そのどれもが、水一つ失うだけで暮らしは簡単に立ち行かなくなるのだと教えてくれていた。
「今年は雨も少ないしねぇ」
「昔も一度こんなことはあったけど、ここまでひどいのは初めてだよ」
「そうなんですね……ありがとう、ございました」
女性たちへ頭を下げ、その場を離れる。
市場を歩けば、店先には並ぶ商品も少ない。
野菜はどれも乾き始め、果物は小ぶりなものばかりだった。
子どもが両手で大切そうに水桶を抱え、こぼさないよう慎重に歩いていく。
店先では、桶に張ったわずかな水で野菜を湿らせている店主の姿もあった。
水は生活のためだけではない。
商売を続けるためにも欠かせないものなのだと、その光景だけで伝わってきた。
露店の主人たちは口々に「今年は暑い」「作物も駄目だ」と話している。
水だけではなく、町全体が少しずつ疲弊している。
「レティさん。今日は宿を探しましょう」
「……ええ」
アンナが静かに声を掛けた。
そう返事をしたものの、私の視線は何度も井戸の方へ向いてしまう。
◇
その日の宿は、小さな木造の宿だった。
夕食に並んだのは黒パンと薄い野菜のスープ。
決して不味くはない。
けれど、食材の少なさも、薄いスープも、贅沢を控えているからではない。
水不足という現実が、この町の食卓にまで影を落としているのだ。
「……水も節約しているのですね」
「井戸がこの調子ですからねぇ。いつまで持つことやら」
宿の主人は苦笑して言ったその一言が、食事の間も頭から離れなかった。
◇
夜も更け、宿の中がすっかり静まり返った頃。
私はそっと目を開けた。
宿へ戻ってからも、昼間見た光景が頭から離れなかった。
泥水を見つめて立ち尽くす女性。
水を求めて列を作る人々。
『いつまで持つことやら』
宿の主人の苦笑交じりの言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。
——眠れるはずがなかった。
「……やっぱり、眠れませんか」
「起こしてしまった?」
「いいえ」
アンナはゆっくりと身を起こし、少しだけ困ったように微笑む。
「放っておけないのでしょう?」
「……きっと根本的な解決にはならないと分かっているの。でも、少しだけでも皆が困らずに済めばと思って」
「そうおっしゃると思っていました」
アンナは呆れた様子も見せず、当たり前のように外套を手に取った。
「でしたら、誰にも見られないうちに参りましょう」
宿の人々が深い眠りについた頃を見計らい、私たちは外套のフードを深く被り、静かに井戸へ向かった。
そっと手をかざす。
意識を集中すると、自分の魔力が地中へ静かに溶けていくのが分かった。
乾いた大地を通り抜け、水脈へと触れる。
(……あった)
ゆっくりと水を引き上げるように魔力を巡らせる。
勢いよく溢れさせてはいけない。
自然に、誰にも気づかれない程度に。
不自然にならないように、でも日常使うくらい……
そこではたと気づく。
魔法は使えても、井戸の”普通”を私は知らない。
(……そもそも井戸って、普段はどのくらい水が入っているものなの?)
今まで考えたことがないから、どれくらいかが全く想像できない。
一つだけ戻しても意味がないのか、それとも十分なのか……それすら私には分からない。
とりあえず……水面が見えるくらいでいいのかしら。
前世でも井戸を使ったことはなかった。
水道が当たり前だった私には、井戸の水位など想像もつかない。
(私って本当に何も知らなかったのね。井の中の蛙とはこのことね……)
アンナがいなければ、私はきっとすぐに捕まり、屋敷へ連れ戻されていただろう。
自分の無知さ加減にため息をついたところで、突然強い風が吹いた。
フードがふわりと外れ、結んでいた髪もほどけ白銀の長い髪が月明かりに舞った。
「……っ」
慌てて髪を押さえ、周囲を見回す。
誰もいない。
静まり返った宿場町には、自分以外の気配は感じられなかった。
風がおさまり、気を取り直して井戸を覗き込む。
指先に小さな光を灯し、井戸の中を照らすと、水面が月明かりを反射して、静かに揺れていた。
(……この一つだけでは足りないわよね)
昼間、人が集まっていた共同井戸を思い出す。
市場の近くや宿場口の共同井戸などにもあった。
私はアンナとともに人目のない道を選びながら、目についた共同井戸をいくつか巡り、そのたびに同じように水位だけを静かに戻していった。
これで足りる保証はない。
それでも、何もしないよりはずっといい。
これで一日くらいは、皆が安心して水を使えるだろう。
明日くらいは、皆が困らずに過ごせるはずだ。
もちろん、これでは何も解決していない。
原因を見つけなければ、この町はまた水不足に苦しむだろう。
それでも今夜だけは、それで十分だと思った。
小さく胸をなで下ろし、アンナと並んでその場を後にした。
——この光景を見ていた者がいたことに、私は最後まで気づかなかった。




