第5話 知らなかった世界
屋敷を出たあと、私たちは夜明け前の王都を静かに歩いていた。
石畳を踏む足音だけが、静まり返った街に小さく響く。
振り返っても、公爵家の屋敷はもう見えない。
——本当に出てきたのだ。
その事実を思っても、不思議と後悔はなかった。
「寒くはございませんか、お嬢様」
「大丈夫よ」
隣を歩くアンナが、そっと外套を掛け直してくれる。
答えると、アンナは安心したように頷いた。
「少しこちらへ」
アンナに促され、小さな路地へ入る。
そこは人気もなく、朝日もまだ差し込まない薄暗い場所だった。
アンナは持ってきた荷物を開くと、一着の質素な服を取り出す。
「お嬢様、そのままではあまりにも目立ってしまいます」
そう言って、私の髪を手際よく編み直していく。
いつもなら美しく結い上げられている白銀色の髪は低い位置でひとつにまとめられ、化粧もすべて落とされた。
さらに頬へ薄く色をのせると、健康的だった肌は少しくすんで見える。
「……こんなに変わるものなのね」
「お嬢様ほどのお顔立ちは隠しきれませんが、それでも印象はかなり変わります。完璧ではございませんが、公爵令嬢には見えないかと」
鏡を覗き込み、小さく笑ってしまう。
確かにレティシア・エトワールには見えなかった。
どこにでもいる、旅人の娘だ。
「……これより先では、お嬢様とはお呼びいたしません。」
「ええ。その方が安心ね」
「人前では『レティさん』とお呼びしますね」
「ふふ、それも少し照れるわね」
「私もです。……ではまずは王都を出る方法を考えましょう」
「すぐには出ないの?」
そう尋ねると、アンナは静かに首を振った。
「今頃、公爵家では大騒ぎになっているはずです」
その言葉に胸が少し痛むが、アンナは続けた。
「街道も関所も、きっと最初に調べられます。今出れば、かえって見つかる可能性が高うございます」
なるほど。
言われてみれば、その通りだった。
「しばらくは王都に紛れましょう。灯台下暗し、というものです」
思わず小さく笑みが零れる。
「そんな言葉まで知っていたのね」
「父が商人でしたので。幼い頃はよく宿場町や街道の話を聞かされて育ちました」
アンナは少し照れたように笑う。
「公爵家へ上がってからも、買い出しや商人とのやり取りを任されることが多うございましたから」
「なるほど……だからそんなに詳しいのね」
「少しでもお力になれたなら幸いです」
どこか誇らしげなアンナに、私も自然と笑ってしまった。
◇◇◇
その日から数日、私たちは王都の片隅で身を潜めながら暮らした。
アンナの知人が営む小さな宿を借り、できるだけ人目につかないよう過ごす。
公爵家の令嬢が姿を消したという話は、瞬く間に王都中へ広がったらしい。
王太子の婚約者でもあるから、そういうものなのかもしれない。
街のあちこちでは騎士たちが行き交い、街道へ続く門では厳しい検問が行われているという話も耳にした。
そのたびに、アンナの判断は正しかったのだと実感する。
「もう少しだけ、お待ちください」
焦る私を、アンナは何度もそう諭してくれた。
最初の二日ほどは、ほとんど眠って過ごした。
十年間張り詰めていた糸が切れたように、身体が休息を求めていたのだ。
それでも目が覚めれば、「追われているのではないか」「誰かに見つかるのではないか」という不安は消えない。
だから心から休めたわけではないけれど、時間に追われず眠り、誰にも「次はこれを」と急かされない日々は、それだけで少しだけ心を軽くしてくれた。
前世では、休みたいと思っても仕事が待っていた。
今世でも、王妃教育と公爵令嬢としての務めに追われ、「休む」という選択肢はいつの間にか私の中から消えていた。
だから何もせず眠ることを、自分に許してもいいのだと思えた時間は、生まれて初めての安らぎだった。
三日目の昼過ぎだった。
買い出しへ出ていたアンナが、いつになく険しい表情で部屋へ戻ってくる。
「レティさん、今日は外へ出てはいけません」
「何かあったの?」
「騎士団が、この辺りまで聞き込みに来ています」
胸が小さく鳴った。
「やっぱり……」
「『淡い金色の髪をした若い女性を見なかったか』と、一軒一軒回っているようです」
思わず自分の髪へ触れる。
今は印象を変えているとはいえ、本来の白銀色は隠しようがない。
「宿のご主人が、部屋から出さないようにと知らせてくださいました」
アンナがそう言い終えた、そのときだった。
階下から、重い靴音が聞こえてくる。
「王都騎士団だ。少し話を聞かせてもらいたい」
低く響く声に、思わず息を呑んだ。
アンナはすぐに私の手を取り、小さく囁く。
「こちらへ」
案内されたのは、部屋の奥にある物置だった。
荷箱の陰へ身を潜め、息を殺す。
廊下を歩く足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。
やがて部屋の前で止まり、扉が二度ほど叩かれた。
心臓が激しく脈打つ。
「この部屋は?」
「病人がおります。高熱で寝込んでおりまして」
「……確認する」
騎士が扉へ一歩近づく。
「医師からは、人に移る恐れがあるゆえ近づけるなと」
「……ちっ」
一瞬だけ迷うような間が流れ、やがて騎士は舌打ちして踵を返した。
宿の主人が落ち着いた声で何か話しかけている声と共に、足音は遠ざかっていった。
しばらくしてから、アンナが小さく息を吐く。
「……もう大丈夫です」
その一言で、張り詰めていた力が一気に抜けた。
◇
そしてさらに数日後。
「レティさん、そろそろ動きましょう」
王都での騒ぎも少しずつ落ち着き始め、街道の検問も当初ほど厳しくはなくなっていた。
とはいえ、街道の検問がなくなったわけではない。
王都の門へ近づくと、旅人や商人たちが長い列を作っていた。
鎧を身にまとった騎士たちが、一組ずつ足を止め、荷物や身分証を確認している。
思わず足が止まりそうになると、アンナが小さな声で囁いた。
「大丈夫です。昨日お話しした商隊の方々と合流します」
視線の先には、荷馬車を連ねた商隊が門へ向かっていた。
その中の一人がこちらに気づき、小さく手を挙げる。
「お待たせしました」
「気にすることはねぇ。困った時はお互い様だ。昔、うちも助けてもらった」
アンナが声を掛けると、年配の商人は穏やかに応えた。
宿に滞在していた数日間、アンナは買い出しの際にこの商隊の主人と親しくなり、王都を出る日に同行できないか相談していたのだという。
「さあ、お二人ともこちらへ。うちの娘ということにしておけば、余計な詮索もされにくいでしょう」
商人は自然な口調でそう言うと、私たちを商隊の中へ招き入れた。
「ありがとうございます」
アンナが深く頭を下げ、私も慌ててそれに倣う。
順番は少しずつ近づいてくる。
胸の鼓動だけが嫌にはっきりと耳へ響いた。
「次」
騎士の声が飛ぶと、商人は慣れた様子で荷馬車を進めると、身分証を差し出した。
「いつもの行商です。後ろの二人は身内でしてね。王都で身の回りの世話をしていたんですが、一緒に故郷へ帰ることになりまして」
騎士の視線が私へ向く。
反射的に俯き、フードを少し深く引いた。
「体が弱くて、人前は苦手なんですよ」
「長旅にも慣れておりませんので、どうかご容赦ください」
「娘さんか?」
「はい」
「……顔色が悪いな」
「生まれつき体が弱いもので」
商人が苦笑交じりに言うと、アンナもすぐに言葉を続ける。
騎士は私をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。
その沈黙が、永遠にも思える。
やがて視線は荷馬車へ移り、荷物を一通り確認すると、小さく頷いた。
「……よし。通っていい」
「ありがとうございます」
商人は何事もなかったように馬を進める。
私も俯いたまま、その後に続いた。
城門を抜け、王都の城壁が少しずつ遠ざかっていく。
そこでようやく張り詰めていた息を吐き出した。
「……出られた」
「ええ。これで本当に、王都とはお別れです」
思わず零れた呟きに、アンナが静かに微笑む。
初めて城壁の外へ足を踏み出した私は、小さく息を吐いた。
——これで本当に、後戻りはできない。
それでも胸に浮かんだのは後悔ではなく、不思議なほど穏やかな安堵だった。
◇
朝日が街並みを照らし始める頃、私たちは王都に最も近い宿場町へ足を踏み入れた。
王都からそれほど離れていないというのに、その景色はまるで別世界だった。
市場には並ぶ野菜も少なく、人々の服には何度も繕った跡がある。
まだ幼い子どもが、大きな籠を抱えて働いていた。
店先では、一つのパンを家族で分け合う姿も見える。
これまで見ていた華やかな景色とは、あまりにも違っていた。
「私は……」
思わず言葉を失う。
王都は豊かな場所だと思っていた。
みんな同じように暮らしているのだと思っていた。
——けれど違う。
豊かだったのは、私がいた世界だけだった。
「……レティさん」
「私、恥ずかしいわ」
アンナが静かに隣へ並ぶ。
そのとき、思わず本音が漏れた。
「王妃教育では『国民のため』と何度も教わったのに……私は国民の暮らしを何一つ知らなかった」
アンナは否定しなかった。
「レティさんは、知る機会がなかっただけでございます」
「……それでも」
公爵令嬢として生まれ、多くの教育を受け、お金をかけてもらった。
それなのに、本当に守るべき人たちの暮らしを知らないままだったことに、胸が締め付けられる。
そんなときだった。
「水が……!」
女性の悲鳴が市場の奥から聞こえてきた。
その声の方へ、人々が一斉に駆け寄っていく。
私も思わずアンナと顔を見合わせ、その後を追った。
人垣の隙間から覗くと、一人の女性が井戸へ桶を下ろしている。
「お願い……!」
祈るように呟きながら桶を引き上げる。
しかし、中に入っていたのは底に溜まるほどのわずかな泥水だけだった。
「そんな……」
女性は力なくその場へ膝をつく。
「また枯れたのか……」
「昨日までは普通に使えたのに」
「これじゃ今日の商売もできない」
不安げな声が次々と上がる。
私はその光景を見つめ、小さく息を呑んだ。




