第4話 さようなら
朝日がカーテンの隙間から差し込み、寝室を淡い光で満たしていた。
昨夜は驚くほど穏やかな眠りだった。
いつものように何かに追われる夢を見ることもなく、目を覚ました身体は久しぶりに軽い。
胸の奥に残っていた重苦しさも、どこか薄らいでいる気がした。
「お嬢様、お目覚めのお時間でございます」
聞き慣れた穏やかな声とともに、アンナが寝室へ入ってくる。
「おはよう、アンナ」
「おはようございます。本日はお顔色もよろしいようで、安心いたしました」
心から安堵したように微笑むアンナへ、私も自然と笑みを返した。
「ええ。自分でも驚くくらい元気よ」
その言葉に、アンナはさらに表情を和らげる。
そんな彼女の笑顔を見つめながら、私は胸の内で静かに決意を確かめた。
——今日の夜、この屋敷を出る。
一晩眠っても、その気持ちは少しも揺らがなかった。
昨日までのような迷いや不安はなく、不思議なほど心は落ち着いている。
身支度を整えながら、私は何度もアンナへ視線を向けた。
幼い頃からずっと隣にいてくれた人。
母より長い時間を共に過ごし、泣きたいときには何も聞かずに抱き締めてくれた。
厳しい王妃教育で叱られて帰れば、そっと温かい紅茶を淹れてくれた。
失敗して落ち込めば、「次があります」と笑ってくれた。
私にとってアンナは、侍女というより姉のような存在だった。
だからこそ巻き込みたくない。
危険な道へ連れて行く資格なんて、私にはない。
その想いを胸の奥へ押し込みながら朝食を終え、いつも通り王城へ向かう。
舞踏会の翌日であっても、王妃教育が休みになることはない。
最後の日になるかもしれないその道を、私は静かな気持ちで眺めていた。
◇◇◇
その日の教育も昨日までと何一つ変わらなかった。
講師から指摘を受け、礼儀作法を繰り返し、外交や歴史を学ぶ。
けれど、不思議なくらい苦しくはない。
これが最後だと思うだけで、肩に乗っていた重石が少しだけ軽くなったような気がした。
王妃教育を終え、迎えの馬車へ向かうため回廊を歩いていた、そのときだった。
向こうから複数の足音が近づいてくる。
顔を上げると、王太子アルバート殿下を先頭に、側近たちを従えた一団がこちらへ歩いてきていた。
アルバート殿下の少し後ろには、見慣れたルーカスの姿もある。
(……最後に会えて、よかった)
胸の内でそう呟きながら、私は廊下の端へ身を寄せ、静かに頭を下げた。
このまま何事もなく通り過ぎる——そう思っていた。
けれど、目の前で足音がぴたりと止まる。
「……レティシア」
低く落ち着いた声に顔を上げると、アルバート殿下が私を見下ろしていた。
黒髪に縁取られた黄金色の瞳が、真っ直ぐこちらを見つめている。
何かを言おうとしているのだろうか。
わずかに唇が動いたものの、言葉はなかなか続かない。
短い沈黙のあと、ようやく殿下の口から零れたのは、思いのほか事務的な問いだった。
「……授業は終わったのか」
「はい。本日も無事、終えることができました」
「……そうか」
殿下は小さく頷いたが、返ってきたのはたったそれだけだった。
そのまま立ち去るでもなく、一瞬だけ私を見つめていた殿下だったが、結局それ以上言葉が続くことはない。
静かな沈黙だけが二人の間に流れる。
(……これが、私たちなのよね)
——もう、どうでもよくなってしまった。
彼が誰に笑いかけようと、私に何を言おうと、胸は少しも痛まない。
婚約者でありながら、交わす言葉はいつも事務的なものばかり。
話したいことは、昔はたくさんあった。
今日あった出来事も、学園でのことも、王妃教育で褒められたことも、失敗して落ち込んだことも。
けれど返ってくるのは、いつも短い返事だけ。
それを繰り返すうちに、いつしか私から話しかけることもなくなってしまった。
いつからこんな関係になってしまったのかは分からない。
でも、それが私たちにとって当たり前になっていた。
婚約者というにはあまりにも遠く、他人というには近すぎる。
そんな曖昧な距離を、私たちはずっと続けてきた。
けれど、その関係も今日で終わる。
そう思うと、不思議なくらい心は穏やかだった。
「それでは、失礼いたします」
静かに一礼し、アルバート殿下の横を通り過ぎる。
視線を移すと、アルバート殿下の後ろではルーカスが不安そうにこちらを見つめていた。
その顔を見るだけで胸が締め付けられる。
(ごめんね。元気でいてね)
心の中だけで謝り、願いを込めるようにそっと微笑みかけた。
ルーカスは目を見開き、何か言おうと口を開く。
「姉上——」
けれど、その続きを聞けばきっと足が止まってしまう。
私はもう一度だけ微笑むと、静かに踵を返した。
◇◇◇
屋敷へ戻ると、部屋へ籠もり、予習復習ではなく手紙を書いた。
両親とルーカス、そしてアルバート殿下へ。
誰かを責めるつもりはなかった。
直接伝えることはできないからこそ、最後くらいは自分の言葉で気持ちを残しておきたい。
それが、私なりのけじめだと思えた。
そしてルーカスへの手紙には、一つだけお願いを書き添えた。
——引き出しに小さなお守りを入れてあります。よかったら、持っていてね。
幼い頃、私が魔法の練習で初めて作った拙い魔道具。
効果があるかは分からないけれど、お守りくらいにはなるかもしれない。
最後まで書き終えた頃には、どこか肩の荷が下りたような気持ちになっていた。
もう、思い残すことはない。
夕食を終えた頃には、屋敷はすっかり静まり返っていた。
時計の針が夜更けを告げる。
(……そろそろね)
静かに立ち上がり、小さな鞄を抱える。
必要最低限の荷物しか入っていない。
部屋を見回し、最後に一度だけ微笑んだ。
「……さようなら」
誰に聞かせるでもなく呟き、音を立てないよう扉を開ける。
廊下は静まり返っていた。
誰にも見つからないよう裏口へ向かい、ゆっくりと扉を開く。
「——お嬢様」
その声に、私は思わず息を呑んだ。
月明かりの下に立っていたのは、アンナだった。
片手にはランタンを持ち、そして足元には大きな旅行鞄が一つ置かれている。
「……アンナ?」
「お待ちしておりました」
「どうして……」
アンナは困ったように笑った。
「何年、お嬢様のお側にお仕えしていると思っているのですか」
その一言だけで十分だった。
何もかも気づかれていたのだと理解する。
「私を、置いていくつもりだったのですね」
「……巻き込みたくなかったの」
「存じております。だからこそ、お待ちしておりました」
即座に返ってきた答えに、胸が熱くなる。
アンナはまっすぐ私を見つめ、一歩近づき優しく微笑む。
「私の主人は、エトワール公爵家ではございません——お嬢様です」
その言葉を聞いた瞬間、ずっと堪えていたものが込み上げた。
「アンナ……」
「幼い頃からずっと見てまいりました。誰かのために笑って、誰かのために頑張って、ご自分のことはいつも後回しのお嬢様を」
アンナは昔と変わらない優しい眼差しで私を見つめる。
「これからは、誰かのためではなく、お嬢様ご自身のために生きてください」
ポロリと頬を一筋の涙が伝う。
泣かないと決めていたのに、アンナの前ではどうしても強がれなかった。
そんな私を見て、アンナは昔と同じようにそっと頭を撫でる。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
その手は、幼い頃からずっと変わらず温かかった。
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