第3話 屋敷を出よう
祝賀会がお開きになると、私はルーカスとともに会場を後にした。
扉をくぐる直前、ふと振り返る。
煌びやかなホールの中央では、アルバート殿下がまだ貴族たちに囲まれていた。
その輪の中には、やはりアリスの姿もある。
彼女が何かを話すたび、殿下は穏やかに微笑み、小さく頷いていた。
昨日までなら、その光景を見るだけで胸が締めつけられていたはずなのに、不思議なくらい何も感じない。
もう、私の中では終わったことなのだ。
私は静かに視線を外し、ルーカスとともに馬車へ向かった。
王城の玄関前では、出立する貴族たちが次々と馬車へ乗り込んでいる。
私もルーカスと並んで待っていると、しばらくしてアルバート殿下が姿を現した。
こちらへ歩み寄ると、私へ一度だけ視線を向ける。
「殿下、本日は失礼いたします」
婚約者として礼を取り、一礼する。
殿下はほんの一瞬だけ何かを言いたげに唇を動かしたように見えたが、結局何も口にはせず、小さく「ああ」とだけ返した。
それだけだった。
私は静かに馬車へ乗り込む。
向かいへ腰を下ろしたルーカスは、何度かこちらを見ては口を開きかけていたが、結局最後まで何も言わなかった。
車輪が石畳を軽やかに叩く音だけが、静かな車内へ規則正しく響いている。
窓の外では、夕闇に包まれ始めた王都の街並みがゆっくりと流れていった。
祝賀会帰りの人々の笑い声。
家路を急ぐ馬車の灯り。
そのどれもが、まるで自分とは違う世界の出来事のように感じられる。
(……やっぱり、もう十分だわ)
悲しいわけでも、腹が立つわけでもない。
ただ、長い夢から覚めたあとのような静けさだけが、胸の奥へゆっくりと広がっていた。
屋敷へ戻ると、私は自室へ戻り、湯浴みを済ませた。
一日中張り詰めていた気が緩んだのだろう。
扉が閉まるなり、そのまま勢いよくベッドへ身体を預ける。
「お嬢様!」
案の定、背後からアンナの慌てた声が飛んできた。
「飛び込んではいけませんと、いつも申し上げているではありませんか」
呆れたような口調なのに、その声には隠しきれない心配が滲んでいる。
思わず小さく笑みが零れた。
こんなふうに叱ってくれる人がいる。
無茶をすれば本気で心配してくれる人がいる。
それだけで、少しだけ救われたような気持ちになった。
「……アンナ」
「はい、お嬢様」
名前を呼ぶと、アンナはすぐ傍まで歩み寄ってくる。
幼い頃から変わらないその優しい眼差しを見ていると、不思議と張り詰めていた心がほどけてしまいそうだった。
「私……もう疲れちゃった」
ぽつりと零れたその言葉に、アンナは目を大きく見開く。
一瞬だけ悲しそうに瞳を揺らしたものの、何があったのかとは尋ねなかった。
ただ静かにベッドの傍へ膝をつき、そっと私を見つめる。
「お嬢様は、今まで十分すぎるほど頑張ってこられました。私はずっと、お傍で見てまいりましたから」
その一言が、胸の奥へ真っ直ぐ染み込んでいく。
喉の奥が熱くなった。
前世でも、今世でも。
頑張ることは当たり前だった。
努力して当然。
できて当然。
だから、「頑張りましたね」と認めてもらえた記憶など、ほとんどない。
たったそれだけの言葉が、こんなにも心を救うのだと初めて知った。
「……ありがとう」
震えそうになる声を押し殺しながらそう返すと、アンナは優しく微笑んだ。
「どうか今夜は、何も考えずにお休みくださいませ」
静かに一礼し、部屋を出ていく。
けれど扉へ手を掛けたところで、アンナの動きがふと止まった。
振り返ることはない。
ただ、小さく息をついただけだった。
「……お嬢様」
その声は、独り言のように小さかった。
何かを言いかけたまま、結局その先は紡がれない。
やがて扉は静かに閉まり、寝室には再び静寂だけが残った。
天蓋越しにぼんやりと天井を見上げながら、私はゆっくりと息を吐く。
(……出ていこう)
その考えは、突然思いついたものではなかった。
きっと心のどこかでは、ずっと前から決まっていた答えなのだ。
王太子妃になるためだけの人生。
公爵令嬢として期待に応え続ける人生。
そして、ゲームでは悪役令嬢として破滅する未来。
そのどれもが、もう私の望む人生ではなかった。
前世では、自分のために生きることなど最後までできなかった。
誰かの期待に応え、誰かのために働き続け、気づけば人生は終わっていた。
だから今度くらいは。
今度だけは、自分自身のために生きてみたい。
そう思った瞬間、胸に絡みついていた重い鎖が、ほんの少しだけほどけたような気がした。
もちろん、何も告げずに姿を消せば、父にもルーカスにも心配を掛ける。
何より、アンナはきっと泣いてしまうだろう。
だからせめて、手紙だけは残そう。
それが今の私にできる、最後のけじめだった。
あとは、この屋敷を出てから考えればいい。
そう決めると、不思議なくらい心は静かだった。
(……明日には、この屋敷を出よう)
その決意だけを胸へ抱きしめながら、私はゆっくりと瞼を閉じる。
その夜は、ずいぶん久しぶりに何かへ追われる夢を見ることもなく、深い眠りへと落ちていった。




