第2話 もう限界だった
「……もう、疲れたわ」
誰に聞かせるでもなく零れたその言葉は、静かな寝室へ溶けるように消えていった。
不思議なほど胸の奥は静かだった。
昨日までの私なら、こんな弱音を吐いた自分を許せなかっただろう。
努力が足りない。もっと頑張らなければ。私が我慢すれば済むことなのだから——そう自分に言い聞かせて、また何事もなかったように前を向いていたはずだ。
けれど、前世の記憶を取り戻した今は違う。
前世の私は、仕事に追われる毎日を送り、休日もろくになく働き続けた末に、おそらく過労で命を落とした。
そして生まれ変わった今もまた、睡眠を削り、心も身体もすり減らしながら同じような生活を送っている。
「……学習能力がないにもほどがあるわね」
自嘲するように小さく笑みを漏らした。
王太子妃教育も、学園での勉学も、公爵令嬢として課せられた責務も、その一つ一つが必要なものだということは理解している。
理解しているからこそ、これまで必死に食らいついてきた。
けれど——
(それは、本当に命を削ってまで果たさなければならないことなのかしら)
そんな疑問が胸をよぎった、そのときだった。
控えめなノックとともに扉が開き、アンナが部屋へ戻ってくる。
「お嬢様、お湯のご用意が整いました」
「ありがとう」
ベッドから身を起こし、洗面台へ向かう。
冷たい水で顔を洗うと、火照っていた頭が少しだけ冴えた。
そっと顔を上げて鏡を見る。
そこに映っていたのは、自分でも驚くほど血の気のない顔だった。
青白い頬に、目の下には薄く隈が浮かんでいる。
……前世の私も、きっとこんな顔をして働いていたのだろう。
そう思うと、なんだか可笑しくなってしまい、小さく苦笑が漏れた。
◇
ほどなくして医師が到着し、簡単な診察が行われた。
脈を測り、瞳の様子を確認し、いくつか質問をしたあと、医師は小さく息をついて私を見つめる。
「本来であれば、数日は安静になさるべきでしょう」
穏やかな口調ではあったが、その表情からは無理をさせたくないという思いが伝わってきた。
しかし、その言葉に返事をしたのは私ではなく、傍らに控えていた執事だった。
「申し訳ございません。しかし、本日は建国記念祝賀会がございますので……」
言葉を濁しながら頭を下げる執事に、医師は一瞬だけ眉を寄せたものの、すぐに諦めたように目を伏せる。
「……そうでしたな」
それ以上、無理を止めようとはしなかった。
王太子の婚約者である私が、建国記念祝賀会を欠席することは許されない。
それは医師も、執事も、そして私自身も十分に理解している。
だからこそ、「休みたい」という言葉は最初から口にしなかった。
言ったところで叶わない願いだと知っていたから。
◇
王妃教育は、昨日私が倒れたことなどなかったかのように、いつも通り進められた。
立ち居振る舞いから礼儀作法、歴史や外交まで、王太子妃となる者に必要な知識を朝から夕方まで叩き込まれていく。
内容が変わることはあっても、その厳しさが変わることはない。
ほんの一日前までなら、一つでも注意を受ければ情けなさで胸がいっぱいになり、次こそは完璧にこなそうと必死になっていただろう。
けれど今日は違った。
講師から改善点を指摘されても、不思議なくらい心が動かない。
(……そうなのね)
頭では素直に受け止めている。
それなのに、「もっと頑張らなければ」という焦りだけが、きれいに消えてしまっていた。
昨日までの私なら、教育が終わる頃には反省点を頭の中で何度も繰り返し、帰宅後に復習しなければと予定を組み立てていたはずだ。
けれど今は、それすら思い浮かばない。
前世の記憶を取り戻したことで、心のどこかに張り詰めていた糸が切れてしまったのかもしれない。
そんなことを、どこか他人事のように考えている自分がいた。
◇
王妃教育を終えると、そのまま建国記念祝賀会の支度へと移った。
王城に用意されている部屋でドレスへ着替え、侍女たちの手によって髪を整えられていく。
鏡に映る私は、誰が見ても非の打ち所のない公爵令嬢だった。
完璧に結い上げられた髪。
隙一つない化粧。王太子妃として相応しい豪奢なドレス。
けれど、その姿とは裏腹に、中身はひどく空っぽな気がした。
「お嬢様、殿下がお迎えにございます」
侍女に促され、静かに部屋を出る。
廊下では、王太子アルバート殿下が待っていた。
私の姿を認めた殿下は、一瞬だけ何かを言いかけるように唇を動かした。
しかし結局、その言葉が紡がれることはない。
「……行くぞ」
低く短い一言だけを残し、無言で腕を差し出す。
昨日、私が倒れたことは当然耳に入っているはずだ。
それでも体調を尋ねる言葉はなく、その横顔から感情を読み取ることもできない。
(……まあ、期待していないけれど)
そう自分に言い聞かせながら、差し出された腕へ静かに手を添えた。
ふと、その腕がほんのわずかに強張ったような気がした。
けれど、それも私の気のせいだろう。
視線を感じた気がしたが、振り返ることはなかった。
婚約者として並んで歩くこの時間は、今では恋人同士の逢瀬ではなく、決められた役割を果たすための儀式でしかないのだから。
会場へ足を踏み入れると、一斉に視線が集まる。
華やかなざわめきの中心にいるのは、いつだって王太子殿下だ。
私はその隣に立つ婚約者という肩書きを与えられているだけ。
そう思いながら、私は静かに微笑みを浮かべた。
一通り貴族たちへの挨拶を終えると、アルバートは当然のように私の傍を離れていった。
婚約者同士とはいえ、祝賀会ではそれぞれが挨拶に回ることも珍しくない。
だから、その行動自体は何もおかしなことではなかった。
けれど彼が向かった先を目で追えば、そこには華やかな令嬢たちの輪ができていた。
その中心で楽しげに笑っているのは、榛色の髪を揺らす一人の少女——アリス・フール子爵令嬢。
前世の記憶を取り戻した今なら、その名前も、この世界でどんな役割を担う人物なのかも知っている。
乙女ゲーム『この花束を君に』の主人公。
彼女が何かを話すたびに、アルバートの表情は柔らかく綻び、小さく笑みを返していた。
その穏やかな横顔を見ても、もう胸は痛まなかった。
先日、庭園であの光景を目にしたとき、私の中で何かが静かに終わってしまったのだろう。
今はただ、「そうなのね」と受け入れられるだけだった。
私は二人からそっと視線を外すと、誰にも気づかれないよう静かに会場を後にした。
扉を開けてテラスへ出ると、夕暮れの風が火照った頬を優しく撫でる。
空は茜色から群青へと移ろい始め、王都の街並みも柔らかな夕焼けに染められていた。
賑やかな音楽や笑い声は厚い扉一枚隔てただけで遠くなり、胸いっぱいに冷たい空気を吸い込む。
ようやく息がつけた気がした。
「姉上」
穏やかな声に振り返ると、いつの間にかルーカスがテラスへ姿を見せていた。
「こんなところにいたんだ」
「少し風に当たりたくなったの」
そう答えると、ルーカスは私の隣へ歩み寄り、同じように夕焼け空を見上げた。
「殿下も姉上を探していたよ」
「そんな心にもないことを言わないで」
その言葉に、思わず小さく笑みがこぼれる。
冗談めかして返したつもりだった。
けれどルーカスは笑わなかった。
何か言いたげに唇を開きかけ、それでも結局何も言えず、困ったように視線を伏せる。
その反応だけで十分だった。
きっとルーカスも知っているのだ。
最近のアルバートと私の距離を。
そして、彼があの少女と過ごす時間が増えていることも。
「令嬢たちに囲まれて、とても楽しそうだったもの」
静かにそう呟くと、ルーカスは返す言葉を見つけられないように黙り込んでしまう。
沈黙は、ときにどんな言葉より雄弁だった。
私は苦く笑ってから、もう一度夕焼け空を見上げる。
「ねえ、ルー」
「うん?」
「私がいなくなっても、誰も困らないと思わない?」
その瞬間、ルーカスが息を呑んだ気配が伝わってきた。
「姉上、何を言ってるの」
「だって、そうでしょう?」
どこか他人事のような声だった。
「殿下は私を必要としていないし、王妃様とも上手くいかない。友人と呼べる人もいない。……だったら私は、一体何のためにここにいるのかしらって」
言葉にした途端、自分でも驚くほど自然に本音が零れ落ちた。
こんなことを誰かに話したのは、初めてだった。
弱音なんて吐いてはいけないと思い続けてきたからこそ、その反動だったのかもしれない。
しばらく黙っていたルーカスは、小さく息を吸うと、私の方へ真っ直ぐ向き直った。
「……僕は困るよ」
「……え?」
「姉上がいなくなったら、僕は嫌だ」
飾らない、たったそれだけの言葉だった。
慰めようとするわけでも、綺麗事を並べるわけでもない。
ただ、自分の本心だけを真っ直ぐ伝えてくれた。
その一言が、張り詰めていた胸の奥へじんわりと染み渡る。
思わず小さく笑みが浮かび、私はゆっくりと目を細めた。
「……ありがとう」
本当に、その言葉だけで十分だった。
こんな私でも、いなくなってほしくないと思ってくれる人がいる。
それだけで少しだけ救われた気がする。
——だからこそ
(あなたにだけは、迷惑をかけたくないの)
その想いだけは、胸の奥へ静かにしまい込んだ。




