第1話 疲れた
たくさんの作品の中から本作をお読みいただきありがとうございます。
「もう頑張れない」と思った悪役令嬢が、自分の人生を取り戻していく物語です。
少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。
——どうして、私が……
その言葉が頭に響いた瞬間だった。
「どうして私がそんなことしなきゃいけないのよ〜」
回廊の角を曲がろうとした、そのときだった
開け放たれた窓の向こうから、風に乗って届いたのは、使用人たちの何気ない愚痴だった。
「仕事だからよ。恨むなら侍女長を恨むことね」
「でも今日はこんなに寒いのに……」
「運が悪かったと思うしかないわ」
どこにでもあるような、ありふれた会話だった。
主人が近くにいるとは思っていないのだろう。
王妃教育のため王城へ向かう途中、普段なら聞き流して終わる程度のやり取り。
それなのに、その言葉が耳に入った途端、頭の奥を鈍器で殴られたような激痛が走った。
「——っ……!」
思わず額を押さえたものの、痛みは治まるどころか一気に全身へ広がっていく。視界はぐらりと揺れ、立っていることすらできなくなった。
「お嬢様?」
異変に気づいた侍女のアンナが、駆け寄ってくる。
「レティシアお嬢様!? どうなさったのですか!」
返事をしようとしても声にならない。
足から力が抜け、その場に膝をつく。
冷たい石畳が膝を打ち、身体はそのまま崩れ落ちた。
「お嬢様!!」
悲鳴のようなアンナの声が遠く聞こえる。
「誰か、お医者様を!」
「公爵様にも至急ご報告を!」
慌ただしく駆け回る足音が廊下に響き、誰かが私の身体を支えた。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
頭の中へ、知らないはずの景色が濁流のように流れ込んでくる。
空へ届きそうなほど高い建物。
昼のように白く輝く蛍光灯。
机いっぱいに積み上げられた書類。
見慣れない機械の画面。
深夜を指した時計。
終電という言葉。
耳を塞ぎたくなるほど響く上司の怒鳴り声。
そして、そのすべてを貫くように、一つの叫びだけが何度も何度も胸の奥で木霊した。
——どうして私がそんなことをしなきゃいけないの。
その言葉に引きずられるように意識は暗闇へ沈み、私は抗うこともできないまま、そのまま深い眠りへ落ちていった。
◇◇◇
「……はぁ」
目を覚ますと、部屋の中はまだ薄暗かった。
カーテンの隙間から差し込む淡い朝焼けが、静かな寝室をぼんやりと照らしている。
夢だったのだろうか。
そんなことを思いながら天井を見つめる。
しかし、頭の中には見覚えのないはずの景色や記憶があまりにも鮮明に残っていて、とても夢だったとは思えなかった。
「お嬢様……!」
震える声に顔を向けると、ベッドの傍らに控えていたアンナが、今にも泣き出しそうな表情で私の手を包み込んだ。
「よかった……本当によかったです……!」
「……心配をかけてしまったわね」
掠れた声でそう告げると、アンナは何度もうなずきながら目元を拭う。
「丸一日お眠りになっていたんです。お医者様のお話では、疲労と睡眠不足が原因だろうと……」
「疲労と睡眠不足、ね」
思わず小さく笑みが漏れた。
その診断は間違っていない。
むしろ、それ以外の原因を探すほうが難しいくらいだ。
私の日常は、学園へ通い、その足で王城へ向かい王妃教育を受け、帰宅すれば課題と復習に追われる毎日だった。
眠る時間を削ることにも、いつしか慣れてしまっていた。
ほどなくして、部屋の扉が静かに叩かれる。
姿を現した執事は、医師を呼びに向かうことと、それまでに身支度を整えてほしいという父の言葉を伝えると、一礼して部屋を後にした。
昨日倒れたばかりだというのに、おそらく今日の王妃教育も予定通りなのだろう。
けれど、そのことに驚きはなかった。
いつものことだから。
「アンナ。顔を洗いたいわ。準備をお願い」
「ですが、お嬢様……」
まだ休むべきだと言いたげな表情を浮かべるアンナへ、小さく笑いかける。
「大丈夫よ」
そう言われてしまえば逆らえないのだろう。
心配そうに何度もこちらを振り返りながら、アンナは部屋を出ていった。
扉が閉まり静寂が戻ると、私はもう一度深く息を吐いた。
「……なるほど」
ようやく頭の中が整理できた。
昨日の激しい頭痛。
知らないはずなのに知っていた景色。
胸の奥から溢れ出してきた、別の人生の記憶。
すべてが一本の線となって繋がる。
私は——前世を思い出したのだ。
前世の私は、日本という国で働く、ごく普通の会社員だった。
……いや。
普通というには、少し語弊があるかもしれない。
世間ではブラック企業と呼ばれる会社で、休日らしい休日もなく働き続け、残業は当たり前。
仕事は次々と押しつけられ、成果だけは上司の手柄になり、「女のくせに生意気だ」と理不尽な言葉を浴びせられても、ただ黙って働き続けていた。
最後に覚えているのは、夜遅くまで明かりの消えないオフィスだった。
終わらない仕事。
積み上げられた書類。
重くなる瞼。
そして、ふっと遠のいていく意識。
そこから先の記憶はない。
「……たぶん、過労死したのね」
口にしてみても、不思議なくらい実感は湧かなかった。
むしろ、そうだったのだろうと妙に納得してしまう。
あんな働き方を続けていれば、遅かれ早かれ身体を壊していたはずだから。
だからこそ、おかしくて仕方がない。
どうして私は今世でも、同じように過労で倒れているのかしら。
思わず乾いた笑みが漏れる。
前世を思い出したことで、今までぼんやりとしていた違和感にも説明がついた。
ここは、私が前世で遊んだ乙女ゲーム——『この花束を君に』の世界だ。
けれど、朧げに覚えているのは一部登場人物の名前だけだ。
何しろ前世の私は、ゲームをやり込む余裕などなくなるほど、仕事に追われていたから。
ここフィオーレ王国は魔法が発達し、魔力を持つ貴族が国を支えている。
そして私は、このゲームで主人公を散々いじめ抜き、最後には断罪される悪役令嬢のレティシア・エトワール。
「……悪役令嬢、ね」
思わず苦笑が漏れる。
けれど、その肩書きに実感はなかった。
だって私は、ゲームのレティシアのようなことなど一度もしていない。
そんな暇がないのだ。
「……前世と変わらないじゃない」
違うのは、会社ではなく王城だということだけ。
前世では会社のため。
今世では国のため。
結局、誰かのために働き続ける人生なのだ。
私は王族にも匹敵する魔力量を持ち、『魔法の天才』とまで呼ばれていた。
公爵家の娘でもあったことから七歳で王太子殿下の婚約者に選ばれた。
それが、この生活の始まりだった。
一つ終えればまた一つと課題が積み重なり、屋敷へ戻る頃には夜も更けている。
それでも翌日の予習復習は欠かせず、気づけば睡眠時間は三時間ほどになっていた。
努力を重ねれば、きっと報われる。
そう信じて、与えられたことを必死にこなしてきた。
公爵家の娘として。
そして、王太子殿下の婚約者として。
それが私に課せられた役目であり、果たさなければならない責務だと思っていたから。
けれど今になって振り返れば、いつからか何かが少しずつ噛み合わなくなっていたのかもしれない。
当時の私は忙しさに追われるばかりで、そんな違和感に気づく余裕すらなかった。
——つい先日の出来事までは。
王妃教育が予定より早く終わった日のことだった。
迎えが来るまで少し時間ができた私は、侍女から庭園の花が見頃を迎えていると聞き、散策がてら奥へ足を向けた。
昼下がりの柔らかな陽射しに包まれた庭園では、色とりどりの花々が風に揺れ、甘い香りを漂わせている。
その静かな空気を破るように、ふいに楽しげな笑い声が聞こえてきた。
思わず視線を向けると、庭園の奥にあるガゼボの柱越しに、王太子殿下と一人の令嬢の姿が見えた。
榛色の髪を揺らした少女が何かを話すたび、殿下は穏やかに目を細め、小さく笑みを浮かべる。
その横顔は、私の知らないほど柔らかかった。
思わず足が止まる。
……あんな表情を、私はいつから見なくなったのだろう。
いや、そもそも私に向けられたことなど、本当にあったのだろうか。
そんな考えが胸をよぎった瞬間、小さな痛みが胸の奥へ静かに沈んでいく。
七歳で婚約した頃は、彼もよく笑っていた——そんな気がする。
けれど、それも思い違いなのかもしれない。
もう十年も前のことだ。
思い出そうとしても、その頃の記憶だけが白い霧に包まれたようにぼやけていて、うまく掴むことができなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
今、あの笑顔は私へ向けられたものではないということ。
二人の間には自然と打ち解けた空気が流れていて、まるで長い時間を共に過ごしてきた者同士のようだった。
その輪の中に、私の入る余地はどこにもない。
その事実だけが静かに胸へ落ちてきて、私は何も言えないまま視線を伏せる。
この場にいるべきではない——
そう思って踵を返した、そのときだった。
「嬉しい!殿下、ありがとうございます!」
弾んだ少女の声が背中越しに聞こえてきた。
それでも私は振り返らなかった。
振り返ってしまえば、きっと余計なものまで見てしまう気がしたから。
しかしその瞬間、不思議なくらい心が静かになった。
怒りでも、嫉妬でもない。
ただ、長い間胸の奥で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたような感覚だった。
何かが壊れる音はしなかった。
けれど確かに、私の中で何かが終わった。
胸の奥にあった熱が、すうっと冷えていく。
代わりに広がったのは、底の見えない空白だった。
立っているのに足元が消えたようで、指先の感覚だけが妙に遠い。
「……そう」
私は、ずっと一人で頑張っていたのだ。
彼の隣に立つために。
彼に恥をかかせないために。
いつか笑ってもらえる日が来ると信じて。
でも、その努力を見てくれる人は誰もいなかった。
だからなのだろう。
前世の記憶を取り戻した今、真っ先に思ったことは恋ではなかった。
「……もう、疲れたわ」
その一言だけだった。
それは弱音ではなく、長い長い我慢の果てにようやく零れ落ちた、本音だった。




