第81話 俺の隣でもできる
明日からシルバーウィークなので、本日はもう一話更新します!
※特に予定はありません。連休というだけでうきうきしている私の気持ちが表れています笑
それから数日が過ぎた。
アルバート殿下の身体は、治癒術師たちが驚くほど順調に回復していた。
背中に負った傷は、私が治癒魔法をかけたことで、ほとんど塞がっている。
けれど、失った血や体力まで一瞬で元に戻るわけではないらしく、長時間動き回ることだけは、まだ禁じられていた。
それでも殿下は、ベッドから起き上がり、短い距離であれば自分の足で歩けるまでになっていた。
そんな殿下の容体が安定した翌朝。
朝食を終えたところで、ルーカスがふいに口を開いた。
「僕は先に戻るよ」
「もう?」
「うん。殿下も目を覚ましたし、傷の状態にも問題がないそうだから」
そう答えてから、ルーカスはわずかに表情を引き締めた。
「それに、向こうで済ませなければならないこともある」
フォルケン侯爵は捕らえられた。
けれど、ヴァルガードで発見された証拠の中には、フィオーレのトロン伯爵へと繋がるものも含まれている。
それらを正式に王家へ報告し、国内での調査を進めなければならない。
アルバート殿下がすぐには動けない以上、誰かが先に戻る必要があるのだろう。
「そう……」
「うん。それで、姉上は?」
「……私?」
「これからどうするの?」
私は、すぐには答えられなかった。
フィオーレへ帰るのか。
このまま旅を続けるのか。
それとも、別の場所へ向かうのか。
アルバート殿下にも、自分で考えてほしいと言われたばかりだった。
「……まだ、決めていないわ」
「そう」
ルーカスは、それ以上何も尋ねなかった。
あまりにもあっさりと話が終わってしまったせいで、今度は私のほうが落ち着かなくなる。
「……帰ってこいとは言わないの?」
「言ってほしい?」
「そういう意味ではないわ」
「じゃあ、言わない」
「…………」
あまりにも即答だった。
言葉を失った私を見て、ルーカスが小さく笑う。
「もちろん、僕は姉上が帰ってきてくれたら嬉しいよ」
「……え?」
「父上も母上も、きっとそうだと思う。でも、それと姉上がどうしたいかは別だろ?」
「…………」
「だから、姉上が決めればいいよ。帰りたくなったら帰ってくればいいし、まだ旅を続けたいなら、そうすればいい」
「ルーカス……」
「ただ……帰ると決めたら、先に知らせて」
「どうして?」
「父上と母上にも、心の準備というものが必要だから」
「…………」
その言葉に、思わず笑みがこぼれた。
「分かったわ」
「うん」
そうしてルーカスは、私より一足先にフィオーレへ戻っていった。
◇
翌日。
ヴァルガード王城の大広間には、朝から多くの人々が集まっていた。
高い天井からは王国旗が垂れ下がり、磨き上げられた床には、正装に身を包んだ貴族や騎士たちが整然と並んでいる。
今日、ヴァルガード王国第一王子、リオネル殿下の立太子の儀が執り行われる。
そして、その式典が終われば、アルバート殿下もフィオーレへ戻ることになっていた。
そのことを聞かされたのは、昨日のことだった。
怪我を負ったばかりだというのにと心配したけれど、治癒術師から移動の許可は出ているらしい。
馬には乗れないため馬車での移動になるものの、いつまでもヴァルガードに滞在しているわけにもいかない。
何より、フィオーレでも今回の件について調べなければならないことが残っている。
アルバート殿下は王太子なのだ。
戻って果たさなければならない務めがある。
そして殿下は、私に一緒に帰れとは言わなかった。
帰ってきてほしいとは思っている。
けれど、自分が帰ることと私がどうするかは別の話だと、そう言った。
その言葉が、まだ胸のどこかに残っている。
「お嬢様」
「何?」
「やはり、お似合いです」
隣に立つアンナが、満足そうに頷いた。
私は自分の姿を見おろした。
「旅装で式典に出るわけにはいかないでしょう」
「そういう意味ではございません」
アンナは、どこか嬉しそうだった。
家を出てから、こうして正式な場に立つのは初めてだ。
以前なら、ドレスを着て背筋を伸ばし、大勢の貴族たちの視線を受けるだけで、胸の奥が重くなっていた。
公爵令嬢らしく。
王太子妃らしく。
未来の王妃らしく。
そう振る舞わなければならないのだと、ずっと思っていたから。
けれど、今日は少し違う。
私は、自分でここにいる。
誰かに命じられたからではない。
リオンさんが王太子になるところを見届けたいと、自分で思ったから、ここにいるのだ。
「レティシア」
呼ばれて振り返ると、正装したアルバート殿下が立っていた。
「殿下。体調は大丈夫なのですか?」
「会って最初にそれか?」
「当然です」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「……たぶん」
「殿下」
「冗談だ」
アルバート殿下が笑う。
その姿だけを見れば、数日前まで重傷を負って眠っていたとは思えない。
けれど、やはり動きはまだ慎重だった。
私は無意識のうちに、その背中へ視線を向けていた。
「そんな顔をするな」
「どんな顔ですか?」
「心配している顔」
「心配くらいします」
「……そうか」
「なぜ嬉しそうなのですか」
「嬉しいから」
「…………」
――もう聞くまい。
最近、この人に何を言っても、結局はそこへ戻ってくる。
やがて、大広間の空気が変わった。
人々の声が静まり、全員の視線が一斉に正面へ向く。
国王陛下が姿を現したのだ。
そして、その少し後ろに――リオンがいた。
「…………」
いつもの姿とは、まるで違っていた。
旅の間に何度も見た動きやすい服でも、騎士たちと共に戦っていた時の装いでもない。
ヴァルガード王家の色を纏い、王族としての正装に身を包んでいる。
長い紺色の髪も綺麗に整えられ、普段は低い位置で無造作に結ばれているそれが、今日は隙なくまとめられていた。
いつもなら気軽に声をかけてくる人と、同じ人物には見えない。
第一王子。
そして、これからこの国の王太子となる人。
やがて儀式が始まり、国王陛下の声が広間に響いた。
これまでの功績。
王族としての責務。
そして、これから国を背負う者として求められるもの。
リオンは、そのすべてを黙って聞いていた。
王太子の証が授けられ、広間にいる人々が一斉に頭を垂れる。
私もそれに倣った。
ヴァルガード王国王太子リオネル・ヴァルガード。
その名が正式に告げられると、大きな拍手が広間を満たした。
顔を上げ、その中心に立つリオンさんを見た瞬間、私は数日前に交わした会話を思い出していた。
『できることが増えたのは、悪くねぇな』
王太子になれば、弟君を守ることができる。
それだけではない。
立場が変われば、手を伸ばせる場所が増える。
助けられる人も増える。
私はずっと、立場というものは人を縛るものだと思っていた。
王太子妃だから。
未来の王妃だから。
そう言われるたびに、自由を奪われていくような気がしていた。
けれど、もし自分自身でその立場を選ぶのなら。
その力を、自分が望むことのために使うのなら。
それは本当に、自由ではないのだろうか。
王太子妃になることが嫌だったのではない。
王妃になることが嫌だったのでもない。
その未来を、自分で選ぶことすら許されていなかったことが、苦しかったのかもしれない。
まだ、答えは出ない。
それでも以前とは少しだけ違うものとして、私はその立場を考えられるようになっていた。
◇
式典が終わると、大広間の空気は少しだけ和らいだ。
各国からの使者や貴族たちが、新たな王太子へ次々と祝辞を述べている。
アルバート殿下もフィオーレ王国の王太子として正式に挨拶をする必要があるらしく、人々の輪へ向かっていった。
その背中を見送っていると、聞き慣れた声がした。
「レティ」
「リオンさん」
振り返ると、そこにはつい先ほど王太子となったばかりのリオンが立っていた。
「おめでとうございます」
「ああ。ありがとな」
「……もう少し、王太子らしくなさった方がよろしいのでは?」
「なってただろ。さっきまで」
「さっきまで?」
「式典終わったからいいだろ」
「よくないと思います」
思わずそう返すと、リオンが笑った。
いつもの笑い方だった。
正装をしていても、王太子になっても、リオンはリオンらしい。
「それより」
「はい?」
リオンの視線が、私の少し後ろへ向いた。
つられて振り返ると、アルバート殿下が戻ってきている。
「……何の話だ?」
「まだ何も話してねぇよ」
「そうか」
「なんだよ、その顔」
「別に」
「そうは見えねぇけど」
「…………」
妙に空気が悪い。
「お二人とも?」
声をかけると、二人が同時にこちらを見る。
リオンは小さく息を吐くと、私へ向き直った。
「レティ。少し、時間をくれ」
「私にお話ですか?」
「ああ」
そこで一度アルバート殿下を見て、リオンは続けた。
「こいつにも聞かせといた方が、後で面倒がねぇ」
「俺にも関係する話か?」
「するな」
「リオンさん?」
私だけが意味を分からないまま、二人の顔を交互に見る。
けれど、リオンはもう笑っていなかった。
促されるまま大広間を出て、私たちは王城の中庭へ向かった。
式典を終えたばかりの城内にはまだ多くの人が行き交っていたけれど、中庭まで来ると、さすがに人影は少ない。
私の隣にはリオン。
そして、なぜかアルバート殿下までいる。
最初に口を開いたのは、アルバート殿下だった。
「それで……俺にも関係する話とは何だ?」
「急かすなよ」
「お前が意味深な言い方をするからだろう」
「殿下」
「何だ?」
「もう少し穏やかにお話しできませんか?」
「俺は穏やかだ」
「どこがです?」
「…………」
どうやら、穏やかな話し合いは期待できそうにない。
私は小さく息を吐き、改めてリオンへ向き直った。
「それで、お話とは?」
「ああ。この前の話、覚えてるか?」
「王太子になって、できることが増えたというお話ですか?」
「ああ。あの時、何か考えてただろ」
「……分かりました?」
「分かる」
「そんなに顔に出ていましたか?」
「俺にはな」
「…………」
その言い方に、なぜか少しだけ胸がざわついた。
「それで?」
「……立場というものについて、考えていました」
「立場?」
「はい。私はこれまで、立場というものは人を縛るものだと思っていたのです。公爵令嬢だから、王太子の婚約者だから、未来の王妃だからと求められることばかりが増えていくように感じていました」
リオンは何も言わず、私の続きを待っている。
「けれど、あなたが言ったでしょう。王太子になれば、できることが増えると」
「ああ」
「今回のことでも、私一人ではどうにもできなかったことがたくさんありました。避難する場所を用意することも、大勢の人へ食料を届けることも、必要な場所へ人を動かすことも」
旅をして、目の前の誰か一人を助けることはできた。
けれど、どれほど魔力があっても、私一人の手が届く範囲には限りがある。
「だから、立場があることも、悪いことばかりではないのかもしれないと思ったのです」
「…………」
「王太子妃や王妃になることそのものが嫌だったのではなくて――誰かにそうなると決められていたことが、嫌だったのかもしれません」
口にしてみると、胸の奥にあったものが、少しだけ形になった気がした。
リオンはしばらく私を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……なるほどな」
「まだ、そうかもしれないと思っただけですけれど」
「ああ。けど、それなら一つ覚えとけ」
「何をです?」
「王妃になるのは、別にフィオーレじゃなくてもできるからな」
「……はい?」
思いがけない言葉に顔を上げる。
その瞬間、隣にいたアルバート殿下の空気が変わった。
「おい。どういう意味だ」
「あ?そのままの意味だよ」
リオンさんはアルバート殿下を見たあと、自分の正装へ視線を落とした。
「俺も今日から王太子だ」
「……そうだな」
「いずれ王になる」
「それが?」
「分かんねぇか?」
「分かっているから聞いている」
「なら聞く必要ねぇだろ」
「お二人とも」
止めようとした私へ、リオンが視線を戻した。
「レティ」
「はい?」
「お前がもし、その立場を使って何かしたいと思うなら」
いつもと同じ呼び方で、いつもと同じ声だった。
けれど、その表情だけは違っていた。
「別に、あいつの隣じゃなくてもできる」
「…………」
「俺の隣でもできる」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……リオンさん?」
「リオネル」
低い声が響いた。
けれど、リオンはアルバート殿下を見ることなく、私だけを見ていた。
「今からちゃんと言う」
「…………」
「レティ。俺は、お前が好きだ」
まっすぐな緑色の瞳から、目を逸らせない。
風が吹き抜け、中庭の木々が揺れた。
その音だけが、やけに大きく聞こえる。
「…………」
私は何も言えなかった。
隣にいるアルバート殿下も黙っている。
けれど、その沈黙の意味は、私とはまったく違う気がした。
「……いつからですか?」
ようやく口から出たのは、そんな言葉だった。
「さあな」
「さあな?」
「気づいた時には、もう好きだった」
「…………」
「最初は、面倒な女だと思ってたけどな」
「それは初耳です」
「俺の計画を、行く先々でぶっ壊してたからな」
「それは……」
「分かってる。今は感謝してる。……レティがいなかったら、俺はたぶん今も同じことをしてた」
「…………」
「弟を守るためなら仕方ねぇって、誰かが傷つくのを数字で見てた」
あの村で交わした話が、脳裏に蘇る。
「お前と旅して、目の前で困ってる奴がいたら助けて、魔物が出たら突っ込んで、水がなけりゃどうにかして」
「突っ込んではいません」
「似たようなもんだろ」
「違います」
「……まあ、そういうところも含めて――俺は、レティが好きだ」
二度目の言葉だった。
今度は、聞き間違えようもない。
「だから、こいつだけ見て決めるな」
「…………」
「俺といる未来も、ちゃんと考えてくれ」
「リオネル」
「なんだよ」
「さっきから黙って聞いていれば――」
「聞いてろよ。まだレティと話してる」
「…………」
アルバート殿下の眉間に、明らかに皺が寄った。
何か言いたそうに口を開きかけ、それでも一度目を閉じる。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
「え?」
「今は黙る」
意外な答えに、リオンまで眉を上げた。
「いいのか?」
「よくはない」
「どっちだよ」
「だが……決めるのはレティシアだ」
「…………」
アルバート殿下は、私を見た。
胸の奥で、何かが揺れた。
昨日、私がどうしたいのかを、私自身に選んでほしいと殿下は言った。
それは、殿下にとって都合のいい答えだけを選べという意味ではなかったのだ。
今、目の前に自分ではない選択肢を差し出されても、それを取り上げようとはしない。
……嫌そうではあるけれど。
「……返事は今じゃなくていい」
リオンの声に、私はそちらへ顔を向けた。
「はい?」
「いきなり言われても困るだろ」
「……それは、まあ」
「だから考えろ。ただし、俺も選択肢に入れろ」
「…………」
「勝手に除外すんなよ」
「ずいぶん強引ですね」
「何も言わねぇで後悔するよりいい」
「…………」
どこかで聞いたような言葉だった。
思わずアルバート殿下を見ると、殿下も同じことを思ったらしい。
「真似をするな」
「してねぇよ」
「俺が先だ」
「知らねぇよ」
「お二人とも」
どうしてこうなるのだろう。
けれど、二人のやり取りを聞きながら、私は自分の中にある気持ちを探していた。
アルバート殿下は、明日の朝フィオーレへ帰る。
リオンは、今日からこの国の王太子になった。
そして、私は――これから、どうしたいのだろう。
旅を続けるのか。
ヴァルガードに残るのか。
フィオーレへ帰るのか。
誰かの隣へ行くのか。
考えているうちに、一つだけ、胸の中に浮かんだものがあった。
「私……一度、フィオーレへ帰ろうと思います」
二人が同時にこちらを見る。
アルバート殿下の目が、わずかに見開かれた。
リオンは何も言わず、私を見ている。
私はアルバート殿下へ向き直った。
「ただ。殿下と一緒に戻るため、という意味ではありません」
「……ああ。分かっている」
一瞬だけ残念そうな色が金色の瞳を過ぎった気がしたが、殿下はそれ以上何も言わなかった。
今度は、リオンを見る。
「リオンさんへのお返事でもありません」
「ああ」
「私は、一度エトワール公爵家へ戻りたいのです」
家を出た時、私は何もかも捨てるつもりだった。
公爵令嬢という立場も。
王太子の婚約者という立場も。
未来の王妃という立場も。
すべてを捨ててしまえば、自由になれると思っていた。
けれど、今は違う。
「自分がこれから何をしたいのか、もう一度考えたいのです――レティシア・エトワールとして」
誰かに決められた未来ではなく。
何も持たず、ただ逃げ続ける未来でもなく。
自分の意思で選びたい。
「だから、一度帰ります」
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがてアルバート殿下が口を開く。
「分かった」
「ああ」
その言葉に続くようにリオンさんも短く頷き、そして少しだけ笑った。
「なら、帰れ」
「……ずいぶんな言い方ですね」
「だって、答えじゃねぇんだろ?」
「はい」
「ならいい」
リオンは、まっすぐ私を見つめた。
「フィオーレに帰ることと、あいつを選ぶことは別だ」
「…………」
「だから俺は、まだ諦めねぇ」
「リオンさん」
「嫌ならちゃんと振れ」
「…………」
「それまでは好きでいる」
あまりにも堂々と言われて、私は言葉を失った。
すると、今度はアルバート殿下が口を開く。
「それなら俺も同じだ」
「殿下まで何をおっしゃっているのですか」
「俺も諦めない」
「…………」
「君が決めるまで、何度でも好きだと言う」
「アルバート殿下」
「言うと決めた」
「またそれですか」
「ああ」
「便利に使いすぎです」
思わずため息が漏れた。
けれど、なぜだろう。
二人のやり取りを聞いているうちに、私は少しだけ笑ってしまった。
私はまだ、答えを知らない。
誰を選ぶのかも。
どこで生きたいのかも。
どんな立場に立ちたいのかも。
けれど、一つだけ決めた。
――まずは帰ろう。
逃げ出した場所へ戻るためではない。
誰かの婚約者に戻るためでもない。
今度は、自分の足で、自分の名前を取り戻すために。
レティシア・エトワールとして――私は、フィオーレへ帰る。
読んでいただきありがとうございます!




