第80話 頑張ったな
アルバート殿下が目を覚ました翌日。
治癒術師から、短時間であれば会話をしても差し支えないとの許可を得た私は、再び治療室を訪れていた。
扉を開けて中へ入ると、ベッドの上からすぐに声がかかる。
「本当に来てくれた」
思いがけない言葉に、私は足を止めた。
「来ると申し上げたでしょう」
「ああ。そうだったな」
身体を起こしているアルバート殿下は、昨日よりもずいぶん顔色がよくなっていた。
背中の傷のため、まだ自由に動くことはできないらしいが、一言話すだけで疲れてしまっていた昨日とは明らかに違う。
ほっとしながらベッドへ近づくと、殿下が小さく笑った。
「それでも、嬉しい」
「…………」
まただ。
以前なら決して口にしなかったようなことを、最近のアルバート殿下は驚くほど素直に口にする。
「殿下」
「何だ?」
「最近、本当に何でも口になさいますね」
「決めたからな」
「……何をですか?」
「もう、言わなくても分かるとは思わないと」
その言葉に、私は何も返せなかった。
十年間、私たちは互いに何も言わなかった。
私は婚約者なのだから、求められたことを果たすのは当然だと思っていた。
アルバート殿下も、私なら分かっていると思っていたのだろう。
その結果が、今なのだ。
「それで――聞きたいことがあるんだろう?」
「……はい」
アルバート殿下が、まっすぐ私をみつめる。
私はベッド脇の椅子に腰を下ろした。
聞きたいことはたくさんあった。
アリスのこと。
庭園でのこと。
私が知らなかった十年間のこと。
けれど、いざ本人を前にすると、最初に口から出たのは、そのどれでもなかった。
「……どうして」
「何だ?」
「どうして、そこまで私を好きなのですか?」
「…………」
アルバート殿下が固まった。
数秒遅れて、殿下は片手で口元を覆う。
「殿下?」
「いや……まさか、最初にそれを聞かれるとは思わなかった」
「聞いてはいけませんでしたか?」
「いや。嬉しい」
「…………」
「そういう顔をするな」
「どのような顔ですか」
「困っている顔だ」
「誰のせいですか」
「俺だな」
即答されてしまい、私は何も言えなくなった。
アルバート殿下は小さく笑ったあと、しばらく何かを考えるように黙っていた。
「……覚えていないかもしれないが」
「何をですか?」
「昔、俺が王城へ戻った頃のことだ。俺が王城を離れていた間のことを、君に話したことがある」
「…………」
「皆、俺の話を聞くと『可哀想だ』と言った。でも、君だけは違った」
アルバート殿下の目が、懐かしいものを見るように柔らかくなる。
「君は俺に、『頑張ったのですね』と言ったんだ」
「……私が?」
「ああ」
「覚えて……いません」
「だろうな。君にとっては、それくらい何気ない言葉だったんだと思う。でも俺は、ずっと覚えていた」
アルバート殿下は、少しだけ寂しそうに笑った。
可哀想だと言われるのが嫌だったのだと、殿下は言った。
心配されていたことも、皆が善意でそう言っていたことも分かっていた。
それでも、怖くても、辛くても、生きるために必死だった自分を、ただ何もできなかった可哀想な子どものように扱われることが嫌だったのだと。
「君だけが、それを見てくれた気がした」
「…………」
「王太子でも、可哀想な子どもでもない。ただ、生きるために必死だった俺自身を」
胸の奥が、ひどく痛んだ。
なぜなのか、すぐには分からなかった。
けれど、『頑張ったのですね』という言葉を頭の中で繰り返しているうちに、私は気づいてしまった。
私も、欲しかったのだ。
前世でも、今世でも、私はずっと頑張ってきた。
仕事をして、周囲の期待に応え、今世では公爵令嬢として振る舞い、王太子妃になるための教育を受けた。
求められることを一つずつこなして、足りないと言われれば、さらに努力した。
けれど、聞こえてくるのはいつも同じような言葉ばかりだった。
あなたならできるでしょう。
公爵令嬢なのだから。
王太子妃になるのだから。
もっとできる。
まだ頑張れる。
誰かに、ただ一度でいいから。
もう十分頑張ったのだと、そう言ってほしかったのかもしれない。
「レティシア」
名前を呼ばれ、私が顔を上げると、アルバート殿下がまっすぐに私を見ていた。
「君もだ」
「……え?」
「君も、ずっと頑張ってきた」
「…………」
一瞬、息の仕方が分からなくなった。
つい先ほど、自分がずっと欲しかったのかもしれないと気づいたばかりの言葉だった。
けれど、いざそれを自分に向けられると、どう受け取ればいいのか分からない。
嬉しいのか、苦しいのか。
それすらも分からないまま、胸の奥だけが強く締めつけられた。
「殿下……?」
「俺は、知っていたつもりだった。君が勉強していたことも、王太子妃になるための教育を受けていたことも、何でもできるようになるまで努力していたことも。……でも、できるから大丈夫なのだと思っていた」
「…………」
「違ったんだな。……できることと、苦しくないことは違う」
その言葉が、胸の奥へ深く沈んでいく。
できたから、大丈夫だと思われていた。
求められたことに応えられたから、苦しくないのだと思われていた。
けれど、本当は違う。
できたことと、平気だったことは、同じではない。
そんなふうに言われたことは、これまで一度もなかった。
気づけば、視界がわずかに滲んでいた。
「君は、ずっと頑張っていた」
「……やめてください」
反射的に言葉が出た。
アルバート殿下が目を瞬く。
「どうしてだ?」
「分かりません」
本当に分からなかった。
ただ、これ以上言われたら、何かが崩れてしまいそうだった。
「私は……当たり前のことをしていただけです」
「俺も、そう思っていた」
「…………」
「昔の俺もな」
その言葉に、息を呑む。
当たり前だと思っていたから、自分が頑張っていることにすら気づかなかった。
それは、今の私と同じだった。
「生きるために必要なことをしただけだった。だから、自分が頑張ったなんて思っていなかった」
「…………」
「でも君は、俺に言っただろう――頑張ったのだと。だから、今度は俺が言う」
逃げるように伏せていた目をゆっくりと上げると、視線が重なった。
「レティシア」
「……はい」
ほんの一瞬、アルバート殿下が目を細めた。
懐かしむような、それでいてどこか苦しそうな表情だった。
十年前、幼い私が何気なく口にした言葉を、この人はずっと覚えていたのだ。
アルバート殿下は私から目を逸らさないまま、ひどく大切なことを伝えるように、ゆっくりと口を開いた。
「頑張ったな」
「…………」
胸の奥がぐっと熱くなる。
必死に耐えようとしたけれど、駄目だった。
堪えていたものが一気に溢れ、視界が滲む。
「……泣きません」
「ああ」
「泣いていません」
「分かった」
「……本当に」
「ああ、分かっている」
否定されなかった。
笑われもしなかった。
ただ、アルバート殿下はそこにいて、私が落ち着くのを待ってくれていた。
「もっと早く言えばよかった」
「…………」
「十年も遅くなった」
――本当に、遅すぎる。
そう思うのに、涙は止まってくれなかった。
◇
しばらくして、ようやく呼吸が整った頃。
「……もう大丈夫です」
そう告げると、アルバート殿下がこちらを覗き込んだ。
「本当か?」
「はい」
「もう泣いていないか?」
「泣いていません」
「そうか」
それでも顔を確かめるように見つめられ、私は思わず眉をひそめた。
「……その確認は必要ですか?」
「必要だと思っている」
「どうしてですか」
「また怒られそうだからな」
「…………」
睨みつけると、アルバート殿下がわずかに笑った。
その表情を見ているうちに、胸の奥に残っていた緊張が少しだけほどけていく。
けれど、まだ聞かなければならないことが残っていた。
「殿下」
「何だ?」
「アリスのことも、聞きました」
その名前を口にした途端、アルバート殿下の表情がわずかに変わった。
「……ルーカスからか?」
「はい」
「やっぱりあいつか」
「怒らないでください」
「怒ってはいない。ただ……俺から話すべきだったとは思っている」
「……では、話すつもりだったのですか?」
「…………いつかは」
「いつか」
「……そういう顔をするな」
「どのような顔ですか?」
「責めている顔だ」
「責めていますから」
「そうか……」
アルバート殿下は気まずそうに視線を逸らした。
「今すぐ話すつもりはなかった。言い訳に聞こえると思ったからだ」
「言い訳?」
「ああ」
今度は逃げることなく、まっすぐこちらを見る。
「アリスを好きだったわけではない。むしろ最初から警戒していた。庭園へ行ったのも、君を避けていたからではない。あの日は君を誘うつもりだった」
それはルーカスから聞いた話と同じだった。
けれど、本人の口から聞くと、やはり胸の奥がざわついた。
「でも、それを今の君に話して、『だから全部誤解だった』とは言いたくなかった」
「…………」
「俺はアリスを好きではなかった。君を庭園へ誘うつもりだった。だから俺は悪くなかった――そんなふうにはしたくない」
「…………」
「俺が何を考えていたとしても、君には何一つ伝えていなかった。――君が傷ついたのは、本当だから」
アルバート殿下の声は、どこまでも静かだった。
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。
何かが許されたわけではない。
私が過ごした十年間がなかったことになるわけでもない。
けれど、私が知らなかったものも、確かにあったのだ。
「……殿下」
「何だ?」
「それなら、どうしてもっと早く言わなかったのですか?」
「…………」
「アリスのことだけではありません」
私は少し迷ってから、ずっと疑問に思っていたことを口にする。
「私を好きだったことも、隣にいてほしかったことも。十年間、一度もおっしゃらなかったでしょう」
言葉にしてみると、不思議な気持ちになった。
本当に、一度もなかったのだ。
やがてアルバート殿下が、小さく息を吐いた。
「……怖かったのだと思う」
「怖い?」
「ああ」
「何がですか?」
すぐには答えが返ってこなかった。
しばらくして、殿下はどこか自嘲するように口元を歪めた。
「君に、必要ないと言われるのが」
「…………」
「俺たちは婚約していた……いや、今もしているな」
「はい」
「婚約者である限り、君は俺の隣にいる。王太子でいる限り、君は王太子妃になるために、そこにいてくれる」
「…………」
「だから、その立場に甘えていた。それに……君を意識するようになってから、以前のように話せなくなった」
「私を?」
「ああ。昔は何も考えずに話せたんだがな」
アルバート殿下は、それまでまっすぐ私を見ていた視線をわずかに逸らし、少し言いにくそうに続ける。
「成長するにつれて、君はますます綺麗になっていっただろう」
「…………」
「そのうえ、俺は君が好きだった。平然と話せると思うか?」
「……私に聞かれましても」
まさかそんな理由が出てくるとは思わず、返答に困る。
「君と話すだけで、何を言えばいいのか分からなくなることもあった。変なことを言って嫌われるくらいなら、何も言わないほうがいいと……そう思っていた時期もある」
「…………」
「今考えれば、何も言わないほうがよほど駄目だったがな」
それについては、私も否定できなかった。
「好きだと言って、もし君に同じ気持ちはないと言われたら、それを受け止めなければならない。それも怖かった」
私はしばらく何も言えなかった。
アルバート殿下にも、怖いものがある。
そう考えると少し意外だったけれど、今度は口には出さなかった。
それよりも、もっと気になることがあった。
「……それでは、婚約者という立場に、私を繋ぎ止めていたことになりますよ」
「ああ」
アルバート殿下は否定しなかった。
言い訳をすることも、取り繕うこともなく、私の言葉をそのまま受け止めるように静かに頷く。
以前の殿下なら、こんなふうに自分の弱さを認めることはなかったのかもしれない。
「俺も、そう思う」
「…………」
「俺は自分で君を選んで、君と婚約した。それだけで満足して、君も同じように俺を選んでいるのか、一度も確かめなかった」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
私が殿下の婚約者になったのは、七歳の頃だった。
あまりにも幼くて、王太子の婚約者になるということが何を意味するのかさえ、きっとよく分かっていなかった。
それから十年間、殿下の隣に立つことは、いつの間にか私にとっても当たり前になっていた。
けれど、その「当たり前」を、自分で選んだことがあったのかと問われれば――すぐには答えられなかった。
「今も、君は俺の婚約者だ」
「……はい」
「だから、今すぐ俺を選んでほしいなんて言うつもりはない。まずは、君がどうしたいのかを考えてほしい。俺との婚約も、その先のことも全部含めて」
「…………」
「その答えが俺の望むものではなかったとしても、今度はちゃんと聞く」
その言葉に、私はすぐには答えられなかった。
王太子に選ばれること。
国に求められること。
誰かの期待に応えること。
そういうものはずっと、私にとって断れないものだった。
けれど、今アルバート殿下が言っているのは、それとは違う。
ただ、これからどうしたいのかを、私自身に選んでほしいと言った。
「……少し」
「何だ?」
「考えさせてください」
「もちろんだ。急がなくていい。旅を続けたいなら、それでも構わない」
「……はい」
「ただ、俺はもう、何も言わずに待つつもりはない」
「…………どういう意味ですか?」
アルバート殿下の表情は至って真剣だった。
けれど、その目には先ほどまでとは少し違う、妙に揺るぎないものが宿っている。
何を決意したのかは分からない。
分からないのだけれど――なぜか、あまり聞かないほうがいいような気がした。
「好きなら好きだと言う。会いたければ会いたいと言う。来てほしい時は、来てほしいとも言う」
「殿下……」
「もちろん、嫌なら断ってくれて構わない」
「…………ずいぶん、面倒な方になりましたね」
「そうか?」
「そうです」
「だが、何も言わない俺よりはましだろう?」
「…………」
否定できなかった。
何を考えているのか分からないまま、ただ隣にいることだけが決まっていた頃よりも、今のほうがずっといい。
好きなら好きだと言って、会いたいなら会いたいと言う。
少し――いや、かなり困る気はするけれど、それでも何も知らされないよりはいいと思えた。
「…………そうですね」
「ずいぶん間があったな」
「十年分です」
「……それは仕方ないな」
アルバート殿下が笑った。
つられるように、私もほんの少しだけ笑う。
その瞬間、遠い昔、二人で庭園を走り回っていた頃の光景がふと頭をよぎった。
けれど、不思議とあの頃に戻りたいとは思わなかった。
十年前からやり直したいわけでもない。
私たちは、もうあの頃の私たちではないのだから。
もし、もう一度この人と何かを始めることがあるのなら、それはきっと、昔の続きではない。
今の私たちが、今度こそ自分の意思で選んで始めるものなのだと思った。
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