第79話 頑張ったのですね◇
――「可哀想」と言われることが苦手になったのは、幼い頃に起きた、あの一件の後だった。
父の弟である王弟が王位を望み、一部の貴族を巻き込んで動いた政変。
企みそのものは早い段階で察知され、大きな戦になる前に鎮圧されたらしい。
けれど、当時王位継承権第一位だった俺は、父と同じように王弟にとって邪魔な存在だった。
だから異変が明らかになると、俺は真っ先に王城から逃がされた。
『アルバート』
『母上?』
呼ばれて振り返ると、いつもは穏やかな母が、ひどく強張った表情で俺の肩を掴んでいた。
『よく聞いて。あなたは今から、この方たちと一緒に王城を出ます』
『どうして?』
『少しの間だけよ』
母はそう言って笑った。
今思えば、あれは無理に作った笑顔だったのだと思う。
『必ず迎えに行くから』
その言葉を信じて、俺は護衛たちと王城を出た。
数日もすれば戻れるのだと、その時の俺は本気でそう思っていた。
けれど、俺を逃がした経路はどこからか漏れていた。
王城を離れて間もなく追手が現れ、護衛たちは予定していた道を捨てた。
安全だと思った場所でも再び見つかり、逃げるたびに王都から遠ざかっていく。
そうしているうちに、王家との連絡は完全に途絶えた。
王城ではすでに騒動が収まりつつあることも、母が俺を探していることも、幼い俺には知る術がなかった。
◇
最初のうちは、それでもまだ旅のようなものだった。
信頼できる護衛がいて、食事も用意され、夜になれば眠る場所もあった。
けれど、それは長く続かなかった。
追手から逃れるたびに護衛の数は減り、王子だと知られないよう上等な服も捨てた。
どこにでもいる子どものような格好をして、名前もできるだけ口にするなと言われた。
ある夜、雨音を聞きながら、小さな物置のような場所で眠ったことを覚えている。
『寒い』
誰に言ったのかは、もう覚えていない。
返事もなかった。
俺はただ、薄い布を身体に巻きつけて膝を抱えた。
空腹で眠れない夜もあった。
知らない土地を歩き、恐ろしい大人にも会った。
騙されかけたこともある。
怖かった。
泣いた夜もあったし、母に会いたいと思った。
王城へ帰りたいとも、何度も思った。
それでも、不思議と自分を可哀想だと思ったことはなかった。
そんなことを考える余裕がなかっただけなのかもしれない。
今日、何を食べるのか。
夜、どこで眠るのか。
誰を信じればいいのか。
明日まで生きていられるのか。
考えていたのは、それだけだった。
朝になれば起きた。
歩けと言われれば歩き、隠れろと言われれば息を殺した。
逃げろと言われれば、足が痛くても走った。
そうして、ただ生きた。
生きて、生きて、生き抜いた末に、ようやく俺は王家の人間に見つけられた。
◇
王城へ戻った時、最初に感じたのは懐かしさだった。
その次に、少しだけ怖いと思った。
天井も、廊下も、食卓も何もかもが大きく見えた。
少し前まで明日の食事を心配していたのに、目の前には食べきれないほどの料理が並んでいる。
『殿下……。本当に……よくご無事で……』
俺を見た侍女が、涙を流した。
そして別の者が、涙ぐみながら言った。
『なんてお可哀想に』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にざらつくような感覚が残った。
――可哀想。
それから俺は、何度もその言葉を聞くことになる。
『幼い身で、どれほどお辛かったことでしょう』
『恐ろしかったでしょう』
『もう大丈夫ですから』
皆、優しかった。
本気で俺を心配し、無事に帰ってきたことを喜んでくれていた。
だから俺も、王子として教えられた通りに『ありがとうございます』と答えた。
けれど、そのたびにどこか違和感が残った。
確かに苦しかった。
怖かったし、辛いこともあった。
それでも俺は、必死に考え、逃げ、歩き、耐えて、ここまで生きて帰ってきた。
なのに「可哀想」と言われるたび、あの時間の俺が、何もできず、ただ誰かに助けられるのを待っていた子どものように思えてしまう。
それが、嫌だった。
◇
王城へ戻れば、すべて元通りになるものだと思っていた。
けれど、当然そんなはずはなかった。
俺がいない間にも時間は進み、王太子として学ぶべきことは山ほど増えていた。
同年代の貴族の子どもたちが当然のように知っていることを、俺は知らなかった。
『焦る必要はございません』
『殿下は長く王城を離れておられましたから』
『知らなくても仕方のないことでございます』
教師たちは優しかった。
でもまただ、と思った。
仕方がない。
できなくても仕方がない。
辛いことがあったのだから。
『……もう一度お願いします』
『殿下?』
『今のところを、もう一度教えてください』
できないままでいたくなかった。
過去を理由に、仕方がないと言われ続けたくなかった。
だから、何度でも覚えた。
夜まで本を読み、剣を振り、魔法を練習して、できないことを一つずつできることに変えていった。
そうすればいつか、誰も俺を可哀想だとは言わなくなるような気がした。
◇
レティシアと再会したのは、その頃だった。
婚約者候補として以前から顔を合わせたことはあったが、俺が王城へ戻ってから会うのは初めてだった。
『アルバート様』
プラチナブロンドの髪を揺らしながら、彼女は以前と変わらない様子で俺の名前を呼んだ。
『お久しぶりです』
『……ああ』
その時、俺は少しだけ身構えていた。
レティシアもきっと、他の者たちと同じことを言うのだと思ったからだ。
可哀想に。
大変だったでしょう。
そんな言葉を。
『聞きました』
やはり、と思った。
『王城を離れていらした間のこと』
『……そうか』
どう返せばいいのかは、もう分かっていた。
心配してくれてありがとう。
もう大丈夫だ。
いつものように、そう答えればいい。
『一人で逃げなければならない時もあったのですよね』
『……ああ』
『食べるものがなかった日も?』
『あった』
『怖くありませんでした?』
一瞬、答えに迷った。
いつもなら、大丈夫だったと答えていた。
王太子なのだから。
皆が無事を喜んでくれているのだから、いつまでも怖かったなどと言うものではないような気がしていた。
けれど、なぜかレティシアには正直に答えていた。
『……怖かったよ』
『そうですよね』
彼女はただ頷いた。
可哀想だとは言わなかった。
大変だったでしょう、と慰めることもしなかった。
そのまま少し黙り込んだかと思うと、レティシアは自分の手元へ視線を落とした。
『……私だったら』
『え?』
『もし明日、突然お屋敷から出なければならなくなって、一人で市井に放り出されたら……』
そこで言葉を止め、彼女は本当にその状況を想像しているように眉を寄せた。
『どうすればいいのか、分からないと思います』
『…………』
『食べるものをどうやって手に入れるのかも、どこで眠ればいいのかも、誰を頼ればいいのかも』
そして、少し考えるように目を伏せる。
『……きっと、怖いです』
『…………』
『それを、アルバート様はなさったのですよね』
『……した、のかな』
『したのだと思います』
レティシアは真面目な顔でそう言った。
『だって、生きて戻ってこられたのでしょう?』
『……ああ』
『でしたら』
彼女はまた少しだけ考えてから、ぽつりと呟いた。
『……頑張ったのですね』
『…………』
何を言われたのか、一瞬、分からなかった。
『……何?』
『え?』
『今、何て』
レティシアが不思議そうに瞬きをする。
『頑張ったのですね、と』
もう一度聞いても、やはり胸の奥が大きく揺れた。
可哀想。
辛かったでしょう。
大変だったでしょう。
そうではなかった。
彼女は慰めようとしたわけでも、励まそうとしたわけでもない。
自分だったらどうだろうと考え、俺がしてきたことを想像して、それから、ただそう思ったのだ。
『……どうして』
『はい?』
『どうして、そう思った?』
『どうして、と言われましても……』
レティシアはますます不思議そうな顔をし、困ったように視線を彷徨わせる。
『怖かったのでしょう?』
『……ああ』
『それでも、生きるために考えて、逃げて、ここまで戻ってこられたのでしょう?』
『うん』
『でしたら、頑張ったのだと思います』
あまりにも当然のことのように、彼女は言った。
『少なくとも、私には簡単にできるとは思えません』
『…………』
『ですから……頑張ったのですね』
その瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
それが何だったのか、当時の俺には分からなかった。
ただ初めて、自分があの時間を生きたことそのものを見てもらえたような気がした。
可哀想な子どもではなく、行方不明だった王太子でもない。
怖くても、腹が減っても、生きるために必死だった俺自身を。
『……レティシア』
『はい?』
『ありがとう』
『?』
レティシアは、本当に分かっていない顔をしていた。
きっと彼女にとっては、誰かの人生を変えるような言葉を口にしたつもりなど、少しもなかったのだと思う。
◇
それから、俺はレティシアのことを以前より気にするようになった。
勉強では何でもできるように見えた。
教師に褒められても、『公爵令嬢なのですから、これくらい当然です』と言って、本当にそう思っているようだった。
けれど、ある日。
皆が帰った後の教室で、まだ一人、本を読んでいるレティシアを見つけた。
『まだ帰らないのか?』
『この部分がまだ曖昧なので』
『明日でもいいだろ』
『明日は別の課題があります』
机の上には、何冊もの本が積まれていた。
『いつからやってる?』
『朝からです』
『休んだのか?』
『昼食は取りました』
『そういう意味じゃない』
『?』
本当に分かっていないらしい。
その時、不意に以前彼女から言われた言葉が頭に浮かんだ。
『……頑張ったのですね』
俺にはそう言えたくせに、自分が頑張っていることにはまるで気づいていない。
妙な子だと思った。
それから、気づけば目で追うようになっていた。
何が好きなのか。
何が嫌いなのか。
どんなことで笑い、どういう時に怒るのか。
もっと知りたいと思った。
いつからそれを恋と呼ぶようになったのかは、もう覚えていない。
ただ、気づいた時には、俺の隣にはずっとレティシアがいてほしいと思うようになっていた。
だから、父から婚約者について話をされた時、答えに迷いはなかった。
『レティシアがいいです』
即答した俺に、父は少し驚いたようだった。
『エトワール公爵令嬢を?』
『はい』
『もちろん有力な候補ではあるが、まだ正式に決めたわけではない。他の令嬢とも――』
『必要ありません』
言葉を遮ると、父が目を瞬いた。
『必要ない?』
『俺はレティシアと結婚したいです』
『…………』
『レティシア以外とは結婚しません』
今思えば、王太子が口にするにはあまりにも勝手な言葉だったと思う。
けれど、当時の俺は本気だった。
誰かと結婚しなければならないのなら、レティシアがいい、という程度の気持ちではなかった。
彼女だから、隣にいてほしかった。
『随分とはっきり言うな』
父は呆れたように息を吐いたあと、どこか面白そうに笑った。
『それほど好きなのか?』
『はい』
今度も迷わなかった。
父がどんな顔をしたのかは、もうよく覚えていない。
ただ、その後エトワール公爵家との話が進み、レティシアが正式に俺の婚約者になった時、ひどく嬉しかったことだけは覚えている。
俺にとって、あの婚約は最初から、誰かに決められたものではなかった。
自分で望み、自分で選んだものだった。
――だからこそ。
長い間、気づかなかった。
俺が彼女を選んだことと、彼女が俺を選ぶことは、まったく別の話なのだということに。
◇
そして、気づけば十年が経っていた。
俺は、レティシアのことを誰より知っているつもりだった。
甘いものを食べた時には、ほんの少しだけ目元が緩むこと。
腹が立っている時ほど丁寧な言葉になること。
魔法の話を始めれば、時間を忘れること。
そんな細かなことまで知っているのだから、俺は彼女を分かっているのだと思っていた。
実際、レティシアは何でもできた。
王太子妃教育も、公爵令嬢としての役目も、俺の婚約者でいることも。
だから、大丈夫なのだと思った。
けれど今になって思えば、それはただ、彼女ができていたことを見ていただけだった。
そのためにどれほど努力していたのか。
苦しくなかったのか。
やめたいと思ったことはなかったのか。
一度でも、聞いたことがあっただろうか。
答えは、考えるまでもない。
聞いていない。
いつの間にか、昔、彼女が俺にしてくれたことを、俺は彼女にできなくなっていた。
十年一緒にいるから。
誰より彼女を知っているから。
言わなくても分かると思っていた。
好きだということも。
大切だということも。
ずっと隣にいてほしいということも。
何一つ言葉にしないまま、それでも伝わっているつもりでいた。
本当に、馬鹿だった。
◇
今、治療室のベッドに横になりながら、俺は昨日のレティシアの顔を思い出していた。
『怒っています!』
あんな顔で怒られたのは、いつ以来だろう。
少なくとも、『どうでもいいです』と言われた時よりは、ずっといい。
もう二度と、言わなくても分かるなどとは思わない。
好きなら、好きだと言う。
会いたいなら、会いたいと言う。
来てほしいなら、来てほしいと言う。
断られるのが怖くても、選ばれないかもしれなくても、それでも今度は、彼女自身に選んでもらう。
婚約者だからでも、王太子妃になるからでもない。
レティシア自身の意思で。
そう思った時、遠い昔の彼女の声が蘇った。
『……頑張ったのですね』
あの日、たった一言で、俺は自分が生きてきた時間を認めてもらえたような気がした。
それなのに、十年も彼女のそばにいて、俺は一度でも同じように彼女を見ただろうか。
「…………」
目を閉じる。
答えは、考えるまでもなかった。
昨日、レティシアはまた来ると言った。
だから、もし本当に来てくれるのなら。
今度こそ、ちゃんと彼女を見て、言葉にしよう。
あの日、彼女が俺にしてくれたように。
君も、ずっと頑張ってきたのだと――




