第78話 もう一度、知りたい
治療室へ戻ると、アルバート殿下は変わらず眠っていた。
私はベッド脇の椅子に腰を下ろし、静かな寝顔を眺めながら、先ほどリオンと交わした会話を思い返す。
立場があるからこそ、できることがある。
権限があるからこそ、手の届く場所がある。
旅に出る前の私にとって、王太子妃という立場は、ただ重いだけのものだった。
果たすべき役割ばかりが増え、周囲から求められるものも多くなっていく。
その期待に応えようとするうちに、自分が何を望んでいるのかを考える余裕すらなくなっていた。
けれど、それを誰かに押しつけられた役目としてではなく、自分の意思で選び、自分のために使うのなら。
(……それは、まったく違うものなのかもしれない)
以前なら考えもしなかったことだった。
「姉上」
ルーカスの声に呼ばれ、私は顔を上げる。
「何?」
「また考え込んでいましたね」
「少しだけよ」
「殿下のことですか?」
すぐに答えられなかったせいだろう。
ルーカスが何とも言えない表情を浮かべた。
「何、その顔」
「いえ。何でもありません」
「絶対に何か思ったでしょう」
「姉上もよく仰るではありませんか。何でもない、と」
そう返されてしまえば言い返せない。
私は仕方なく視線を逸らし、その先に横たわるアルバート殿下を見た。
傷はすでに塞がっている。
昨日よりも顔色は良く、治癒術師からも命に別状はないと聞かされている。
それでも、目を閉じたまま動かない姿を見ていると、胸の奥に居座った不安はなかなか消えてくれなかった。
「……本当に、いつ目を覚ますのかしら」
思わず零れた言葉に、ルーカスが静かに答える。
「そればかりは、殿下次第でしょうね」
「そうだけれど……」
目を覚ましたら、きちんと話をしようと思っていた。
アリスのことも、庭園でのことも、私が知らなかった十年間のことも聞きたい。
そして何より、どうしてあそこまでして私を庇ったのか。
『好きだから』
その答えなら、すでに聞いている。
けれど、私はまだ、それを本当の意味では理解できていなかった。
そんなことを考えながらアルバート殿下の顔を見つめていると、閉じられていた瞼がわずかに動いたような気がした。
「……え?」
思わず身を乗り出す。
「アルバート殿下?」
返事はない。
見間違いだったのだろうかと思った、その時だった。
「姉上?」
「今、動いたような……」
言い終えるより先に、アルバート殿下の眉がわずかに寄る。
次の瞬間、ゆっくりと瞼が持ち上がった。
私は一瞬、呼吸をすることさえ忘れた。
「殿下?」
ルーカスもすぐにベッドへ近づく。
アルバート殿下の視線はまだ焦点が定まっておらず、ぼんやりと天井をさまよっていた。
「……ここ、は」
「治療室です。ヴァルガード王城の。お分かりになりますか?」
ルーカスがそう答えると、アルバート殿下は何度か瞬きをした。
「……ルーカス?」
「はい」
まだ意識が完全には戻っていないのだろう。
やがて、しばらくすると視線がゆっくりと動き、私のところで止まった。
「…………レティシア」
「はい」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が妙に強く鳴る。
ようやくそれだけを返すと、アルバート殿下は確かめるようにしばらく私を見つめていた。
そして、目を覚まして最初に口にしたのは、まったく予想していなかった言葉だった。
「……怪我は?」
「…………」
「君は……怪我をしていないか」
思わず目を閉じる。
「……殿下」
「ん……?」
「目を覚まして最初に確認することが、それなのですか?」
アルバート殿下がわずかに目を見開いた。
「だって――」
「だって、ではありません」
自分でも驚くほど強い声が出た。
「姉上、殿下は病人です」
「分かっています!」
「でしたら、もう少し静かに――」
「だって、この方は!」
そこまで言って、私は口を閉ざした。
この人は私を庇って、あれほど血を流したのだ。
背中を赤く染め、倒れたまま一日以上も目を覚まさなかった。
それなのに、ようやく意識を取り戻したと思えば、最初に気にするのは自分の身体ではなく、また私のことだった。
腹が立っているはずなのに、なぜか喉の奥が詰まり、目の奥まで熱くなってくる。
「レティシア?」
アルバート殿下が困惑したように私を見る。
「……怪我はありません」
どうにか声を整えて答える。
「私は、どこも怪我をしていません」
「そう、か……」
アルバート殿下は、心底安堵したように息を吐いた。
その表情を見た瞬間、また抑えきれなくなる。
「どうしてそこで安心なさるのですか!」
「……え?」
「私は無傷です。ですが殿下は、あれほどの傷を負ったのですよ!」
「ああ……」
「ああ、ではありません!」
隣でルーカスが額を押さえているのが見えた。
「姉上……」
けれど今は、それを気にしている余裕などなかった。
そんな私をしばらく見つめていたアルバート殿下が、やがて少し戸惑ったように口を開く。
「……怒ってる?」
「怒っています!」
「そうか」
「なぜ少し嬉しそうなのですか!?」
問い詰めると、アルバート殿下の口元にかすかな笑みが浮かんだ。
本当に、この人は。
「……よかった」
「何がですか」
「君が、こうして俺に怒っていることが」
思わず言葉に詰まる。
アルバート殿下の笑みは弱々しかった。それでも確かに、どこか嬉しそうに見えた。
「前に会った時は……本当に、俺のことなどどうでもよさそうだったから」
その言葉に、自分が口にした言葉が蘇る。
『私、もうあなたのことはどうでもいいんです』
「あれは……」
何かを言おうとして、結局やめた。
あの時は、本当にそう思っていた。
少なくとも、私はそう思っているつもりだった。
「……今も、何かが決まったわけではありません」
ゆっくりそう告げると、アルバート殿下はすぐに頷いた。
「分かってる」
その声には落胆も不満もなかった。
「だから、そんな顔をしなくていい」
「どんな顔ですか」
「今にも泣きそうな顔」
「泣きません」
「そうか」
「……何ですか、その返事は」
「いや。昔からそう言うなと思って」
その何気ない言葉に、昨夜蘇った記憶が重なる。
庭園を走り回り、くだらないことで言い合いをして、それでも最後には二人で笑っていた、幼い頃の記憶。
あの頃は、この人と話すことに理由など必要なかった。
「……殿下」
「ん?」
「お尋ねしたいことがあります」
そう告げると、アルバート殿下の表情がわずかに変わった。
「……何でも聞いてくれ」
「たくさんあります」
「そんなに?」
「あります」
即答すると、アルバート殿下が苦笑する。
「それは……覚悟が必要そうだな」
「当然です」
「分かった」
そう答えたところで、アルバート殿下が小さく息を吐いた。
その顔色がわずかに悪くなったのを見て、私はすぐに眉を寄せる。
「殿下?」
「大丈夫だ」
反射的に睨みつけると、アルバート殿下が慌てたように付け足した。
「……今のは、本当に大丈夫だ」
「信用できません」
「君までそれを言うのか」
「誰のせいですか」
そう返すと、アルバート殿下がまた小さく笑う。
その直後だった。
「はい、そこまでです」
背後から聞こえた声に振り返ると、治癒術師が呆れたような顔で立っていた。
「殿下は目を覚まされたばかりです。長話はお控えください」
「……すみません」
「レティシア様もです」
「私も?」
「特にレティシア様です」
なぜだろう。
横ではルーカスが笑いを堪えている。
「とにかく、本日は安静に。少しずつ水分と食事を摂っていただきます。お話は体調が安定してからにしてください」
「分かりました」
仕方なく頷いた。
確かに、聞きたいことがあるからといって、今すぐすべてを聞かなければならない理由はない。
私はもう、何かに追い立てられるように答えを出す必要はないのだから。
「では、私は一度――」
そう言って椅子から立ち上がろうとした時だった。
「レティシア」
呼び止められて振り返ると、アルバート殿下がまっすぐにこちらを見ていた。
「……何ですか?」
「また、来てくれるか?」
思いがけない問いに、私はわずかに目を見開いた。
けれど、答えるより先にアルバート殿下が自ら首を振る。
「……いや。違うな」
「え?」
殿下は少し考えるように目を伏せ、それから改めて私を見た。
「俺は、また君に来てほしい。……君と話がしたい」
今度は、先ほどまでの迷いがなかった。
私はその言葉を聞きながら、少しだけ驚いていた。
以前のこの人なら、自分の望みをこんなふうに口にしただろうか。
私が来ることを当然だと思っていたのか、それとも、来てほしいと願っていながら何も言わずに待っていたのか。
どちらだったのかは分からない。
けれど、少なくとも今のアルバート殿下は、自分がどうしたいのかを言葉にして私へ伝えようとしていた。
「ただ……君が来たくないなら、無理にとは言わない」
私は思わず小さく笑った。
「何だ?」
「いえ」
本当に、不器用な人だ。
けれど以前とは、少し違う。
「来ます」
「……え?」
「また来ます。私も、殿下にお尋ねしたいことがありますから」
アルバート殿下は少し驚いたように私を見つめ、それからゆっくりと表情を緩めた。
「…………そうか」
安堵したような微笑みを見つめると、胸の奥がまた小さくざわついた。
私はまだ、この感情が何なのか分からない。
けれど今は、この人のことをもう一度知りたいと思っている。
私自身が、そう思ったのだ。
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