第76話 私の知らなかった十年間
アンナが落ち着きを取り戻した頃には、窓の外は徐々に暗くなり始めていた。
アルバート殿下は、まだ眠っている。
治癒術師によれば、傷そのものに問題はないらしい。
出血と魔力の消耗で身体に大きな負担がかかっているため、今は休息を必要としているのだろうということだった。
それでも私は、何度もベッドへ視線を向けてしまう。
「……姉上」
不意に声を掛けられ、顔を上げると、少し離れた場所にいたルーカスがこちらを見ていた。
「何?」
「少し、お話ししてもよろしいですか?」
「ええ」
そう答えると、ルーカスはすぐには口を開かなかった。
何か言いづらいことでもあるのだろうかと思い、私は黙って彼の言葉を待つ。
「……殿下のことです」
「アルバート殿下?」
「はい」
ルーカスの視線が、眠っているアルバート殿下へ向けられる。
「姉上は、アリス・フールのことをどこまでご存じですか?」
「……アリス?」
思いがけない名前に、わずかに眉を寄せた。
そういえば、先ほどファルケン侯爵もアリスの名前を口にしていた。
「さっき、ファルケン侯爵が何か言っていたけれど……アリスも今回のことに関わっていたの?」
「はい。フィオーレの情報をファルケン侯爵へ流していたようです」
「……そうなの」
「アリスは、姉上が王都を出たあと、国家反逆罪で捕らえられています」
「そうだったのね……」
私が知らなかっただけで、フィオーレでもすでに事態は動いていたらしい。
「ですが、アリスについては、それ以前から調べられていました」
「それ以前から?」
「はい。もともと、殿下はアリスを警戒していました」
「…………え? 警戒……?」
「はい。最初に会った頃から、アリスが姉上を見る目がおかしいと気づいていたそうです」
「私を?」
「邪魔者を見るような目だった、と」
思い当たることは何もなかった。
そもそも私は、アリスとまともに話した記憶すらほとんどない。
「それだけではありません。アリスは僕やエドガー、ダリルにも妙に積極的に近づいてきました。それで殿下は、彼女について調べることにしたそうです」
「そうだったの……」
「はい。僕たちにも、彼女を拒絶しないよう命じていました」
「……拒絶しないように?」
「警戒されれば、何を目的に近づいてきているのか分からなくなりますから」
胸の奥で、何かが引っかかった。
「では……」
「泳がせていたんです」
ルーカスは、はっきりと言った。
「アリスが誰と繋がっているのか。何をしようとしているのか。それを調べるために」
「…………」
私は何も知らなかった。
アルバート殿下がアリスを警戒していたことも。
そのために彼女を近くに置いていたことも。
「姉上がいなくなったあと、殿下が王都に残った理由の一つも、アリスのことだったようです」
「……アリス?」
「はい。僕には姉上を捜すよう命じ、自分は王都に残ってアリスの周辺を調べていました。放置したまま姉上を追えば、また何をされるか分からない、と」
「私に……?」
「はい」
ルーカスは少し迷うように視線を伏せてから、さらに続けた。
「姉上の王妃教育で使う教材がなくなったことはありませんでしたか?」
「……あったわ」
一度だけではない。
確かに、何度かあった。
私はずっと、自分がどこかへ置き忘れたのだと思っていた。
「茶会の時間を間違って伝えられたことは?」
「…………あったわ」
それも覚えている。
幸い、別の侍女が気づいたため遅刻はしなかった。
けれど、あの時も私は、ただ自分の確認が足りなかったのだと思っていた。
「まさか……」
「調べたところ、どちらにもアリスが関わっていた形跡があったそうです」
「…………」
「アンナにも接触しようとしていた形跡がありました」
「アンナにまで?」
「はい。殿下はそれを知って、かなり怒っていました」
私は、静かに眠るアルバート殿下を見つめた。
その横顔は、何も答えてくれない。
アリスを警戒していた。
私の周囲で起きていたことも調べていた。
それなら――
「……私、見たことがあるの」
「何をですか?」
「アルバート殿下と、アリスが一緒にいるところを」
「……いつです?」
「私が屋敷を出る前。王城の庭園で」
あの日。
二人は並んで、楽しそうに笑っていた。
私には向けられたことのないような笑顔で。
それを見た瞬間、張り詰めていた何かが切れた。
「殿下は、笑っていたわ。だから私は……アリスと一緒にいたかったのだと思っていたの」
「…………」
ルーカスはしばらく何も言わなかった。
「姉上。それを、殿下には?」
「言っていないわ」
「……では、殿下は姉上が見ていたことをご存じないのですね」
「ええ」
ルーカスが小さく息を吐いた。
「……そうでしたか」
「何?」
「いえ。ただ……少なくとも、殿下がアリスと親しくなりたくて近くに置いていたわけではありません」
「…………」
「先ほど申し上げた通りです。殿下は最初から、アリスを警戒していました」
私はもう一度、眠っているアルバート殿下を見る。
「でも……笑っていたわ」
「おそらく、警戒していることを悟られないためでしょう。僕たちにも拒絶するなと命じていたくらいですから」
「…………」
「殿下は、アリスが近づくこと自体をかなり嫌がっていましたから」
「嫌がって……?」
「ええ」
ルーカスは、何とも言えない表情になった。
「姉上以外の女性に触れられそうになるたび、後からものすごく機嫌が悪くなっていました」
「…………」
「それでも拒絶するなと言ったのは殿下自身ですからね。自業自得ですけど」
それは、そうなのかもしれない。
けれど、私が知っているあの日と、今ルーカスから聞いているアルバート殿下の姿が、あまりにも違っている。
「……その日のことについては、僕にも分かりません」
ルーカスが静かに続けた。
「殿下自身が、姉上に見られたことをご存じないのなら。なぜあの時庭園にいたのかも、何を話していたのかも、本人に聞くしかないと思います」
「……そうね」
私は眠っているアルバート殿下を見る。
「……どうして、何も言わなかったのかしら?」
アリスを警戒していたことも。
彼女を調べていたことも。
私の周囲で起きていたことに気づいていたことも。
何一つ、知らされていなかった。
「それは……殿下に聞いてください」
「…………」
「僕が勝手に話したことも、怒られるかもしれません」
「だったら、どうして話したの?」
「姉上が知らないままなのは、違うと思ったからです」
ルーカスは、真っ直ぐに私を見た。
「殿下は、たぶん自分からは言いません」
「……どうして?」
「それを話して、姉上に戻ってきてほしいと思っているように聞こえるのが嫌なのではないでしょうか」
「…………」
昨日のアルバート殿下の言葉を思い出す。
『俺がどういうつもりだったとしても、君を傷つけたことはなかったことにはできない』
あの人は、私が庭園で二人を見ていたことを知らない。
それでも、私がアリスのことで傷ついていたことには気づいていたのだろう。
けれど、何も言わなかった。
アリスを警戒していたとも。
彼女を好きだったわけではないとも。
ただ、自分が私を傷つけたことだけを認めた。
「――あの人、本当に何も言わなかったのですね」
「……はい」
小さく呟くと、ルーカスが静かに頷いた。
だからといって、あの十年間がなくなるわけではない。
私が苦しかったことも。
一人で頑張っていると思っていたことも。
あの日、庭園で二人を見て傷ついたことも。
何一つ、なかったことにはならない。
アルバート殿下が何を考えていたとしても、私には何も伝わっていなかったのだから。
けれど、もう一度、眠るアルバート殿下へ視線を向ける。
昨日、好きだと言われた。
今日、私を庇って死にかけた。
そして今、私は自分の知らなかった十年間を、少しだけ知った。
(……私は)
本当に、この人のことを何も知らなかったのかもしれない。
そう思った瞬間、ずっと昔の光景が不意に脳裏をよぎった。
まだ私たちが幼かった頃。
王妃教育も始まったばかりで、今ほど毎日が忙しくなる前のことだ。
『アルバート様!』
幼い私が、庭園を走っている。
『レティシア、走ったら怒られるぞ』
『アルバート様だって走っているじゃないですか!』
『俺はいいんだ』
『ずるいです!』
そんなことで言い合いをして、最後には二人で笑った。
「…………」
忘れていた。
いや、本当に忘れていたのだろうか。
記憶そのものがなくなっていたわけではない。
ただ、思い出すことがなかったのだ。
いつからだろう。
アルバート殿下の隣に立つことが「楽しい」ではなく「役目」になったのは。
いつから、笑い合った記憶よりも、言葉を交わさなくなった日々ばかりを思い出すようになったのだろう。
分からない。
ただ、気づけば私は、あの人に愛されていなかった十年間として、すべてをまとめてしまっていた。
「姉上?」
「……何でもないわ」
私は首を横へ振った。
違う。
だからといって、何かが変わったわけではない。
あの頃に戻りたいわけでもない。
戻れるとも思っていない。
私が屋敷を出たことを後悔しているわけでもなかった。
旅に出て、アンナといろいろな場所へ行き、リオンと出会い、自分の知らなかった世界を見た。
そのすべてをなかったことにしてまで、昔へ戻りたいとは思わない。
けれど。
アルバート殿下との十年間もまた、私が思っていたものだけではなかったのかもしれない。
「…………」
私はそっと、ベッドのそばへ近づいた。
眠るアルバート殿下の手が、視界に入る。
昨日までなら、触れようとは思わなかったはずだ。
けれど今日は、あの手が私を抱き寄せた感覚を、まだ覚えている。
血に濡れた手も。
弱くなっていった呼吸も。
私に怪我がないと知って、安堵した声も。
『そう、か……よかった』
「…………」
胸の奥が、またざわついた。
それが何なのかは、まだ分からない。
分からないままでいい。
今すぐ答えを出す必要などない。
私はもう、誰かに決められた答えを選ぶつもりはないのだから。
ただ、もう一度だけアルバート殿下を見る。
(……目が覚めたら)
聞いてみよう。
アリスのことを。
あの日の庭園のことを。
そして、私の知らなかった十年間のことを。
今度はきちんと、私自身が聞いてみようと思った。




