第75話 私が選んだのは
アルバート殿下が運び込まれたのは、王城の一角に設けられた治療室だった。
担架が室内に入ると、待機していた治癒術師たちが一斉に動き始める。
「こちらへ」
「魔力回復薬を」
「傷は背中です。すでに治癒魔法が施されています」
次々と飛び交う指示を聞きながら、私は治療の妨げにならないよう、少し離れた場所へ身を引いた。
アルバート殿下の礼装は、背中だけでなく肩口まで赤く染まっている。
傷は塞いだ。
黒い魔力も浄化した。
それでも、目を閉じたまま動かない姿を見つめていると、胸の奥はいつまで経っても落ち着かなかった。
「……お嬢様」
隣から声を掛けられ、私は顔を上げた。
アンナが心配そうにこちらを見ている。
「大丈夫よ」
「…………」
「……何?」
「先ほど、ルーカス様にも同じことを仰っておられましたね」
「…………」
どうやら、アンナにも信用してもらえないらしい。
そんなことを考えていると、一人の治癒術師がこちらへ歩いてきた。
「レティシア様」
「はい」
「王太子殿下の傷ですが、適切な治癒が施されております。出血も止まっており、現時点で命に関わる状態ではございません」
「……そう、ですか」
その言葉を聞いた途端、身体から力が抜けそうになった。
「ただ、かなりの魔力を消耗されております。しばらくは安静が必要でしょう」
「意識は?」
「現在は眠っておられるような状態です。出血と魔力の消耗でかなりお身体に負担がかかっておりますが、回復すればいずれお目覚めになるかと」
いずれ。
その言葉に、私はようやく詰めていた息を吐き出した。
「ありがとうございます」
「いいえ。むしろ、ここまで適切な処置を施していただいたおかげです」
治癒術師はそう告げると、再びアルバート殿下のもとへ戻っていった。
「……よかった」
今度こそ、本当に。
視線を向けると、アルバート殿下は変わらず眠っている。
生きている。
もう、あの黒い魔力も残っていない。
そう分かっているのに、私はしばらくその場から動くことができなかった。
◇
「姉上」
どれほどそうしていたのだろう。
声を掛けられて振り返ると、ルーカスが部屋へ入ってきた。
「ファルケン侯爵の拘束は完了しました。現在、ヴァルガード側で事情を確認しています」
「そう」
「地下格闘場にいた方々も、今のところ重篤な症状は出ていません。生命力を奪う術式も完全に消失したそうです」
「……よかった」
また同じ言葉が零れた。
ルーカスは私を見つめ、それからベッドに眠るアルバート殿下へ視線を向けた。
「殿下は?」
「命に別状はないそうよ。魔力が回復すれば目を覚ますだろうって」
「そうですか」
ルーカスも小さく息を吐いた。
その顔を見ているうちに、ようやく本当に終わったのだという実感が湧いてくる。
ファルケン侯爵は捕らえられた。
術式も消えた。
アルバート殿下も助かる。
なら、もう大丈夫だ。
そう思ったところで、ふと先ほどの光景が頭をよぎった。
「…………」
私は視線を動かした。
少し離れた場所では、アンナが治癒術師から何かを聞いている。
「アンナ」
「はい。どうかなさいましたか?」
「…………」
呼ぶと、アンナはすぐにこちらへ来た。
いつものアンナだ。
穏やかな表情に、落ち着いた声。
十年間、ずっとそばにいた私の侍女。
けれど。
『――アンナ殿?』
先ほどの近衛の声が、鮮明に蘇った。
「……アンナ」
「はい」
「さっきの人、誰?」
その瞬間、アンナの表情がほんのわずかに止まった。
「フィオーレの近衛の方です」
「それは分かっているわ」
思わずそう答えると、ルーカスが小さく咳払いをした。
「姉上。おそらくアンナは、そういう意味で答えたわけではないかと」
「?」
どういう意味だろう。
私がアンナを見ると、彼女は少し困ったように目を伏せていた。
「……申し訳ございません」
「どうして謝るの?」
「お嬢様に、お話ししていなかったことがございます」
「私に?」
「――はい」
短く答えたあと、アンナは黙り込んだ。
珍しいことだった。
アンナが言葉に迷っているところなど、私はほとんど見たことがない。
やがて、アンナは静かに口を開いた。
「私はもともと、王家よりお嬢様のもとへ遣わされた者でございます」
「…………え?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「王家から?」
「はい」
アンナが私の侍女になったのは、私がアルバート殿下の婚約者となって間もない頃だった。
けれど私は、てっきりエトワール公爵家が選んだ侍女なのだと思っていた。
「どうして王家が?」
「お嬢様は、将来王太子妃となられる方でしたから。身の回りのお世話だけではなく、護衛や毒物への対処、緊急時の対応など、王族に近しい方へ仕えるための教育を受けた者が必要だと判断されたのでしょう」
「…………」
思い当たることが多すぎた。
『……私も多少は剣を扱えます』
以前、アンナは確かにそう言っていた。
多少。
「……アンナ」
「はい」
「多少って言ってなかった?」
「……多少でございます」
「…………」
本当だろうか。
少なくとも、私が考えていた「多少」とは、随分違う気がする。
「護衛の訓練まで受けていたのね……」
「王族に近しい方へお仕えする以上、必要なことでしたので」
「…………」
それを『多少』で済ませていたのか。
アンナの言う『多少』は、今後もう少し疑ってかかった方がいいのかもしれない。
けれど、そんなことを考えていられたのも、そこまでだった。
「……では、姉上が屋敷を出た時も?」
「……はい」
ルーカスの声に、アンナの表情が変わる。
今度の返事には、少しだけ重さがあった。
「本来であれば、すぐに王家へお知らせするべきでした」
「…………」
「お嬢様が王太子殿下の婚約者である以上、その所在を王家へ報告することも、私に与えられた役目の一つでした」
「……どうして、知らせなかったの?」
アンナが私を見る。
その瞳は、いつもと変わらず穏やかだった。
「お嬢様が、初めてご自分のために何かを選ばれたからです」
「……え?」
「あの日のお嬢様は、王太子殿下の婚約者としてではなく、レティシア様として生きようとなさっていました。私は、ずっとお嬢様のおそばにおりました」
王妃教育を受ける日も。
夜遅くまで机へ向かう日も。
疲れているのに、それを口にすることなく笑っていた日も。
アンナは、すべてを見ていた。
「王太子妃として相応しい方かを見定めることも、最初は私の役目の一つでございました」
「…………」
「ですが、いつからでしょう」
アンナの口元に、ごく小さな笑みが浮かぶ。
「そんなことは、どうでもよくなっておりました」
「これほど努力を重ね、誰より周囲を気遣い、それでもご自分が足りないのだと思っていらっしゃる方を、役目だからという理由だけでお支えしていたわけではございません」
「アンナ………」
「ですから、あの夜、お嬢様が屋敷を出ようとなさっていることに気づいた時、私は――ようやくご自分のために生きることを選ばれたのだと思いました」
あの日。
誰にも告げず、一人で屋敷を出るつもりだった私を、アンナは裏口で待っていた。
『私を、置いていくつもりだったのですね』
『……巻き込みたくなかったの』
そう答えた私に、アンナは言ったのだ。
『私の主人は、エトワール公爵家ではございません――お嬢様です』
あの時は、ただ嬉しかった。
ずっとそばにいてくれたアンナが、それでも私と一緒に来てくれることが。
けれど。
「でも……それなら、アンナは……」
「はい。本来の役目を放棄いたしました」
あまりにも静かに告げられ、私は言葉を失った。
「王家よりお嬢様のもとへ遣わされた以上、私はあの日のことを報告するべきでした。ですが、しませんでした」
「どうして……」
同じ問いを繰り返す。
するとアンナは、少しだけ困ったように笑った。
「申し上げれば、お嬢様は私を連れていかなかったでしょう?」
「…………」
否定できなかった。
あの時でさえ、私はアンナを巻き込みたくなくて、一人で屋敷を出ようとしていたのだ。
もしアンナが王家から遣わされた者であり、私についてくることが与えられた役目に背くことになると知っていたなら。
きっと私は、なおさら一緒に来てほしいとは言えなかった。
「だから言わなかったの?」
「はい」
「そんな……」
「後悔はしておりません」
アンナは、はっきりとした声で答えた。
そして、アンナは真っ直ぐに私を見た。
「最初に私をお嬢様のもとへ遣わしたのは王家です。ですが、あの日、お嬢様と共に屋敷を出ると決めたのは私です」
「…………」
「あの時、私が選んだのは王家ではなく、お嬢様でしたから」
胸の奥に、何かが落ちた。
――私が選んだ。
アンナはそう言った。
誰かに命じられたからではない。
王家から与えられた役目でもない。
そう告げたあと、アンナは深く頭を下げた。
「……申し訳ございません」
「どうして謝るの?」
「お嬢様に、ずっと黙っておりました」
その声が、ほんの少しだけ震えているように聞こえた。
「私がお嬢様のおそばへ参った理由も。王家より与えられていた役目も。何一つ、お話ししておりませんでした」
「…………」
「お嬢様を欺くつもりはございませんでした。ですが、結果として私は――」
「アンナ」
私はその言葉を遮った。
アンナが顔を上げる。
「確かに、黙っていたことは褒められないわ」
「……はい」
「私、今かなり驚いているもの」
「申し訳――」
「だから謝らないで。最初に王家から遣わされたことと、今のアンナが私のそばにいることは、別でしょう?」
「……お嬢様」
「だって、屋敷を出た時、一緒に来てくれたのはアンナでしょう?」
「……はい」
「旅をしている間、ずっと私のそばにいてくれたのも?」
「はい」
「私が無茶をするたびに怒ってくれたのも」
「それは今後も申し上げるつもりでございます」
「…………」
そこは変わらないらしい。
思わず小さく息を吐くと、アンナの表情がほんの少しだけ緩んだ。
けれど、すぐにまた俯いてしまう。
「それでも……もし、お嬢様がお望みであれば私は、二度とお嬢様の前には――」
「何を言っているの?」
思ったより強い声が出た。
アンナが目を見開く。
「どうしてそうなるの?」
「ですが、私は――」
「アンナが王家から遣わされた人だったからって、今までのことが全部なくなるわけではないでしょう?」
「…………」
「それに」
そう言いながら、自分でも不思議に思った。
そんなことは、考えたことすらなかった。
「アンナがいないなんて、考えたこともなかったわ」
「…………」
アンナが固まった。
「アンナ?」
返事がない。
どうしたのだろうと思った瞬間、その瞳から一筋だけ涙が零れた。
「……え? アンナ?」
「……申し訳、ございません」
今度は私が固まる番だった。
アンナが慌てて目元を拭う。
けれど、次から次へと涙が溢れ、まったく追いついていない。
「ちょっと、どうしたの?」
「……少々」
「少々?」
「安心、いたしました」
震える声でそう答える。
私はどうすればいいのか分からず、しばらくアンナを見つめた。
アンナが泣いているところなど、初めて見た。
どんな時でも冷静で、何でもできて。
私が困れば、いつだって当たり前のようにそばにいてくれた。
そんなアンナが、今は子どものように涙を零している。
私はそっと、その手を握った。
「……アンナ。私は、どこにも行けなんて言わないわ」
「……はい」
「これからも、そばにいてくれる?」
アンナは涙を拭いながら、それでもいつものように深く頭を下げた。
「もちろんでございます」
その声を聞いて、私はようやく笑った。
最初がどうだったのかなんて、もう関係ない。
王家から遣わされた侍女だったとしても、あの日私と一緒に旅へ出ることを選んだのは、アンナ自身だった。
そして今、アンナにそばにいてほしいと思っているのは、私自身だ。
それだけで、十分だった。




