第74話 違和感
「――レティ! そいつを頼む!」
リオンの声が響くのと同時に、鋭い金属音が地下格技場を震わせた。
剣を受け止めた黒い魔力が弾け、床へ落ちた雫のように散っていく。
ファルケン侯爵は小さく舌打ちすると、一歩後退した。
「……厄介だな」
低く呟いた侯爵の視線が、一瞬だけこちらへ向けられる。
私は反射的にアルバート殿下を庇うように身を寄せた。
その動きを見た侯爵の口元が、わずかに歪む。
「白銀の魔女さえ排除すれば、まだ対処できると思ったのだがな」
「そうはさせない」
リオンが剣を構え直す。
その身体から放たれる魔力に、周囲の空気が震えた。
「お前の相手は俺だ」
「殿下自らとは、光栄なことだ」
「それなら、ありがたく捕まっていろ」
次の瞬間、リオンが床を蹴った。
あまりにも速い。
ファルケン侯爵が黒い魔力を放つより早く距離を詰め、剣を振り抜く。
黒い光と刃がぶつかり合い、激しい音が地下格技場に響き渡った。
「姉上」
すぐそばから聞こえた声に顔を向けると、ルーカスがアルバート殿下の状態を確認しながら、険しい表情を浮かべていた。
「殿下の浄化魔法が弱まっています」
「……え?」
慌てて傷へ視線を戻す。
塞がれた傷口の奥で、アルバート殿下自身の淡い光に抑え込まれていた黒い魔力が、ほんのわずかに蠢いていた。
「……っ」
このままではいけない。
アルバート殿下に、これ以上魔力を使わせるわけにはいかない。
けれど、私が浄化すれば――
そこまで考えたところで、私は顔を上げた。
ファルケン侯爵が放った黒い魔力。
地下格技場を覆う術式。
そして、そのすべてに共通する魔力の流れ。
(……待って)
先ほどは気づかなかった。
アルバート殿下の身体の中にあるものへ直接浄化を流すことが怖くて、そこまで考えられなかったのだ。
けれど、ファルケン侯爵から放たれた黒い魔力も、床を覆う術式と同じ流れに繋がっている。
そして、あの術式はすでに壊れている。
私の浄化を別の場所へ流していた経路は、アルバート殿下と二人で断ち切った。
なら――
「ルーカス」
「はい」
「殿下をお願いします」
「姉上?」
アルバート殿下の身体をルーカスへ預け、私はゆっくりと立ち上がった。
足には力が入りづらく、手もまだ少し震えている。
それでも、このままではアルバート殿下を完全に治すことができない。
「……終わらせます」
ファルケン侯爵へ視線を向ける。
ちょうどリオンの剣を避けた侯爵が、大きく後方へ跳んだところだった。
その足元から、黒い魔力が床を這うように広がっていく。
「リオンさん!」
「あ?」
「そこから離れてください!」
リオンは理由を尋ねなかった。
すぐさま床を蹴り、距離を取る。
私は両手を前へ向けた。
すると、白銀の光が静かに広がっていく。
「またそれか」
ファルケン侯爵の顔から、初めて余裕が消えた。
黒い魔力が一斉にこちらへ伸びてくる。
けれど、もう恐れる必要はない。
「もう、その術式は使えません」
光を放つ。
黒い魔力に触れた瞬間、白銀の光が勢いよく広がった。
床を這っていた黒い線が、一つ、また一つと消えていく。
「な――」
ファルケン侯爵が息を呑んだ。
地下格技場だけではない。
ここへ繋がるすべての術式へ魔力を流していく。
どれほど複雑に隠されていても、一度その流れを掴んでしまえば、辿ることができる。
黒い魔力が、次々と白銀へ塗り替えられていった。
「やめろ!」
ファルケン侯爵が初めて声を荒らげる。
その身体から黒い光が溢れ出したが、それさえ白銀の光に触れるそばから消えていく。
「貴様……!」
侯爵がこちらへ踏み出した。
その瞬間、侯爵の背後から鋭い声が飛んだ。
「どこを見ている」
「――っ!」
鈍い音が響いた。
リオンの剣の柄が、ファルケン侯爵の腹部へ深くめり込む。
身体が折れたところへさらに足を払われ、侯爵は床へ叩きつけられた。
「ぐっ……!」
リオンはすぐさま侯爵の腕を捻り上げる。
「ルーカス!」
「はい!」
ルーカスが片手を上げると、光の拘束具が現れ、ファルケン侯爵の両腕へ絡みついた。
「離せ……!」
「お断りします。姉上と殿下にあれだけのことをしておいて、逃げられると思わないでください」
「……俺も加えてくれよ」
「あなたは無傷でしょう」
「そういう問題か?」
二人のやり取りを聞きながら、私は大きく息を吐いた。
――終わった。
そう思った途端、身体から力が抜けそうになる。
「姉上!」
「大丈夫」
反射的に答えてから、私は口を閉じた。ルーカスの顔が、あからさまに険しくなる。
「……その言葉は信用しません」
「…………」
少し前にも、同じようなことを言われた気がする。
けれど今は、それに答えている場合ではない。
私は再びアルバート殿下のそばへ膝をついた。
「殿下……」
呼びかけても返事はない。
傷口の奥には、まだ黒い魔力が残っている。
けれど、先ほどとは違う。
もう迷う必要はなかった。
そっと手をかざし、浄化の魔力を流す。
白銀の光がアルバート殿下の身体を包み込んだ。
黒い糸のような魔力が、抵抗するように揺れる。それでも今度は、どこかへ流されることはなかった。
一つ。また一つと、黒いものが消えていく。
最後の一筋が消えたところで、ようやく息を吐いた。
「……消えたわ。これなら、あとは治癒術師に診てもらえば――」
「お嬢様!」
ルーカスも安堵したように頷いたところで、聞き慣れた声が響いた。
「……アンナ?」
思わず振り返ると、地下格技場へ続く入口から、アンナがこちらへ駆けてきた。
いつもほとんど表情を崩さないアンナが、珍しく息を切らしている。
「お嬢様!」
私の前まで来るなり、アンナの視線が全身を走った。
「お怪我はございませんか?」
「ええ。私は――」
言いかけたところで、視線が自然とアルバート殿下へ落ちる。
「……ないわ」
アンナも私の視線を追った。
床に横たわるアルバート殿下を見た瞬間、その表情が止まる。
「……王太子殿下」
「私を庇って……」
「…………」
アンナは何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ目を伏せると、すぐにアルバート殿下のそばへ膝をついた。
「傷はどうなってますか?」
「応急処置の治癒はしたの。でも黒い魔力が入り込んでいて……今、浄化を終えたところよ」
「意識はありますか?」
「ないわ」
「呼吸はございますね。脈は?」
「弱いけどあるわ」
そこまで答えたところで、私はふと違和感を覚えた。
アンナは迷いなくアルバート殿下の首元へ指を添え、次に瞼を持ち上げる。
それから傷の位置を確認すると、身体を動かさないようルーカスへ指示した。
「ルーカス様、恐れ入ります。そのまま殿下の肩を支えていただけますか。傷は塞がっておりますが、今は不用意に動かさない方がよろしいかと」
「……分かった」
「王族付きの治癒術師を。可能であれば複数名。殿下は魔力もかなり消耗されているようですので、魔力回復薬もご用意ください」
「分かった。すぐ手配する」
ルーカスが答えてから、ふとアンナを見る。
「……アンナ」
「はい?」
「いや……」
ルーカスは何か言いたげだったけれど、それ以上は口にしなかった。
私も少しだけ首を傾げる。
アンナは昔から何でもできる。
だから、これくらいのことは――
「おい」
今度はリオンの声が飛んできた。
ファルケン侯爵を兵へ引き渡しながら、こちらを見ている。
「アンナ、どうしてここへ?」
「王城で騒ぎが起きたと聞きましたので」
「でも、どうやってここまで来たの?」
昨夜から警備は強化されていた。
まして、これほどの騒ぎが起きた直後だ。
アンナは一瞬だけ黙った。
「……少々、時間はかかりました」
「そうなの?」
「はい」
それだけ答えると、アンナは再びアルバート殿下へ視線を戻した。
けれど、そのときだった。
「――アンナ殿?」
入口から聞こえた声に、アンナの動きが止まった。
振り返ると、そこには騒ぎを聞きつけて駆けつけたらしいフィオーレの近衛たちが立っていた。
そのうちの一人が、信じられないものを見るような顔でアンナを見つめている。
「……やはり、アンナ殿ではありませんか」
「…………」
アンナはゆっくりと立ち上がった。
そして、いつもと変わらない穏やかな表情で静かに頭を下げる。
「……お久しぶりでございます」
「なぜ、あなたがここに……?」
「?」
私はアンナと近衛を交互に見た。いったい、どういうことだろう。
「アンナ、知り合いなの?」
「……昔、少々」
「少々って――」
「お嬢様」
私の言葉を遮るように、アンナがこちらを見る。
その表情は、いつものアンナだった。
「今は王太子殿下をお運びすることが先かと」
「……そうね」
確かにその通りだ。
疑問は残ったけれど、今はアルバート殿下の方が重要だった。
近衛たちもすぐに動き始める。
担架が運び込まれ、アルバート殿下の身体が慎重に乗せられていった。
その間も私は、殿下のそばを離れることができなかった。
「お嬢様」
アンナの声に顔を上げる。
「私はここにおります」
「…………」
「ですから、大丈夫です」
いつもと同じ声だった。
何度も聞いてきた、穏やかな声。
「……ええ」
小さく頷く。
担架が運び出されていく。
私もそのあとを追おうとして――ふと振り返った。
アンナはもう一度、先ほどの近衛と視線を交わしていた。
近衛の表情は険しい。
対するアンナは、ただ静かにその視線を受け止めている。
その顔がなぜか、私の知っている『侍女のアンナ』とは、ほんの少しだけ違って見えた。
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