第73話 分かってしまった
「…………え?」
頭が、目の前の現実を理解することを拒んだ。
掌に付着した赤いものを見つめる。
それが血であることも、誰の血なのかも、本当は考えるまでもない。
それなのに、どうしてか思考がそこで止まってしまう。
「……レティシア」
掠れた声に顔を上げると、アルバート殿下がすぐ近くにいた。
先ほどまで私を強く抱え込んでいた腕は、もうほとんど力を失っている。
それでも殿下は私の顔を確かめるように見つめ、途切れがちな息の合間に口を開いた。
「怪我、は……」
「え……?」
「君は……」
一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。
怪我。
私のことを聞いているのだと、少し遅れて気づく。
自分の身体へ意識を向けてみても、どこにも痛みはない。
あれほどの衝撃を受けたはずなのに、アルバート殿下の腕の中にいた私には、本当に何ひとつ傷がなかった。
「……ありません」
「そう、か……よかった」
その答えを聞いた殿下は、かすかに息を吐いた。
――どうして。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが強く弾けた。
「……何がですか。……何が、よかったのですか」
自分でも驚くほど低い声が出た。
けれど、アルバート殿下が答えるより早く、その身体からさらに力が抜ける。
「殿下!」
咄嗟に身体を支え、そのまま床へ座らせる。
「大丈夫か!」
「殿下!」
リオンとルーカスの声が聞こえたけれど、そちらを見る余裕はなかった。
身体を支えたことで、ようやく傷が見えた。
背中の礼装が大きく裂け、その下から血が溢れている。
先ほど掌についたものなど比べものにならないほどの赤が、見る間にも礼装を濡らしていた。
息が止まる。
深い――そう理解した瞬間、身体が勝手に動いた。
「……治癒を――」
傷へ手をかざし、魔力を集める。
いつも通りにすればいい。
傷の状態を見て、必要な場所へ魔力を流す。
それだけのことだ。
私は魔法が使える。
治癒魔法だって、これまで何度も使ってきた。
なのに。
「……っ」
掌に集めた白銀の光が、不安定に揺らいだ。
(何をしているの)
集中しなければ。
傷は深く、血も流れ続けている。
こんなところで失敗している場合ではない。
もう一度魔力を集めようとして、ようやく気づいた。
自分の手が、震えていた。
「どうして……」
止めようとしても、指先の震えが収まらない。
どうして。
どうして、この人がこんな怪我をしているの。
「……どうして、こんなことをしたのですか」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
返事はすぐにはなかった。
「私なら防げたかもしれません。避けることだってできたかもしれない。それなのに、どうして殿下が――」
「……昨日、言っただろう」
「え……?」
掠れた声に、思わず顔を上げる。
アルバート殿下は苦しそうに息をしながら、それでも私を見ていた。
「君のことが……好きだと」
「…………」
確かに聞いた。
昨日、この人の口から。
ずっと好きだったと。
幼い頃から、私だけだったと。
あの時は驚いた。
けれど、それだけだった。
私の中ではもう終わってしまったことだったから。
殿下が誰を好きなのかも、誰と結婚するのかも、私にはもう関係がない。
だから、アルバート殿下が私を好きだということも、ただ彼の気持ちとして受け止めただけだった。
「だからって……! だからって、こんなことをするのですか! 自分の命を何だと思っているのですか!」
けれど、返事はなかった。
先ほどまで私を見ていたアルバート殿下の瞼が、ゆっくりと落ちていく。
「……アルバート殿下?」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「殿下!」
呼びかけると、ほんのわずかに瞼が動いた。
意識はある。
けれど、もう言葉を返すだけの余力もないらしい。
「……っ」
私は震える手を傷へかざし、もう一度治癒の魔力を流した。
白銀の光が、血に濡れた背中を覆っていく。
(好きだから……?)
先ほどの言葉が、頭から離れなかった。
昨日、確かに聞いた。
アルバート殿下は私のことが好きなのだと。
ずっと好きだったのだと。
けれど、あの時の私は驚いただけだった。
昔の私なら、きっと泣いて喜んだのだろう。
けれど今の私には、もう関係のないことだと思っていた。
だから「好きだ」と言われたことも、ただアルバート殿下の中にある気持ちとして受け止めただけだった。
それ以上、深く考えようとはしなかった。
けれど、目の前には、私を庇って傷ついたアルバート殿下がいる。
血に濡れ、まともに言葉を返すことさえできなくなっている。
(……本当に)
今さらのように、その言葉の意味が胸へ落ちてくる。
この人は、本当に私のことが好きなのだ。
婚約者だからではない。
将来王太子妃になる人間だからでも、国のために必要だからでもない。
――ただ、私だから。
私が傷つくことを嫌がり、考えるより先に身体が動いてしまうほどに。
「…………」
胸の奥がひどくざわついた。
十年間、私はずっとこの人に愛されていないのだと思っていた。
私が隣にいるのは婚約者だから。
必要だから。
それだけなのだと。
昨日、その思い込みが間違っていたのだと聞かされた。
けれど私は、それを本当の意味では理解していなかったのかもしれない。
今、ようやく分かった。
分かってしまった。
目の前にある血と引き換えに。
「……だからって」
返事のないアルバート殿下を見つめる。
「こんなこと、してほしくありません……」
好きだから。
だから、自分が代わりに傷ついても構わない。
そんなものを、私は愛情だと喜ぶことなんてできない。
誰かのために自分を削ることも。
誰かのために、自分の命を後回しにすることも。
私は、そんな生き方が嫌でここまで来たのだから。
私は答えを求めることをやめ、傷を塞ぐことだけに意識を集中させた。
震える手を押さえつけるようにして、治癒の魔力を流していく。
少しずつ血が止まり、裂けた傷口が塞がり始めた。
(大丈夫)
治せる。
このままなら――
そう思った時だった。
「……え?」
白銀の光の下で、何かが蠢いた。
黒い。
細い糸のようなものが傷の奥から現れ、アルバート殿下の身体の内側へ伸びている。
「これは……」
すぐに治癒の魔力を強める。
けれど、塞がりかけていた傷口が再び開き、赤い血が滲んだ。
「どうして……?」
「姉上」
いつの間にかそばへ来ていたルーカスが、険しい表情で傷を見つめている。
「ただの傷ではありません」
「……ええ」
あの黒い光だ。
ファルケン侯爵の攻撃は、ただ身体を傷つけるためのものではなかった。
攻撃に含まれていた黒い魔力が、傷口からアルバート殿下の身体へ入り込み、内側へ侵食しようとしている。
(浄化しないと)
治癒だけでは駄目だ。
この黒い魔力そのものを消さなければ。
反射的に浄化の魔力を流そうとして、手を止めた。
先ほどの術式が頭をよぎる。
私の浄化を感知し、その魔力さえ別の場所へ流して利用した術式。
これはファルケン侯爵自身から放たれたものだ。
同じ仕掛けがないと、どうして言い切れるのだろう。
もし不用意に浄化を流して、アルバート殿下の身体の中で何かが起きたら。
「…………」
怖い。
そう思った瞬間、また手が震えた。
「……レティ、シア」
「殿下?」
閉じかけていた目が、わずかに開く。
「浄化……俺も……少し、なら……」
「え?」
その意味を理解するより早く、アルバート殿下が震える手を自分の傷へ伸ばした。
「殿下、何を――」
掌から、淡い光が零れる。
「……浄化」
そうだ。
以前、浄化魔法について話した時、アルバート殿下は言っていた。
自分も小規模なものなら使える、と。
淡い光が傷の奥へ浸透していく。
すると、身体の内側へ伸びようとしていた黒い魔力が、ゆっくりと動きを止めた。
消えてはいない。
けれど、その場に縫い止められたように、侵食だけが止まっている。
「……一時的に、抑えているのですか?」
アルバート殿下が、ほんのわずかに頷いた。
それだけで力を使い果たしたのか、再び瞼が落ちていく。
「アルバート殿下!」
「……治癒、を……」
それだけ告げると、もう返事はなかった。
「……分かりました」
答えが返ってこないと分かっていても、そう告げる。
本当なら、その魔力すら使わせたくない。
けれど、今は他に方法がない。
黒い魔力はアルバート殿下が抑えている。
なら、私は傷を塞ぐ。
今度こそ魔力を乱さないよう慎重に、白銀の光を傷へ流していく。
少しずつ血が止まり、傷口が閉じていった。
傷の様子を見ていたルーカスが、小さく息を吐く。
「……姉上。出血が止まりました」
「……そう」
よかった。
その一言が胸に浮かんだ途端、全身から力が抜けそうになった。
けれど、まだ安心はできない。
傷は塞がっただけだ。
黒い魔力は残っている。
アルバート殿下が、自分の魔力で一時的に抑えているに過ぎない。
それでも、今すぐこの人がいなくなるわけではない。
そう思っただけで、ようやく息ができるようになった気がした。
「――随分と余裕があるものだな」
ファルケン侯爵の声が響き、身体が強張った。
忘れていたわけではない。
ただ、アルバート殿下の傷を前にした瞬間、他のことを考える余裕がなくなっていた。
顔を上げると、少し離れた場所でリオンがファルケン侯爵の前に立っていた。
いつの間にか抜かれた剣が、黒い魔力を纏ったファルケン侯爵の腕を受け止めている。
「リオンさん!」
「分かってる!」
激しい音とともに、リオンがファルケン侯爵を押し返す。
「そいつはお前が見てろ!」
「ですが――」
「今のお前が動けるか!」
「…………」
言い返せなかった。
手はまだ、震えている。
こんなことは初めてだった。
魔物に囲まれた時も、巨大な術式を目の前にした時も、自分自身が狙われた時でさえ、怖くないわけではなかった。
けれど、考えることはできた。
何をすればいいのか。
どう動けばいいのか。
それだけは、いつだって考えられた。
なのに今は、アルバート殿下の傷から目を離すことすら怖かった。
(……違う)
目の前で人が死にかけたのだ。
しかも、私を庇って。
怖くて当然だ。
私のせいで誰かが死ぬなんて、嫌に決まっている。
これまでだって、そうだった。
誰かや何かのために、自分の命を削ることが嫌いだった。
誰かの目的のために、人の生死が左右されることも。
だから、こんなにも動揺しているだけだ。
相手が誰であっても、きっと同じように怖かった。
そう思いながら、目を閉じたまま動かないアルバート殿下を見る。
「……アルバート殿下」
呼びかけても返事はなかった。
胸の奥が冷たくなる。
慌てて首元へ指を当てると、弱いながらも脈が触れた。
呼吸もしている。
生きている。
「…………」
そのことを確かめた瞬間、詰めていた息がようやく吐き出せた。
(……よかった)
目の前で人が死にかけたのだから。
私を庇って傷ついたのだから。
怖くて当然だった。
相手が誰であっても、同じだったはずだ。
そう思っているのに――
私は、アルバート殿下の手を離すことができなかった。
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