第72話 逃げ道
眩いほどの黒い光が、突然、視界を埋め尽くした。
「――っ!」
反射的に腕を上げた瞬間、身体の内側を強く引かれるような感覚に襲われる。
(これは……魔力を奪われている?)
そう思ったけれど、すぐに違うと気づいた。昨夜、私たちが書き換えた術式は、今も正常に機能している。
人々から魔力を奪い、地下へ集める流れは止まったままだ。
それなのに、広間を覆う黒い光は消えない。
「レティシア!」
「大丈夫です!」
アルバート殿下の声に答えながら周囲を見回すと、突然現れた黒い光に、広間はたちまち騒然となっていた。
「何だ、これは!」
「外へ――」
「動くな!」
出口へ向かおうとした人々を、リオンの声が制する。
「勝手に動くな! 近衛の指示に従え!」
すぐさま兵士たちが動き出し、広間にいる人々を壁際へ誘導していく。
反対側では、ルーカスも何かを叫びながら、フィオーレの使節団をまとめていた。
その間にも、黒い術式は脈打ち続けている。
(何をしているの……?)
私は意識を集中させ、昨夜確認した術式を探った。
そのさらに内側に隠されていた、もう一つの術式へと魔力の流れを追っていく。
けれど、すぐに違和感を覚えた。
人々から魔力を奪っているわけではない。
それなら、この術式はいったい何のために存在しているのか。
「……まさか」
小さく呟いた瞬間、足元の黒い光へ白銀の光が触れた。
浄化の魔力だ。
いつものように黒い魔力を消そうとした、その瞬間だった。
「――っ!」
白銀の光が弾かれた。
けれど、消えたわけではない。
(流された……?)
私が放った浄化の魔力は、黒い術式の中へ吸い込まれていた。
「レティシア、止めろ!」
アルバート殿下の声が飛んでくる。
私はすぐに浄化を止めた。
すると直後、黒い術式が先ほどまでよりも強く脈打った。
「……私の魔力を使った?」
「ああ」
アルバート殿下が床へ視線を落としながら答える。
「浄化そのものを防いでいるわけじゃない。君が流した魔力を、別の術式へ逃がしている」
私も改めて魔力の流れを追った。
アルバート殿下の言う通りだった。
浄化によって消される直前、術式の一部が切り離され、そこへ流れ込んだ私の魔力だけが別の場所へ送られている。
(だから、浄化されることを前提に……)
消されるのなら、その力さえ利用する。
そんな術式を、最初から重ねていたのだ。
「随分と慎重なのですね」
「一度、お前には痛い目を見せられているのでな」
私はファルケン侯爵へ視線を向けた。
黒い紋様を頬に浮かべたまま、ファルケン侯爵は笑った。
「同じ失敗を繰り返すほど愚かではない」
「なら、何が目的だ」
リオンが低く問いかけると、ファルケン侯爵はゆっくりと彼を見た。
「俺を王にするためじゃねぇなら、何のためだ」
「殿下は、まだそのようなことを気にしておられたのですか」
「何?」
「誰が王になるかなど、私にとってはどうでもいい」
あまりにもあっさりと告げられ、リオンの表情が険しくなる。
「……だったら、戦争を起こそうとした理由は何だ」
「必要だったからですよ」
「何がだ」
「死が」
一瞬、広間の空気が止まったように感じられた。
ファルケン侯爵は、何でもないことのように言葉を続ける。
「戦争になれば、多くの者が死ぬ。兵士も、民も。それだけではない。恐怖も、怒りも、憎しみも生まれる」
「……まさか」
胸の奥が冷たくなる。
各地で見てきた術式が脳裏をよぎった。
魔力を集めるもの。
生命力に干渉するもの。
そして、この王城に張り巡らされた巨大な術式。
「集めるつもりだったのですか。人の……生命力を」
「やはり、お前は理解が早い」
「そんなものを集めて、何をするつもりですか」
「さて。そこまで教える必要があるか?」
答える気はないらしい。
けれど、自らの身体にまで術式を刻んでいたことを考えれば、集めた力の行き先は想像できた。
「……自分のために?」
思わず呟くと、ファルケン侯爵は否定しなかった。
「――ふざけんな。そんなもんのために、国一つ戦争に巻き込もうとしたってのか」
「国一つ?……二つですよ、殿下」
「――っ」
「フィオーレとヴァルガード。互いを憎み、殺し合ってくれれば、それでよかった」
ぞっとするほど穏やかな声だった。
リオンが剣の柄へ手を掛ける。
けれどその瞬間、ファルケン侯爵が静かに告げた。
「動かない方がいい」
同時に、黒い術式が強く光る。
「――っ!」
広間のあちこちから悲鳴が上がった。
「何だ!?」
「身体が……!」
壁際へ避難していた人々の何人かが、その場に膝をつく。
「リオンさん!」
「ああ!」
リオンはすぐさま近衛へ指示を飛ばした。
「倒れた奴を術式の薄い場所へ移せ! 無理に立たせんな!」
ルーカスも動いている。
私は再び床へ意識を向けた。
(どうすれば……)
浄化を流せば、その魔力まで利用される。
けれど、何もしなければ、術式は人々の生命力へ干渉し始める。
するとそのとき、アルバート殿下が私の隣へ来た。
「レティシア。全部を消そうとするな」
「え?」
「さっき君の浄化が流された場所を見ていた」
アルバート殿下が床の一点を指す。
「術式そのものが君の魔力を利用しているわけじゃない。浄化を感知した箇所だけが切り離され、別の経路へ繋ぎ直されている」
「……本当だわ」
言われて、もう一度その場所を見つめる。
そこには、あまりにも細い魔力の流れがあった。
私なら、術式全体の構造は分かる。
けれど、これほど小さな変化を瞬時に見分けるのは難しい。
「では、その経路を先に切れば……」
「浄化を逃がせなくなる」
「はい」
私たちは視線を合わせた。
「場所を教えてください」
「ああ」
アルバート殿下が指示した場所へ、ほんの少しだけ魔力を流す。
一つ、二つ、三つと細い経路だけを、慎重に切り離していく。
黒い術式が激しく明滅した。
「……何?」
初めて、ファルケン侯爵の表情から笑みが消えた。
(いける)
逃げ道さえなくなれば、あとは浄化できる。
「アルバート殿下」
「ああ。次で最後だ」
示された場所へ魔力を伸ばす。
最後の一本を切った瞬間、私は一気に浄化の魔力を流し込んだ。
「今です!」
白銀の光が広間を駆け抜ける。
床を覆っていた黒い術式は、端から白銀の光に呑み込まれていった。
「消えていく……?」
誰かの声が聞こえる。
黒い線が、一つ、また一つと消えていく。
(できる)
このままなら、すべて浄化できる。
そう思った時だった。
「……やはり」
ファルケン侯爵の声が聞こえた。
低く、先ほどまでとは違う響きを帯びている。
「お前だけは、消しておくべきだった」
顔を上げると、ファルケン侯爵の胸元に浮かんでいた黒い紋様が、急激に広がっていた。
「レティシア!」
アルバート殿下の声が響く。
同時に、ファルケン侯爵の身体から黒い光が放たれた。光は真っ直ぐに、私へ向かってくる。
「――っ!」
反射的に防御魔法を展開すると、透明な膜が目の前に広がり、黒い光と激しく衝突した。
(重い……!押し切られる――!)
私はすぐに魔力を追加した。
けれど、黒い光は止まらない。
違う。これは、ただの攻撃魔法ではない。
私の防御魔法そのものへ食い込むように、黒い魔力が広がっていく。
(まずい)
防御を捨てて避けるべきか。
けれど、後ろには人がいる。
一瞬だけ判断が遅れたその隙に、透明な膜に細い亀裂が走った。
「――レティシア!」
鋭い声が響いた次の瞬間、身体を強く引かれる。
何が起きたのか理解する間もなく、視界が塞がれた。
「え――」
額が、アルバート殿下の胸元にぶつかった。
気づいた時には、殿下の腕が私の身体を強く抱え込んでいた。
まるで、何かから庇うように。
「アルバート殿――」
呼びかけを最後まで口にするより早く、耳元で何かが砕けるような音が響いた。
直後、大きな衝撃が走る。
けれど、痛みはなかった。
アルバート殿下の腕の中にいた私には、何ひとつ。
「……え?」
何が起きたのか分からない。
ただ、私を抱き込んでいた腕から、ゆっくりと力が抜けていくのだけが分かった。
「アルバート殿下?」
支えを失った身体が傾く。
咄嗟にその身体を支えようと手を伸ばすと、掌に温かなものが触れた。
何だろうと思いながら手を見下ろす。
赤い。
そこに付着していたのは、血だった。
「…………え?」
頭が、目の前の現実を理解することを拒んだ。
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