第69話 できることと、やるべきこと
私の言葉を最後に、地下格技場へ重い沈黙が落ちた。
改めて見回してみても、目の前に広がる光景は異様としか言いようがない。
床を埋め尽くす黒い線は壁や柱を這い、古びた観客席にまで伸びている。
庭園で見つけた術式だけではない。
広間に残されていたものまで含め、王城のあちこちに仕掛けられた術式がすべてここへ繋がっているのだとしたら、その規模は私たちが想像していた以上のものになる。
そして明日の本祭には、ヴァルガードの王族や貴族だけでなく、各国から招かれた者たちも大勢集まる。
魔力を持つ者、それも一般の人々より遥かに魔力量の多い者たちが、一堂に会するのだ。
「……やっぱり、中止するしかねぇか」
しばらく術式を睨んでいたリオンが、低い声で呟いた。
けれど、その言葉にアルバート殿下はすぐには頷かなかった。
「今になって突然中止すれば、仕掛けた側にこちらが気づいたと知らせることになる」
「分かってる。だから面倒なんだよ」
苛立たしげに髪を掻きながら、リオンが地下格技場を見回す。
「何も知らねぇふりをして本祭をやれば、相手は予定通り動くかもしれねぇ。だからって、こんなもんを残したまま人を集めるわけにもいかねぇだろ」
確かに、その通りだ。
本祭を中止すれば、少なくとも明日ここへ集まる人々を危険に晒さずに済む。
けれど、相手が王城の地下にこれほど大掛かりなものを用意していた以上、中止になった理由に気づかないとは考えにくい。
逃げられてしまえば、次にいつ、どこで同じことをされるか分からない。
そこまで考えたところで、ふと隣に立つルーカスへ目を向けた。
先ほどまで魔力を奪われかけていたというのに、本人は何事もなかったかのような顔で術式を見つめている。
けれど、お守りによる防御魔法は今も薄く彼の身体を覆ったままだ。
「ルーカス。あなたはもう少し下がっていて」
「姉上は?」
「私はこの術式を調べるわ」
「……それで、僕だけ下がれと?」
「あなたはさっきまで魔力を奪われていたでしょう?」
「姉上が危険な術式の目の前に残ることについては、何も思わないんですか」
「私は大丈夫よ」
そう答えると、ルーカスは何とも言えない顔をした。
「……その言葉を姉上が言うと、まったく安心できないんですが」
「どうして?」
「分からないなら、もういいです」
なぜか諦められてしまった。
すると、アルバート殿下が小さく息を吐く。
「ルーカス。今はレティシアの言う通りにしろ。魔力の状態が完全に戻ったとも限らない」
「……分かりました」
不満そうではあるものの、ルーカスは素直に数歩後ろへ下がった。
術式から十分に距離を取ったのを確認して、私はひとまず胸を撫で下ろす。
そこでようやく、もう一つ気づいた。
「そういえば、きちんとご紹介していなかったわね。ルーカス。こちらはヴァルガード王国第一王子、リオネル殿下よ」
「……第一王子?」
「ああ。リオネル・ヴァルガードだ」
リオンが短く名乗ると、ルーカスもすぐに姿勢を正す。
「フィオーレ王国エトワール公爵家、ルーカス・エトワールです。姉が大変お世話になったようで」
「……ああ」
なぜか、リオンさんの返事がほんの少し遅れた。
けれど今は、それを気にしている場合でもない。
ならば――
「術式を消してしまうのは駄目なのですか?」
思いついたことを口にすると、三人の視線が一斉にこちらへ向いた。
最初に口を開いたのはリオンだった。
「……消すって、これをか?」
「はい」
「これ全部?」
「必要なら」
答えると、リオンは何とも言えない顔で地下格技場を見回した。
その反応に釣られて私も周囲を見るけれど、確かに広い。
床だけでも相当な広さがあるうえに、術式は壁や柱、観客席にまで及んでいる。
とはいえ、広いからといってできないわけではないだろう。
「黒い魔力そのものを浄化してしまえば、術式も維持できなくなると思います」
「姉上」
なぜかルーカスが、ひどく真面目な声で私を呼んだ。
「何?」
「今、浄化すると仰いましたか?」
「ええ」
「……この規模のものを?」
「そうだけれど」
何を確認されているのか分からず答えると、ルーカスはしばらく黙ったまま私を見つめた。
その隣では、リオンまで妙な顔をしている。
「何か問題があるの?」
「いや……問題っつーか」
言いにくそうに口ごもったあと、リオンが小さく息を吐いた。
「そういや、あんた普通に使ってたなと思って」
「浄化魔法を?」
「ああ」
「使えますから」
「……そういう話じゃねぇんだよな」
ますます分からない。
首を傾げていると、今度はルーカスが疲れたように息を吐いた。
「姉上は、浄化魔法を扱える魔法使いが、この世界にどれほどいると思っているんですか?」
「……考えたこともないわ」
必要になれば使っていたし、魔法を学び始めた頃から特別なものだと思ったこともなかった。
けれど、ルーカスは私の答えを聞くと、予想していたとでも言いたげに額を押さえた。
「まともに浄化魔法を扱える者など、世界でも数えるほどしかいないはずです」
「そうなの?そんなに少ないの?」
「……そうなの? ではありません」
どうやら本当に珍しいものだったらしい。
けれど、今まで誰かに驚かれた記憶もあまりない。
そう思って、ふとアルバート殿下へ視線を向ける。
幼い頃から私が魔法を使うところを何度も見てきた人だ。
それどころか、アルバート殿下自身もまったく使えないわけではなかったはずだ。
「アルバート殿下は、ご存じだったのですか?」
「ああ」
「浄化魔法を使える人が少ないことも?」
「もちろん知っている」
「でも、アルバート殿下も使えますよね?」
そう尋ねると、アルバート殿下は少し考えるように間を置いてから頷いた。
「ほんの少しだけだがな」
「でしたら、それほど珍しいものだとは思わないではありませんか」
「いや、それは違う。俺が使えるのは、ごく限られたものだけだ。小規模な浄化ならできるが、君のような規模では扱えない」
「そうなのですか?」
「ああ。だから、君が使っているものと同じだと思ったことはない」
そんなに違うものなのだろうか。
私としては、浄化できる範囲や強さが違うだけで、同じ魔法に思えるのだけれど。
「……でしたら、教えてくださってもよかったのでは?」
思わずそう言うと、アルバート殿下は少しだけ目を瞬かせた。
けれど、すぐに何でもないことのように答える。
「君が使えることは昔から知っていたからな。わざわざ言う必要があるとは思わなかった」
「そういうものですか?」
「ああ。それに、レティシアだからな」
「……どういう意味ですか?」
「君なら使えても不思議ではないと思っていた」
あまりにも当然のように言われてしまい、返す言葉に困る。
褒められているような気もするけれど、それにしてはアルバート殿下の表情があまりにも平然としていた。
すると、そのやり取りを聞いていたリオンまで、小さく息を吐いた。
「……俺も似たようなもんだな」
「リオンさんも知っていたのですか?」
「浄化魔法が珍しいってことくらいはな。最初に見たときは普通に驚いたぞ」
「そうだったのですか?」
「ああ。けど、その頃にはもう、あんたが普通じゃねぇのは嫌ってほど分かってたからな」
「普通ではない?」
「……魔法の話だ」
「そうですか?」
「そうなんだよ」
なぜか投げやりに返されてしまった。
リオンはそのまま小さく息を吐くと、どこか遠い目で私を見る。
「最初の頃なら、もう少し驚いてたんだろうけどな……」
「?」
「いや。こっちの話だ。俺もだいぶ毒されてたらしい」
「何に?」
「気にすんな」
また分からないことを言われた。
そんな私たちを見比べながら、ルーカスだけがひどく疲れた顔をしている。
「……なぜ殿下もリオネル殿下も、姉上の非常識にそこまで順応しているんですか」
「ルーカス?」
「何でもありません」
最近、本当にみんなそればかり言う。
けれど、浄化魔法がどれほど珍しいのかについては、今はそれほど重要ではない。
できるのなら、それを使えばいいだけの話だ。
「とにかく、浄化すること自体はできると思います。ただ――」
もう一度、足元へ広がる黒い線に目を落とす。
できることと、今やるべきかどうかは別だ。
「……やっぱり、今すぐ全部消してしまうのはやめた方がよさそうね」
「おい。今、散々できるって話してただろ」
「できますよ。でも、消していいかどうかは別でしょう?」
リオンへそう返してから、その場にしゃがみ込み、床に刻まれた黒い線へ手をかざした。
直接触れることはせず、流れている魔力だけを探っていく。
やはり、ここだけで完結している術式ではない。
いくつもの魔力の流れが重なり合い、地下格技場の外へと伸びている。
その先にあるのは、おそらく庭園や広間で見つけた術式なのだろう。
「これだけ大きな術式です。すべて浄化すれば、仕掛けた人にも異変を気づかれるかもしれません」
「……本祭を中止するのと同じことになるか」
「おそらく。それに、王城のあちこちにある術式と繋がっている以上、ここだけを無理に消したとき、残った術式がどう動くのかも分かりません」
言葉にしながら、さらに深く術式の構造を探っていく。
複雑ではあるけれど、まったく理解できないわけではない。
魔力を集めるための部分があり、それを別の場所へ流すための部分がある。
さらに、いくつもの術式を繋ぎ、集めたものを一つにまとめるための構造まで組み込まれている。
「……おそらく、ここが集めた魔力を一つにまとめるための部分だと思います」
黒い線の一角を示しながらそう言うと、隣にしゃがんだアルバート殿下も、その先へ続く術式を目で追った。
「俺もそう思う。ただ、ここは少し違うんじゃないか?」
そう言って指し示されたのは、私が魔力を外へ流すためのものだと考えていた部分だった。
「違いますか?」
「ああ。これだけなら流すための術式に見えるが、ここを見てくれ」
アルバート殿下の指先が、そのすぐ脇を走る細い線を辿る。
「同じ構造が繰り返されている。単に外へ流すだけなら、ここまで細かく分岐させる必要はないはずだ」
「……本当ですね」
言われて改めて魔力の流れを追うと、確かにその通りだった。
「では、こちらは……城内にある他の術式との接続を維持するため?」
「おそらくな。その先で、初めて一つにまとめているんだと思う」
「だとしたら……」
もう一度、術式全体を見渡す。
集める。繋ぐ。そして、まとめる。
一見すると複雑に絡み合っているように見えるけれど、一つずつ役割を分けて考えれば、その構造が少しずつ見えてくる。
何より、アルバート殿下に指摘された箇所を起点に辿っていくと、先ほどまで曖昧だった魔力の流れが驚くほど綺麗に繋がった。
(……やっぱり、こういうところは上手いのよね)
昔からそうだった。
私は術式全体を見て、大まかな構造を掴む方が得意だったけれど、アルバート殿下は細かな違いや僅かな魔力の流れを見つけるのが上手かった。
先ほどの氷のグラスもそうだけれど、緻密な術式の解析や繊細な魔力制御に関しては、昔からアルバート殿下の方がずっと頼りになる。
だからこそ――
(……全部消す必要は、ないのかもしれない)
ふと、一つの考えが浮かんだ。
術式そのものを消してしまえば、相手に気づかれる。
けれど、見た目も魔力の流れも可能な限り残したまま、必要な部分だけに手を加えることができれば――
「……レティシア?」
アルバート殿下の声に顔を上げると、彼はこちらをじっと見ていた。
「何か思いついたのか?」
「……はい。できるかどうか、もう少し詳しく調べる必要はありますけれど」
そう答えてから、もう一度術式へ目を向ける。
これだけ広い範囲に張り巡らされた術式へ、相手に悟られないほど小さな変化だけを加えるのなら、私よりも細かな魔力制御に長けた人がいた方がいい。
「アルバート殿下」
「何だ?」
「少し、手伝っていただけますか?」
「ああ」
間髪を入れず返事が返ってきたので、思わず彼を見る。
「……まだ何をするのか、お伝えしていませんよ?」
「君が俺の力を必要としているんだろう?」
「それは、そうですけれど」
「なら、手伝う」
あまりにも迷いなく言われてしまい、言葉に詰まった。
以前のアルバート殿下なら、こんなふうに言っただろうか。
頼めば手伝ってくれたとは思う。
けれど、そのときはきっと理由を聞かれ、何をするのかを確認されて、それから静かに頷いていたはずだ。
今の彼は、まるで私が頼ったこと自体が嬉しいとでもいうように、ほんの少し表情を和らげている。
「……どうした?」
「いえ。何でもありません」
ついそう答えてしまってから、最近みんなが口にする言葉を自分まで使ってしまったことに気づく。
そのとき、隣から低い声がした。
「……で、何すんだよ」
振り向けば、リオンが腕を組んでこちらを見ている。
なぜか先ほどよりも機嫌が悪そうに見えた。
「リオンさん?」
「何でもねぇ。それより作戦だ。そいつに何を手伝わせるつもりなんだ?」
また何でもないらしい。
少し気になったものの、今は術式の方が先だ。
「まずは、もう少し詳しく魔力の流れを調べます。そのうえで、術式そのものはできるだけ残したまま――」
「機能だけを変えるのか」
最後まで言い終えるより先に、アルバート殿下が口を開いた。
「……はい」
「相手に悟られない程度の変化だけを加えて、本来の役割を果たせなくする」
「そのつもりです」
「おい」
すぐさまリオンの声が割り込んだ。
「二人だけで話を進めんな」
「すみません」
「だから、俺にも分かるように説明しろ」
「今からしますね」
少し呆れたような声に、思わず笑いそうになる。
けれど、まだこの方法で確実にうまくいくとは言い切れない。
相手に悟られないよう術式を残したまま、その役割だけを変える。
そんなことが本当に可能なのか、確かめなければならないことはいくつもあった。
私は改めて黒い術式へ目を落とす。
「まずは、どこまで手を加えれば相手に気づかれずに済むのか、確かめましょう」
「ああ」
隣でアルバート殿下が頷く。
地下格技場を埋め尽くす黒い線は、何事もなかったかのように静かに床を這っていた。
明日の本祭まで、もう時間はほとんど残されていない。
それでも――相手の思い通りにさせるつもりはなかった。
【おまけ】
「……意外と普通に姉上と話せているんですね」
「何がだ?」
「いえ。まあ、今はそれどころではない状況でもありますが……」
「ああ。俺の気持ちは伝えた」
「えっ」
「だが、俺のことはもうどうでもいいと言われた」
「…………」
「『私に関わろうとするのはご遠慮ください』とも言われた」
「………………」
しばしの沈黙。
「……好きの反対は、無関心……」
「言うな」
「…………」
「分かってる……分かってるから……」
「……すみません」
※本編のどこかであったかもしれない会話。




