第68話 ただのお守り
地下格技場を埋め尽くすように広がる、巨大な黒い術式。
幾重にも重なった黒い線は床だけに留まらず、壁や柱を這い、古びた観客席にまで伸びている。
庭園で見つけたものとは、明らかに規模が違っていた。
もし、あちらが本当にこの術式の一部に過ぎなかったのだとしたら。
いったい何のために、これほど大掛かりなものを王城の地下に――
「……姉上?」
再び呼ばれ、私はようやく我に返った。
振り向けば、地下格技場の中央でルーカスが目を見開いている。
どうして私がここにいるのか分からないのだろう。
驚きと困惑の入り混じった顔で、こちらを見つめていた。
「どうして姉上がここに……?」
「それはこちらの台詞よ。ルーカス、怪我はない?」
「え? ああ……はい。怪我はありません」
ひとまずその答えに胸を撫で下ろす。
見たところ、大きな怪我をしている様子はない。顔色も悪くはなく、足元もしっかりしている。
けれど、やはり普通ではなかった。
ルーカスの身体を淡い光が覆っている。
それは間違いなく私の魔力で作られた防御魔法だった。
そして、その内側から感じるルーカス自身の魔力。
先ほど離れた場所で感じたときほど激しくはないものの、今もなお、私の知る弟の魔力量を遥かに上回っている。
「姉上。それより、これは一体何なのでしょうか」
ルーカスも自分の異変には気づいているらしい。
困惑した様子で身体を覆う光へ視線を落とした。
「たぶん、お守りよ」
「…………お守り?」
「ええ。家を出るとき、あなたのために残してきたでしょう?」
そう告げると、ルーカスはしばらく考え込み、やがて何かを思い出したように目を見開いた。
「……あの、引き出しに入っていたものですか?」
「そうよ」
「これが?」
「ええ」
「…………」
ルーカスが自分を覆う光を見る。
それから、私を見る。
もう一度、光へ視線を戻したあと、なぜか深い溜め息をついた。
「……姉上」
「何かしら?」
「また何をしたんですか」
「失礼ね。今回は何もしていないわ」
「今回は?」
「…………」
「姉上?」
どうしてそこで聞き返すのだろう。
「本当に何もしていないわ。私だって、こんなふうになるとは思っていなかったのよ」
「ですが、この魔道具を作ったのは姉上ですよね?」
「それはそうだけれど……私が作ったのは、あなたを危険から守るためのお守りよ」
「これのどこがただのお守りなんですか」
「……俺もそれは聞きてぇな」
横から呆れた声が割り込み、ルーカスが顔を上げた。
そこで初めて、私以外にも人がいることを思い出したらしい。
ルーカスの視線が、私の隣に立つリオンさんへ向かう。
見覚えのない相手にわずかに眉を寄せたあと、その隣へ視線を移し――今度は別の意味で目を見開いた。
「……アルバート殿下?」
「ああ」
「殿下まで、なぜこちらに……?」
「それについてはあとで説明する」
「…………」
ルーカスはアルバート殿下を見て、それからリオンさんを見る。
そして最後に、私へ視線を戻した。
どうやら、分からないことがさらに増えてしまったらしい。
「……いろいろと聞きたいことはありますが」
ルーカスはそう言って額を押さえると、気を取り直すように小さく息を吐いた。
「まず、どうして姉上がヴァルガードにいるのですか?」
「旅をしていたら着いたのよ」
「…………そうですか」
何か言いたそうな顔をされた。
「何?」
「いえ。今はやめておきます」
「そう?」
「はい。おそらく一つ聞いたら、十くらい聞きたいことが増えるので」
「?」
よく分からないけれど、本人がそう言うのならいいのだろう。
「それよりルーカス。あなたこそ、どうしてここにいたの?」
「私は殿下と共にヴァルガードへ来ましたが、今夜は別に動いていたんです」
「別に?」
「ええ。殿下は前夜祭へ出席する必要がありますから。私はその間、城内で少し調べたいことがあって」
アルバート殿下へ目を向けると、静かに頷いた。
どうやら最初から、そういう役割分担だったらしい。
「それで城内を見て回っていたところ、妙な動きをしている者を見かけました」
「妙な動き?」
「前夜祭の最中だというのに、人目を避けるように城の奥へ向かっていたんです。気になって後を追いました。その人物を追っているうちに、地下へ続く階段を見つけて……中へ入ったところで見失いました」
「一人で追ったの?」
「…………」
わずかな沈黙。
ルーカスが私から目を逸らした。
「ルーカス?」
「……影はついていました」
「影?」
「フィオーレから連れてきた者です。表には出ませんが、私たちの護衛と情報収集を兼ねています」
なるほど。
それなら本当に一人だったわけではないらしい。
「影はついていました。ただ、この場所を見つけた時点で、殿下への報告に向かわせました」
「それで、自分だけ中に入ったの?」
「……少し確認したら、すぐ戻るつもりでした」
「危ないでしょう」
「…………」
今度はなぜか、ルーカスがじっと私を見る。
「何?」
「……姉上にだけは言われたくありません」
「どうして?」
「…………」
答えてくれない。
不思議に思っていると、隣から小さな声が聞こえた。
「……姉弟だな」
「リオンさん?」
「何でもねぇ」
またそれだ。
最近、リオンは私に分からないことを言っては「何でもない」で済ませることが多い気がする。
「それで、中へ入ってから何があった?」
アルバート殿下が話を戻すと、ルーカスの表情が引き締まった。
「この術式を見つけました。あまりにも大きかったので、下手に触れない方がいいと思ったのですが……調べているうちに、一部が突然反応したんです」
「反応した?」
「はい。黒い光が走ったかと思ったら、急に身体から力が抜けていくような感覚がして。……おそらく、魔力を吸われていたのだと思います」
その言葉に、庭園で見つけた術式のことが頭をよぎった。
魔力だけではない。
トロン伯爵の屋敷で聞いた話が正しいのなら、あの黒い術式は人間の生命力にまで干渉する可能性がある。
「それで、お守りが?」
「おそらく」
ルーカスが胸元から小さなものを取り出した。
紐につけられた、簡素なお守り。
見間違えるはずがない。
幼い頃、初めて魔道具というものを作ってみたくて、見よう見まねで作ったものだ。
当時の私には、きちんと作れているのかどうかすら分からなかった。
だから誰かに渡すこともできず、それでも捨てることはできなくて、ずっと手元に残していた。
家を出るあの日。
せめて何か、弟のために残しておきたいと思って、引き出しへ入れてきた。
「急にこれが光ったんです。その直後、私の周囲に防御魔法が展開されました」
「そこまでは、私が込めた魔法だと思うわ」
「そこまでは?」
ルーカスが嫌な予感でもしたような顔をする。
「ええ。危険なことがあったとき、あなたを守ってくれればと思って作ったものだから」
「では、この魔力は?」
「…………」
「姉上?」
「それは、私にも分からないわ」
「やっぱりですか……」
なぜか、ルーカスはあまり驚かなかった。
「お守りが発動した直後からなんです。急に自分の魔力が膨れ上がって……最初は制御できなくなるかと思いました」
「身体に違和感は?」
「ありません。ただ、自分の魔力なのに、明らかに普段とは量が違うんです」
やはり、私たちが離れた場所で感じたものと同じだ。
魔力そのものは間違いなくルーカスのものだった。けれど、その量だけが異常なほど増えている。
「少し、お守りを見せてくれる?」
「どうぞ」
差し出されたお守りへ手を伸ばす。
指先が触れた途端、そこに刻まれている術式と、今まさに流れている魔力の動きが伝わってきた。
(防御魔法は……問題ない)
私が込めた魔力を使って障壁を維持している。
けれど、それとは別に、もう一つ。
お守りから細い術式がルーカスへ繋がり、彼自身の魔力へ干渉している。
魔力を与えているわけではない。
ルーカスの中にある魔力そのものを――本来よりも遥かに大きな力へと押し上げている。
「……これ」
「何か分かりましたか?」
「あなたの魔力を増幅しているみたい」
「…………はい?」
「私の魔力が流れ込んでいるわけではないわ。増えているのは、間違いなくあなた自身の魔力よ。ただ、このお守りが何らかの形でそれを増幅しているみたいなの」
言いながら、私自身も首を傾げる。
(こんな術式、入れたかしら……?)
少なくとも、記憶にはない。
そもそも作った当時の私が考えていたのは、ルーカスを守ることだけだった。
「姉上」
「何かしら?」
「それを知っていて、私に渡したんですか?」
「いいえ」
「…………」
「今、初めて知ったわ」
しばらく沈黙が落ちた。
ルーカスは私を見ている。
私はルーカスを見ている。
やがて彼はゆっくりと片手で額を押さえ、心の底から疲れたような溜め息を吐いた。
「……姉上」
「何?」
「また何をしたんですか!」
「だから、今回は何もしていないわ!」
「作ったのは姉上でしょう!」
「そうだけれど、こんな機能をつけた覚えはないのよ!」
「覚えがないだけでは!?」
「…………」
「なぜそこで黙るんですか!」
「……なあ」
呆れ切ったリオンさんの声に、二人で振り向く。
「それ、今ここで決着つくのか?」
「…………」
「…………」
たぶん、つかない。
そう思ったところで、アルバート殿下が小さく息を吐いた。
「その話はあとだ。今は術式を調べる方が先だろう」
「……そうですね」
ルーカスも気を取り直したように頷く。
私も再び、地下格技場を覆い尽くす黒い術式へ視線を向けた。
笑って済ませている場合ではない。
お守りが発動したということは、少なくともルーカスには危険が迫っていた。
そして、彼が感じたという――魔力を吸い取られる感覚。
(やっぱり、この術式も……)
庭園で見つけたものと同じ。
人から魔力を奪い、場合によっては生命力さえ吸い上げるものだとしたら。
私は床へ視線を落とし、黒い線の流れを目で追っていく。
これほど巨大な術式が、何の意味もなく王城の地下に作られているはずがない。
それに――
「……おかしいわ」
「何がだ?」
「これだけでは、完成していません」
「完成してない?」
「ええ」
庭園で見つけた術式を思い浮かべる。
あのとき感じた違和感。
術式によって集められた魔力が、その場には留まらず、どこか別の場所へ流れているような感覚。
もし、あれがこの地下格技場へ繋がっていたのだとしたら――
「たぶん、これは一つの術式ではないわ。王城のあちこちにある術式を繋げて、初めて一つになるように作られているんだと思う」
その言葉に、三人の表情が変わる。
庭園で見つけたものだけではない。
広間にも、同じ系統の術式はいくつも残されていた。
それらすべてが、この場所へ繋がっているのだとしたら――
そして明日、この城には本祭のために、多くの王族や貴族が集まる。
――魔力量の多い者たちが、一堂に。
「……まさか」
アルバート殿下も同じところへ考えが至ったらしい。
その声に、私は頷いた。
「これが明日の本祭に合わせて作られたものなら――このまま本祭を迎えるのは、危険です」




