第67話 それぞれの動揺
先ほどまで交わしていた言葉が、まだ頭の中に残っている。
――『俺は、君が好きだ』
十年間。
ずっと好きだったのだと、アルバート殿下は言った。
それだけでも十分驚いたというのに――
「レティシア」
「はい?」
「喉が渇いていないか?」
言われてみれば、庭園での一件からずっと動き通しだった。
「少しだけ」
「そうか」
アルバート殿下が片手を上げる。
その指先に淡い光が集まり、きらきらと小さな粒になって宙を舞った。
やがて周囲の空気がわずかに冷え、光の粒が吸い寄せられるように一つの形を作っていく。
薄く透き通った氷。
それは見る間に滑らかな曲線を描き、一つのグラスへと姿を変えた。
さらにアルバート殿下が指先を動かすと、その表面を淡い光が覆う。
(……保存魔法まで)
これなら、しばらくは溶けることもないだろう。
さらにグラスの中に、澄んだ水が満たされていく。
(やっぱり、上手いわね)
思わず見入ってしまう。
アルバート殿下は昔から、こうした細かな魔力の制御が得意だった。
大きな魔法を放つだけなら、私にもできる。
けれど、必要なだけの魔力を使い、思い描いた通りの形へ寸分違わず整える。
そうした繊細な魔法に関しては、昔からアルバート殿下の方がずっと上手かった。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
差し出された氷のグラスを受け取る。
ひんやりとした冷たさが、火照っていた手のひらに心地よい。
以前なら、こんなことをしただろうか。
少なくとも、私には覚えがない。
『これからは言葉にする。行動でも示す』
(……まさか、本当にすぐ始めるとは思わなかったわ)
ご遠慮くださいと申し上げたはずなのだけれど。
どう受け止めたものか分からず、とりあえず水を一口飲む。
冷たい水が喉を通り、思っていた以上に身体が水分を欲していたことに気づいた。
「……おいしいです」
「そうか」
アルバート殿下の表情が、ほんのわずかに和らぐ。
その顔を見て、私はますます困ってしまった。
どうやら、先ほどの言葉は本気だったらしい。
そのとき、扉が開いた。
「戻ったぞ」
「あら。お帰りなさい、リオンさん」
「ああ」
部屋へ入ってきたリオンと目が合った――と思った次の瞬間、なぜか逸らされた。
「……?」
それから、私の手元へ視線を落とす。
氷でできたグラスと、その隣にいるアルバート殿下。
そして再び、私。
「…………」
「リオンさん?」
「何だよ」
「いえ。何かありました?」
「何もねぇ」
「そうですか」
「ああ」
「…………」
「…………」
妙な沈黙が落ちる。
アルバート殿下も何も言わない。
リオンも何も言わない。
私も、何を話せばいいのか分からない。
(……何なのかしら、この空気)
国王陛下への報告がどうなったのか聞いた方がいいのだろうか。
そう思ったところで、リオンさんが居心地悪そうに視線を彷徨わせた。
しばらく考えた末、ようやく何かを思い出したように口を開く。
「あー……そういや、さっき弟に会ったわ」
「弟さんに?」
「ああ。あいつも城内を見て回ってた。一人で動くなとは言っといたけどな」
「そうだったのですね」
リオンさんの弟。
命を狙われる可能性があるなら、弟君も警戒しておくに越したことはないのだろう。
そのとき、アルバート殿下がなにか思い出したように口を開いた。
「そういえばレティシアにはまだ伝えていなかったな」
「何をですか?」
「ルーカスもこちらへ来ている」
「……ルーカスが?」
思わず目を見開いた。
どうしてルーカスまで――
そう思った、その瞬間だった。
――ふいに、身体の奥で何かが揺れた。
「……?」
何だろう。
今、何か――。
考え込む私の耳に、リオンの声が聞こえる。
「……そのルーカスってのは誰だ?」
「レティシアの弟だ」
「……弟?」
「ああ」
「…………そうか」
リオンさんが小さく息を吐いた。
なぜか、少しだけ安心したように見える。
けれど私は、それを気にする余裕がなかった。
(……私の魔力?)
おかしい。
私は今、何もしていない。
それなのに確かに、自分の魔力がどこかで動いた。
魔法へと変わって――
(これは……防御魔法?)
一方、リオンさんは何やら自分に呆れたように額を押さえていた。
「……何やってんだ、俺は」
「?」
聞き返そうとしたところで、リオンが小さく咳払いをする。
「あー……それで、国王には――」
「レティシア?」
アルバート殿下の声が重なった。
その声に顔を上げると、いつの間にかアルバート殿下がこちらを見ていた。
「どうした?」
「……え?」
「さっきから様子がおかしい」
その言葉に、リオンもこちらを見る。
「何かあったのか?」
「……分かりません。でも今……私の魔力が、どこかで防御魔法として発動したような気がして」
「君は何もしていないだろう」
「はい。だから、私にも――」
言葉を続けようとした、そのときだった。
突然、空気が震えた。
「……っ!」
先ほどとは比べものにならないほど大きな魔力が、城内のどこかから一気に膨れ上がる。
肌を撫でるように押し寄せたそれに、思わず息を呑んだ。
「何だ、今の!?」
リオンが勢いよく振り返る。
その隣で、アルバート殿下が目を見開いた。
「……ルーカス?」
アルバート殿下の呟きに、私もすぐにその魔力へ意識を向ける。
間違えるはずがない。
幼い頃から何度も感じてきた、弟の魔力だった。
「……ええ。間違いありません」
けれど――
(こんなに多かったかしら……?)
廊下へ飛び出す。
先ほど感じた魔力の方角へ、アルバート殿下が迷いなく駆けていく。
「レティシア、さっきの防御魔法は何だ」
「まだ分かりません。でも……一つ、心当たりがあります」
「心当たり?」
「お守りです」
「家を出るときに、ルーカスのために残してきました。私が幼い頃に作った魔道具です」
「魔道具?」
「ええ。何か危険なことがあったとき、ルーカスを守ってくれるように、防御魔法を込めてあって――」
「待て」
隣を走っていたリオンさんが、怪訝そうな顔をする。
「じゃあ、さっきレティが感じたっていう防御魔法は、その魔道具が発動したってことか?」
「おそらくは」
「……おそらく?」
「このように離れた場所から発動したことが分かるようには、作っていませんから」
「…………は?」
「ですから、私にもどうして分かったのかは……」
リオンさんが何とも言えない顔になる。
「……魔道具に込めた魔力が発動したことを、付与した本人が離れた場所から感知するなんて聞いたことねぇぞ」
「そうなのですか?」
「そうなのですか、じゃねぇよ……」
呆れた声が返ってくる。
けれど今は、それについて考えている場合ではない。
「それより、先ほどの魔力です」
「あれは間違いなくルーカスのものだった。だが――」
「ええ。多すぎます」
ルーカスの魔力量は、決して少なくない。
けれど、先ほど感じたものは明らかにそれを上回っていた。
「じゃあ、何でそんなに増えてんだ?」
「それが分からないのです。でも、確かにルーカス自身の魔力でした」
アルバート殿下も険しい表情のまま頷く。
「俺の知っているルーカスの魔力量でもない」
どういうことなのだろう。
考えながら魔力の残滓を辿っていた私は、ふと足を緩めた。
「……こちらです」
「こっち?」
「はい。ただ……」
廊下の先へ目を向けるも、違和感がある。
前方から感じるというより、もっと低い場所から魔力が伝わってくるような――
「下……?」
「何?」
「ルーカスの魔力、下から感じます」
その言葉に、リオンの表情が変わった。
「……この下なら、旧格技場だ」
「格技場?」
「ああ。昔、王族や近衛が実戦形式の訓練に使ってた場所が地下にある。今の格技場ができてからは使われてねぇけどな」
そう言うなり、リオンさんが進行方向を変える。
「こっちだ。正面から回るより早い」
私たちはその後を追った。
リオンが普段は使われていない細い階段の扉を開く。
「ここから下りられる。昔、武器や備品を運び込むのに使ってた階段だ」
階段を下りるにつれ、魔力の圧が強くなっていく。
間違いない。
ルーカスは、この先にいる。
「ルーカス!」
最後の階段を駆け下り、重い扉を押し開けた、その瞬間――
「……っ!」
真っ先に目に飛び込んできたのは、広い地下格技場の中央に立つ一人の青年だった。
「……ルーカス」
無事だった。
少なくとも、立っている。
安堵しかけて――すぐに異変に気づいた。
(何……これ……?)
ルーカスの周囲を、淡い光の膜が覆っている。
その光には、嫌というほど覚えがあった。
――私の魔力だ。
それだけではない。
光はルーカスを守るように取り囲み、その身体にも薄くまとわりついている。
そしてルーカス自身から放たれている魔力は、私の知る弟のものとは比べものにならないほど膨れ上がっていた。
「……おい」
隣で、リオンが呆然と声を漏らす。
「あれが……あんたの言ってた『お守り』か?」
「…………」
答えられなかった。
だって――
(私も、あんなものを作った覚えはないわ……)
そのとき、ルーカスがこちらを振り返った。
「――姉上?」
驚いた声が、地下格技場に響く。
その声に安堵しかけて、ふと視線をその向こうへ向けた。
「……これは……」
思わず息を呑む。
古びた石造りの格技場。
その床を埋め尽くすように、幾重にも黒い線が走っている。
術式は床だけではない。
壁へ、柱へ、かつて剣を交える者たちを囲んでいたであろう観客席へと、まるで地下格技場そのものを侵食するように広がっていた。
庭園で見つけたものとは、規模が違う。
(まさか……)
あちらは、ほんの一部に過ぎなかったのだろうか。




