第66話 何でもないはずだった ◆
応接室の扉を閉め、俺は一人廊下へ出た。
やることは山ほどある。
まずは親父への報告だ。
城内に仕掛けられた術式について説明し、明日の本祭をどうするのか決めなければならない。
その後は騎士団にも指示を出す必要がある。
分かっている。
今は余計なことを考えている場合じゃない。
それなのに、数歩進んだところで、俺の足は勝手に止まっていた。
振り返ってみても、そこにあるのは当然、たった今自分で閉めた扉だけだ。
「……何だってんだ」
自分でもよく分からないまま、小さく呟く。
別に、あの男が気に食わないわけじゃない。
――フィオーレの王太子、アルバート。
突然現れた時には警戒したが、話してみれば状況の判断は早かった。
こちらの話も冷静に聞いていたし、少なくとも国を背負う人間として無能には見えない。
それに、レティが平然ととんでもないことをやらかす人間だということも、よく分かっているらしい。
『十年の付き合いだからな』
不意に、さっきの言葉が蘇った。
「……十年、ねぇ」
長い。
俺がレティと知り合ってから、まだ数か月しか経っていない。その何倍もの時間を、あの男はレティと過ごしてきたということになる。
だから何だという話なのだが。
「……親父のところ行くか」
考えていても仕方がない。
無理やり頭を切り替え、俺は王の執務室へ向かった。
◇
「――明日の本祭は、中止か延期にした方がいい」
一通り説明を終え、俺はそう結論づけた。
執務机の向こうで黙って話を聞いていた親父が、僅かに眉を寄せる。
「そこまで危険だと?」
「ああ。前にも報告した、フィオーレで『白銀の魔女』と呼ばれてる女を覚えてるか」
「ああ。お前と行動を共にしているという女だな」
なぜか親父が僅かに口元を緩めた。
何がおかしいのか知らねぇが、今はそれどころじゃない。
「そいつが今夜、城内で妙な術式を見つけた。しかも、城の中にあんなものがいくつ仕掛けられてるのか分からねぇ。白銀の魔女の見立てじゃ、魔力を集めるためのものらしい。アルバートが掴んだ情報まで合わせりゃ、生命力まで奪う可能性がある」
「…………」
「明日は今夜以上の人間が集まる。狙いが本祭だと考えるのが自然だろ」
親父はすぐには答えなかった。
しばらく考え込んだあと、ゆっくりと椅子の背にもたれる。
「……簡単には中止できんな」
「分かってる。だが――」
「国外からの使節もすでに入っている。それだけではない。ここで突然本祭を取りやめれば、仕掛けた者にも我々が異変に気づいたと知らせることになる」
「……ああ」
そこが厄介だった。
今夜のうちに中止を決めれば、黒幕がそれを知る可能性がある。
逃げられるだけならまだいい。
仕掛けられた術式を残したまま、別の手段に切り替えられる方が遥かに厄介だ。
「それに、お前が追っていた者たちの中にも、今回の件に関わっている者がいる可能性があるのだろう?」
「ああ。ただ、どこまで繋がってるのかは分からねぇ。俺が知ってた計画には、あんな術式はなかった」
「お前が探っていたことには?」
「気づかれてねぇはずだ。少なくとも、正体が割れるようなヘマはしてねぇ」
「ならば、まだ向こうはこちらがどこまで掴んでいるのか知らん可能性が高いな」
「ああ」
「ならば尚更、今こちらから動きを見せるのは得策ではない」
「だからって、そのまま本祭をやるわけにもいかねぇだろ」
「分かっている」
親父の声が僅かに低くなる。
「今夜中に城内を調べろ。見つけた術式には手を出さず、場所だけをすべて把握する。警戒も最高段階まで引き上げる」
「本祭は?」
「明朝までに判断する」
「…………」
それしかないか。
今この場で中止を決めるのも危険だが、何も分からないまま開催することもできない。
せめて夜が明けるまでに、城内のどこに何が仕掛けられているのか把握する必要がある。
「……分かった」
「リオネル」
踵を返しかけたところで呼び止められた。
「何だ?」
「今夜は何が起きるか分からん。お前も気を抜くな」
「誰に言ってんだ」
そう返して、俺は執務室をあとにした。
◇
扉が閉まると同時に、頭の中でこれからの動きを整理する。
ひとまず、やるべきことは決まった。
騎士団に城内を捜索させ、警戒を最高段階まで引き上げる。フィオーレ側の使節については、アルバートに任せればいいだろう。
あとは順番に片づけていけばいい。
そう考えながら歩き出した、その時だった。
『できれば、二人で話したい』
「…………」
まただ。
さっきから少し気を抜くと、あの応接室のことばかり考えている。
「……何なんだよ」
「何がです?」
「うおっ」
突然横から声をかけられ、思わず振り向く。
そこにいたのは弟だった。
「……何だ、お前か」
「何だとは何ですか」
「驚かせんな」
「普通にお声をかけただけですが」
呆れたように言われる。
弟は手に何枚かの書類を持っていた。どうやら俺とは反対方向へ向かう途中だったらしい。
「それより兄上、どうかなさいました?」
「何が」
「先ほどから、随分と妙な顔をなさっています」
「妙な顔?」
「はい。国王陛下と何か?」
「いや。そっちは話がついた」
「では、何をそんなに考え込んでいらっしゃるのです?」
「…………」
答えようとして、やめた。
俺自身、何を考えているのかよく分かっていないのだ。説明できるはずもない。
「何でもねぇよ」
「そうですか?」
「ああ。それより、お前も今日は気をつけろ。城内の警戒を上げることになった」
簡単に事情を説明すると、弟の表情が僅かに引き締まった。
「分かりました」
「……随分落ち着いてんな」
「命を狙われること自体は、今に始まったことではありませんから」
「お前な……」
「大丈夫ですよ。まだ対処できる範囲です」
「そういう問題じゃねぇ。今日は一人で動くな」
「分かりました」
「頼む」
念を押し、そのまま通り過ぎようとしたところで、背後から再び声が飛んできた。
「……兄上」
「今度は何だよ」
「本当に、何でもないのですか?」
「しつけぇな」
「いえ。何でもない時の兄上は、そんなに何度も溜め息をつきませんので」
「…………」
そんなにしていたか?
思わず眉間を押さえると、弟の視線がますます訝しげなものになった。
「だから何でもねぇって。さっさと行け」
「はいはい」
まだ何か言いたそうな顔をしていたものの、弟はそれ以上追及することなく歩き出した。
その背中が廊下の角を曲がり、見えなくなる。
途端に辺りは静かになった。
俺も再び歩き出したが、数歩も進まないうちに、また足が止まる。
何でもない。
弟にはそう言った。
だが――本当に、何でもないのか?
『十年の付き合いだからな』
また、あの言葉が頭をよぎった。
――十年。
レティがどんな子供だったのか。
どんなふうに育ったのか。
何が好きで、何が嫌いで、何を考えて生きてきたのか。
俺が知らないレティを、あの男は知っている。
「…………」
それが、妙に気に食わない。
しかも、あいつはレティの婚約者だ。
――いや、正確には今もそうなのか?
レティは自分のことを元貴族だと言っている。
フィオーレを出てから家とは連絡を取っていないらしいし、貴族として戻るつもりもなさそうだった。
だが、本人がそう思っていることと、実際の扱いがどうなっているかは別だ。
少なくとも、婚約が正式に解消されたという話は聞いていない。
そこまで考えたところで、ふと我に返った。
――俺は、何でそんなことを気にしている?
婚約が続いていようが、解消されていようが、俺には関係ない。
レティ自身が決めることだ。
そう思った瞬間、今度は別の声が頭の中に蘇った。
『できれば、二人で話したい』
「…………」
あいつは今、レティと何を話している?
俺が部屋を出てから、もうどれくらい経った。
そもそも何を話すために、わざわざ二人きりになる必要があった?
考えているうちに、知らず眉間に皺が寄る。
もし、アルバートがレティにフィオーレへ戻ってほしいと言ったら。
レティは――どうする?
帰るのか。
公爵家へ戻り、また公爵令嬢として暮らして。
そして、アルバートの隣へ戻るのか。
「……いや」
考えるより先に声が出た。
そのことに、自分自身が一番驚く。
今、何を否定した?
レティがフィオーレへ帰ることか。
それとも――あの男の隣へ戻ることか。
「…………」
どちらなのかは分からない。
ただ、どちらにしても、はっきりと嫌だと思った。
「……何でだよ」
誰もいない廊下で、一人呟く。
レティがどこへ行こうが、あいつの自由だ。最初からそうだった。
旅をするのも、フィオーレを出たのも、俺と一緒にヴァルガードへ来たのも。
全部、レティが自分で決めたことだ。
だったら、フィオーレへ帰ると決めたところで、俺が口を挟むことじゃない。
そんなことは分かっている。
それなのに、レティがいなくなるところを想像しただけで、妙に胸の奥がざわついた。
明日から、隣を歩かない。
くだらないことで言い合うこともなくなる。
突然とんでもない魔法を使って、俺が頭を抱えることもない。
『リオンさん』
そう呼ぶ声も、聞こえなくなる。
「…………」
そこまで考えて、ようやく何かがおかしいと思った。
いや。
おかしかったのは、今に始まったことじゃない。
レティが一人で危険な場所へ行こうとすれば腹が立った。
怪我をすれば気になったし、無茶をするなと何度言っても聞かないくせに、本人は平然としているから余計に腹が立った。
そのくせ、楽しそうに笑っていると、なぜかこっちまで気が抜ける。
今まで、そんなことをいちいち深く考えたことはなかった。
面倒な女だから放っておけないのだと、そういうものだと思っていた。
なのに、アルバートが現れてからはどうだ。
あいつがレティのことをよく知っているように話すたび、妙に腹が立つ。
十年という、自分の知らない時間があることまで気に食わない。
挙げ句の果てには、二人きりで話したいと言われただけで、こうしていつまでも引っかかっている。
(……待て)
そこで、完全に足が止まった。
今まで深く考えもしなかった感情が、アルバートが現れた途端、嫌でも無視できない形で表に出てきた。
何で、あいつのことばかり気になる。
何で、アルバートといると腹が立つ。
何で――いなくなるのが嫌なんだ。
「…………まさか」
いやいや、待て。
いくらなんでも、それは――
そう否定しようとして、できなかった。
むしろ一度そう考えてしまえば、今まで引っかかっていたものが、呆れるほど綺麗に繋がっていく。
――ああ、そういうことか。
「……嘘だろ」
思わず片手で顔を覆った。
(……今さら気づくのか、俺は)
散々一緒に旅をして、あれだけ振り回されて。
あいつの婚約者に腹を立てて、いなくなるかもしれないと考えただけで、こんなところで一人立ち止まって。
それでも今まで、まるで分かっていなかった。
「……馬鹿じゃねぇの」
誰に言うでもなく呟く。
当然、答える者はいない。
しばらくそのまま立ち尽くしてから、ようやく顔から手を離した。
女に好意を向けられたことなら、これまでにも何度もある。だが、自分から誰かをこんなふうに気にしたことがあっただろうか。
思い返してみても、心当たりはなかった。
「……マジかよ」
どうやら俺は、この歳になって初めて、とんでもなく面倒なものに捕まったらしい。
しかも――
そもそも、レティがいくつなのか正確には知らない。
妙に物を知っているかと思えば、今さらそんなことも知らねぇのかと頭を抱えたくなることもある。
魔法に関しては下手な年長者より遥かに詳しいくせに、世間の常識となると驚くほど抜けている。
それでも、どう見ても俺よりはかなり年下だ。
「…………」
そこまで考えて、余計に頭が痛くなった。
――どうする。
いや、どうするも何もない。
今はそれどころじゃない。
城の中には訳の分からない術式が仕掛けられていて、明日の本祭を開催できるかどうかすら分からない。騎士団への指示も残っているのだ。
こんなことを考えている場合じゃない。
「……仕事だ、仕事」
無理やりそう言い聞かせ、再び歩き出す。
ところが数歩進んだところで、また別の問題に気づいてしまった。
このあと、あの応接室へ戻る。
当然、そこにはレティもいる。
「…………」
さっきまで何も考えずに顔を見ていた相手だ。
それなのに今は、嫌でも意識してしまう。
自分があいつをどう思っているのか、気づいてしまったからだ。
だからといって何かが変わるわけでもないはずなのに、今さらどんな顔をして会えばいいのか分からない。
「……最悪だ」
事件とはまったく別の意味で、頭が痛くなってきた。
とにかく先に騎士団への指示を済ませよう。その間に少しは頭も冷えるはずだ。
そう考えて歩き出し――ふと、応接室に残してきた二人の姿が頭をよぎった。
レティと、アルバート。
二人きりで、まだ何かを話しているかもしれない。
「…………」
足が止まる。
ほんの少し前まで「頭を冷やしてから戻ろう」と考えていたはずなのに、その考えはあっさり消えた。
「……やっぱり、さっさと戻ろう」
そう決めた自分に、今度こそ深い溜め息が出た。




