第65話 ご遠慮ください
しんと静まり返った部屋の中で、アルバート殿下と向かい合う。
何を話したいのだろう。
そう考えたところで、ふと思い出したことがあった。
「あの、殿下」
「何だ?」
「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「ああ」
「先ほど……どうして私だと分かったのです?」
「……何?」
「仮面です。あれには、顔立ちだけでなく瞳や髪の色まで分かりにくくする魔法がかかっているのでしょう?」
「ああ」
「それなのに殿下は、私を助けてくださった時、すぐに名前を呼ばれましたよね」
考えてみれば不思議だ。
私は声を聞くまで、目の前にいる方がアルバート殿下だとは気づかなかった。
それなのに殿下は、あの一瞬で私だと分かったらしい。
「よく私だと分かりましたね」
そう言うと、アルバート殿下はしばらく私を見つめた。
そして、あまりにも当然のことのように答える。
「……分かるよ」
「え?」
「十年だぞ。髪の色が分からなくても、顔が隠れていても――君を見間違えるわけがない」
「…………」
思いがけない答えに、言葉を失った。
そんなものなのだろうか。
私は気づかなかったのだけれど。
そう思ったものの、わざわざ口にするのも何となく憚られて黙っていると、アルバート殿下が小さく息を吐いた。
「……それに、ずっと探していたからな」
「私を?」
「ああ」
そこで、先ほどアルバート殿下が二人で話したいと言っていたことを思い出した。
もしかすると、私を探していたことと関係があるのだろうか。
アルバート殿下はすぐには続きを口にしなかった。
以前の彼なら、そのまま沈黙してしまったかもしれない。
けれど今日は違った。
「君が家を出てから、ずっと行き先を追っていた。何度か近くまでは行ったんだ」
「まあ……」
少し驚いた。
旅をしている間、アルバート殿下が私の行き先を追っているなどとは、考えたこともなかった。
「……そういえば、トロン伯爵の領地でもお見かけしました」
「俺を?」
「正確には、王家の旗と近衛騎士団を、です。王太子殿下が滞在していると聞きましたので」
「そうか」
あの時、アルバート殿下があの街にいることは分かっていた。
けれど、それが私を追って来た結果だったとは思っていなかった。
「あの時も、私を探していらしたのですね」
「ああ。だが、僅かに間に合わなかった」
「……そうだったのですね」
「伯爵本人から、君がそこにいたことも聞いた」
「……あの方から?」
反射的に顔を顰めると、アルバート殿下の口元がほんの僅かに緩んだ。
「随分騒いでいた。君に屋敷を壊され、自分まで酷い目に遭わされた、と」
「人聞きの悪い」
「俺もそう思った」
「殿下?」
「伯爵の供述を確認したこともあるが、そもそも君は理由もなくそんなことをする人ではない」
何とも言えず、アルバート殿下を見つめる。
昔から、こういうところだけは変わらない。
私が何かをしたと聞いても、少なくとも理由もなくそんなことをするとは考えない。
それだけの信頼は、今も残っているらしい。
それにしても――
(……随分、お話しになるのね)
今日再会してから、アルバート殿下とは驚くほど会話が続いている。
以前なら、私が尋ねても短い答えしか返ってこないことも珍しくなかった。
それなのに今日は、自分から話し、私が何かを言えばそれに答え、また言葉を続ける。
目の前にいるのは間違いなくアルバート殿下なのに、どこか知らない方と話しているような、不思議な感覚だった。
「……レティシア」
「はい」
「まず、聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「君は今、どうしたい?」
「…………」
予想していなかった質問だった。
アルバート殿下が私をどうしたいのかではない。 私がどうしたいのかを、彼は聞いている。
「旅を続けたいのか」
「はい。少なくとも、今はまだ続けたいと思っています」
「……先ほど、リオネル殿に『元貴族』と名乗っていたな」
「はい」
「公爵家を出てから、家とは連絡を取っていないのか?」
「いいえ」
「では、自分が今どういう扱いになっているのかも?」
「存じません」
「……仮に、公爵家へ戻れるとして。君は戻りたいのか?」
すぐには答えず、少しだけ考える。
公爵家そのものが嫌なわけではない。
けれど、ようやく自分の意思で歩き始めたばかりなのだ。
今ここで以前の生活へ戻ることは、まだ考えられなかった。
私は静かに首を横に振る。
「今はまだ、戻りたいとは思いません」
「王都にも?」
「はい」
アルバート殿下はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
「反対なさらないのですか?」
「以前なら、したと思う」
「以前なら?」
「ああ」
アルバート殿下はすぐには答えなかった。
何かを思い返すように僅かに視線を伏せ、それから苦いものでも飲み込むように息を吐く。
「見つけたら、連れ戻すつもりだった」
「やはり……」
「だが、やめた」
「……え?」
「離れている間、ずっと考えていた。どうして君がいなくなったのか。俺が何を間違えたのか」 「…………」
すぐには言葉が出てこなかった。
アルバート殿下が、そんなことを考えていた。
その表情が、私には少し意外だった。
反対するのが当然だと思っていたし、少なくとも以前の殿下なら、迷うことすらなかったように思う。
「最初は分からなかった。ただ君を探して、見つけて、連れ戻せばいいと思っていた。王都へ戻れば、また以前と同じようにできると」
「……はい」
「でも、それでは駄目なんだと気づいた。……レティシア」
「はい」
「まず、謝らせてくれ。すまなかった」
「…………」
思いがけない言葉に、私は目を瞬いた。
アルバート殿下が、真っ直ぐに私を見ている。
「君がずっと俺の隣にいることを、当たり前だと思っていた。君が何を考えているのかも、何を望んでいるのかも聞こうとしなかった。それなのに、俺のことは分かっているはずだと勝手に思っていた」
「…………」
「フール子爵令嬢のことも、俺は間違えた。俺がどういうつもりだったかは関係ない。君に何も伝えないまま、あんなところを見せた。傷つけたのは俺だ」
あまりにもはっきりとした言葉に、私は何も返せなかった。
言い訳をするでもなく、仕方がなかったと理由を並べるでもない。
ただ自分が悪かったのだと、アルバート殿下はそう言っている。
そんな言葉を、この方の口から聞く日が来るとは思っていなかった。
「……ルーカスにも言われた。言葉にしなければ伝わらない、と」
「ルーカスが……?」
「ああ。俺はずっと、言わなくても分かってもらえると思っていたらしい」
そこでアルバート殿下は僅かに視線を伏せ、自分自身に呆れるように小さく息を吐いた。
「だが、離れて初めて分かった。分かっていなかったのは、俺の方だった。……本当に、すまなかった」
「…………」
何と答えればいいのか分からず、しばらくアルバート殿下を見つめていた。
「……ありがとうございます」
ようやく、それだけを口にする。
謝っていただけたことは、素直に嬉しかった。
もしかすると、ずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。
けれど――それで、あの頃の気持ちが戻ってくるわけではなかった。
「俺は君が何を考えているのか、聞いたことがなかった」
「…………」
「王太子妃になりたいのか。王妃教育が辛くないのか。俺の隣にいることをどう思っていたのか。君自身が何をしたいのかも。……全部、分かっているつもりだった。君なら大丈夫だと思っていたし、君なら俺が何を考えているのかも分かっていると思っていた」
そこで、ほんの僅かに自嘲するような笑みが浮かんだ。
そんな表情をするアルバート殿下を見るのも、初めてかもしれない。
いつだって自分の感情を表に出さず、何を考えているのか分からなかった方が、今は自分の過ちを隠そうともしていなかった。
「言ってもいないことを分かれという方が、無理なのにな」
「…………」
本当に、どうしたのだろう。
失礼だとは思うけれど、そう考えずにはいられなかった。
私の知っているアルバート殿下は、自分の考えていることをこんなふうに言葉にする方ではなかった。
「だから、これからは言うことにした」
「……何をです?」
「全部だ」
「全部?」
「ああ。思っていることも、望んでいることも。言葉にして、それだけじゃなく行動でも示す」
「……それを、私に?」
「君に」
「…………」
嫌な予感がする。
何となくそんな気がしていると、アルバート殿下は一度息を吸った。
「俺は、君が好きだ」
「………………はい?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
思わず、随分と間の抜けた声が出た。
「君が好きだ、レティシア」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
けれど、そうなると余計に分からない。
なぜ今、そんなことを言われているのだろう。
あまりにも予想していなかった言葉に、今度こそ何も返せなくなる。
「………えっと……いつから……?」
「ずっと前からだ。……君は覚えていないかもしれない。まだ幼かった頃、俺に言っただろう。『頑張ったのね』と」
「…………」
記憶を辿る。
幼い頃のアルバート殿下。
今よりずっと小さく、それでも王子として真っ直ぐ立っていた少年。
確かに、そんなことを言ったような気もする。
「あの頃、俺を見る人間は皆、同じような顔をしていた。可哀想だと。大変だっただろうと。そんな言葉ばかりだった。悪意がないことは分かっていた。でも、俺はあの目が嫌いだった」
「…………」
「君だけだったんだ。可哀想だと言わなかったのは。俺が生きて戻ったことを、耐えたことを、頑張ったと言ってくれた。……たぶん、あの時からずっと好きだった」
「…………」
そんなこと、知らなかった。
知るはずもない。
だって、アルバート殿下は一度だってそんなことを言わなかったのだから。
「では……アリスさんは?」
思わず尋ねると、アルバート殿下の表情が僅かに曇った。
「……フール子爵令嬢についても、俺は間違えた」
「…………」
「だが、それを君に言い訳するつもりはない。君が見たものも、君が傷ついたことも、なかったことにはできないから。……ただ、君にだけは知っておいてほしい。俺が好きだったのは、ずっと君だ」
胸が痛むだろうかと思った。
昔の私なら、どれほど嬉しかっただろう。
あの頃の私がこれを聞いていたなら、きっと泣いて喜んだに違いない。
けれど今、胸の奥を探ってみても、そこにあるのは驚きだけだった。
嬉しくないわけではない。
嫌でもない。
ただ――もう、遅かった。
「……アルバート殿下」
「ああ」
「私、もうあなたのことはどうでもいいんです」
静寂が落ちた。
アルバート殿下の表情が止まる。
けれど私にとっては、ずっと前から分かっていたことだった。
「嫌いになったわけではありません。恨んでいるわけでもありません。殿下が不幸になればいいとも思っていません」
「…………」
「むしろ、幸せになっていただきたいと思っています。でも、殿下が誰を好きになるのかも、誰と結婚なさるのかも、もう私には関係ありません」
これは本心だ。
以前は、ずっと気にしていた。
殿下が何を考えているのか。
嫌われていないか。
王太子妃として相応しくいられているか。
どうすれば殿下の負担にならずに済むのか。
そればかりを考えていた。
「もう疲れてしまったんです。だから、やめました。今は殿下がどう思っているのかより、自分がどうしたいのかを考えたいんです」
口にした瞬間、不思議なくらい穏やかな気持ちになった。
アルバート殿下は何も言わない。
私はその瞳を見返し、今度こそはっきりと告げた。
「ですから――もう、私に関わろうとするのはご遠慮ください」
「…………」
長い沈黙だった。
けれどアルバート殿下は目を逸らさなかった。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……分かった」
「ありがとうございます」
思っていたよりも、ずっと静かな返事だった。
帰ってこいとも言わない。
そんなはずはないと否定もしない。
「聞かせてくれて、ありがとう」
「……殿下?」
「今までの俺なら、きっと聞かなかった。だから、それでいい」
少し苦しそうに見えた。
それでも、アルバート殿下は私の言葉を否定しなかった。
ただ――
「でも、俺が君を好きでいることまでやめるつもりはない」
「…………はい?」
「これからは言葉にする。行動でも示す」
「いえ、ご遠慮ください」
「君は気にしなくていい」
「はい?」
「俺が勝手にするだけだから」
「…………」
それは何か違う気がする。
「……アルバート殿下」
「ああ」
「私、今、ご遠慮くださいと申し上げたのですが」
「聞いた」
「では――」
「だから、君に何かを求めるつもりはない。帰ってこいとも言わない。旅をやめろとも言わない。俺を好きになれとも言わない」
「…………」
「君は君の好きなようにすればいい。俺も、俺がしたいようにする」
そう言って、アルバート殿下は穏やかに告げると、ほんの僅かに笑った。
「今度は、勝手に分かってもらえると思わないようにするよ」
「…………」
やっぱり、何か違う。
それに――
(……本当に、アルバート殿下なのよね?)
思わずそんなことまで考えてしまう。
以前なら、一度の会話でこれほど多くのことを話すなど考えられなかった。
どうやら、私が知っていた頃のアルバート殿下とは、随分と変わってしまったらしい。
それが良い変化なのかどうかは、まだ分からない。
ただ、一つだけ言えることがある。
(……ご遠慮くださいと、申し上げたはずなのだけれど)
どうやら今度のアルバート殿下は、以前とは別の意味で少々扱いが難しいらしい。
読んでいただきありがとうございます!




