第64話 それぞれが辿った先
黒い術式が完全に消えたあと、私たちはひとまず人目のない場所へ移ることになった。
先ほどの男を逃してしまった以上、いつまでも庭園で話しているわけにもいかない。
それに、広間にはまだ同じ系統の術式がいくつも残されている。
リオンが近くにいた騎士を呼び止め、王城内の警戒を強めるよう指示を出した。私が感じ取った術式の場所についても伝えると、騎士は険しい表情で頷き、すぐに仲間を集めに向かっていく。
その間、アルバート殿下は少し離れたところに立ち、何も言わず周囲へ気を配っていた。
その姿を眺めているうちに、ふと不思議な感覚を覚える。
以前なら、こうしてアルバート殿下が黙っているだけで、私はその理由を考えていた。
何か気に障ることをしてしまっただろうか。
何かお話ししたほうがいいのだろうか。
殿下が何を考えているのか、きちんと察しなければ。
そんなことばかりを、いつも無意識に考えていた気がする。
けれど今は、不思議なくらい何も感じなかった。
(……変な感じね)
十年も婚約していた方と、こんな場所で再会することになるとは思わなかった。
驚きはした。
先ほどから聞きたいことだって山ほどある。
それでも胸が苦しくなることもなければ、以前のように殿下の表情一つ一つが気になって仕方がないということもない。
ただ、アルバート殿下がここにいる。
それだけだった。
「待たせたな」
声に振り向くと、騎士への指示を終えたリオンがこちらへ戻ってくる。
「ひとまず広間は騎士たちに任せた。術式が見つかった場所には誰も近づけねぇようにしてある」
「ありがとうございます」
「ただ、下手に触るなとも言ってある。あれをどうするかはあとで考えた方がいいだろ」
「ええ。その方がいいと思います」
頷くと、リオンがアルバート殿下へ視線を移した。
「で、話の続きだ」
「ああ」
アルバート殿下も短く頷く。
それから私たちは、庭園からほど近い小さな応接室へ移動した。
扉が閉まると、先ほどまで遠くに聞こえていた宴の音もほとんど届かなくなる。
室内には簡素な卓と椅子が置かれていたけれど、腰を据えてゆっくり話しているような状況でもない。
「まず、こっちが掴んでることから話す。が、その前に一つ言っとく。ヴァルガードには今、フィオーレとの戦を望んでる連中がいる」
アルバート殿下の表情が僅かに変わった。
「戦を?」
「ああ。表向きは何もしてねぇが、裏じゃ少しずつ動いてる。俺はそいつらが何を企んでるのか探るために、しばらく連中の動きを追ってた」
「……近づいていた、ということか?」
「まあ、そんなところだ。全部信用されてたわけじゃねぇけど、ある程度は中に入って情報を拾ってた」
そこでリオンは一度言葉を切り、僅かに眉を寄せた。
「その中で、フィオーレ側の水脈に手を加えたり、魔物を使って各地を混乱させたりする計画があることまでは掴んでた」
「…………」
「ただし、さっきの黒い術式みてぇなものは知らなかった。人から魔力や生命力を吸い上げるような話もな」
アルバート殿下の目が鋭くなる。
僅かに眉を寄せ、リオンの言葉を頭の中で整理するようにしばらく黙り込んだ。
やがて何かに思い至ったように、その視線をリオンへ戻す。
「つまり、戦を望む一派が起こしていた異変と、今夜見つけた術式は、少なくとも完全に同じ計画ではない?」
「そういうことだ。途中から、俺の知らねぇ何かが混ざってる」
「……なるほど」
「まあ、少なくとも俺が把握してた連中の仕掛けについては、こいつがほとんど潰してる」
「リオンさん、人聞きの悪い言い方をしないでください」
「事実だろ。水脈は戻すわ、魔物は倒すわ、石碑の異常は見つけるわ。連中からすりゃ、たまったもんじゃねぇよ」
「私は必要だと思ったことをしただけです」
そう答えると、リオンはどこか得意げに鼻を鳴らした。
「こいつがいる限り、そう簡単に好き勝手はさせねぇよ」
なぜリオンが得意そうなのだろう。
私が首を傾げていると、アルバート殿下は少しだけ黙った。
「……そうか」
「ああ」
「まあ、レティシアならそれくらいはするだろう」
「…………は?」
「昔からそうだ。本人は大したことをしたつもりもなく、周囲が頭を抱えるようなことを平然とやる」
「…………」
「今回もそうだったんだろう?」
「ええと……」
否定しようとしたけれど、リオンが先に深々と息を吐いた。
「……あんた、こいつの扱いに慣れてんな」
「十年の付き合いだからな」
「…………」
今度はリオンが黙った。
なぜだろう。
先ほどまで少し得意そうだったのに、急に機嫌が悪くなったような気がする。
「で。俺たちはフィオーレ側の森で地下施設を見つけた。そこで黒い術式と、さっき庭園に出たのと同じ魔力を確認してる」
「地下施設?」
「ああ。そこにいた連中の一人は、何かの術で幻覚まで見せられてた」
アルバート殿下の表情が僅かに険しくなる。
リオンはそのまま、これまで私たちが辿ってきた出来事を順に説明していった。
フィオーレ側で起きていた水脈の異常。
壊されていた石碑と、その周辺に残された不自然な痕跡。
以前にはいなかったはずの魔物が増えていたこと。
黒い靄に覆われ、明らかに通常とは異なる状態になっていた魔獣。
そして、森の奥で見つけた地下施設。
必要なところでは私も補足を加え、地下で見つけた術式について説明する。
「地下の術式へ浄化の魔力を流した時、その魔力が別の場所へ運ばれていくのを感じました」
「どこへ?」
「ヴァルガードの方角です」
「…………」
アルバート殿下はしばらく何も言わなかった。
何かを考えるように僅かに視線を伏せ、やがて納得したように小さく息を吐く。
それから、改めて私を見た。
「それで、この国へ来たのか」
「はい。それだけが理由ではありませんけれど、調べてみる必要はあると思いました」
「……そうか」
短い返事だった。
けれど以前とは違い、その言葉の奥に何かを押し込めているようには感じなかった。ただ私の答えを受け取って、考えているように見える。
「それで今夜、王城の壁に同じ系統の術式を見つけた。レティが言うには、何かを集めるためのもんらしい」
「おそらくは、です」
「さっき自分でそう言ってただろ」
「断定はしていません」
「細けぇな……」
その時、なぜかアルバート殿下の眉間にほんの僅かに皺が寄った。
また何か気になることでもあったのだろうか。
今日は随分と眉間に皺を寄せることが多い気がする。
けれど、尋ねるほどのことでもないだろう。
そんなことを考えていると、気を取り直すようにアルバート殿下が尋ねた。
「明日の本祭には、今夜よりも多くの人間が集まるんだな?」
「ああ。王族に高位貴族、それに武功のある騎士や各地の有力者も集まる。よほどの理由がない限り、一定以上の身分なら出席することになってる」
「魔力量の高い方も多いでしょうね」
私が口を挟むと、二人の視線がこちらへ向いた。
リオンは僅かに眉を寄せ、アルバート殿下も続きを促すように私を見ている。
私は先ほど見つけた術式を思い浮かべながら、考えていたことを口にした。
「貴族や王族には、比較的魔力量の高い方が多いです。もしあの術式が魔力を集めるためのものなら、本祭ほど都合のよい場所はないと思います」
「……それだけじゃねぇかもしれねぇけどな」
「ええ」
先ほどアルバート殿下から聞いた話が、嫌でも頭をよぎる。
トロン伯爵が見たという、人から何かを吸い上げる術。
その術を受けた者は徐々に痩せ細り、最後には骨と皮だけのような姿になって動かなくなったという。
もし、あれが魔力だけではなく――
そのとき、アルバート殿下が低く呟いた。
「生命力まで奪うものだとしたら」
「……可能性はあります」
口にすると、改めて背筋が寒くなる。
明日、この王城には数えきれないほどの人間が集まる。
しかも、その多くはこの国の中枢を担う者たちだ。
もし本当に、そのすべてから魔力や生命力を奪うつもりなのだとしたら。
「国王にすぐ報告する。少なくとも、あの術式が何なのか分からねぇまま本祭をやるわけにはいかねぇ。中止か延期を進言する」
「それがいいと思います」
「同行しているフィオーレの使節団には、俺から話を通す」
「助かる」
二人のやり取りは驚くほど早かった。
つい先ほどまで互いにどこか探るような目を向けていたというのに、国に関わる話になった途端、迷いなく必要なことを決めていく。
(やはり、お二人とも王子なのね)
そんな当たり前のことを考えていると、不意にアルバート殿下がこちらを見た。
「レティシア」
「はい?」
「……少し、話せるか」
「今ですか?」
「ああ」
その声音は静かだったけれど、事件について尋ねた時のものとは少し違う。
何だろうと思っていると、アルバート殿下はリオンへ視線を向けた。
「できれば、二人で話したい」
「…………」
リオンの眉が僅かに動いた。
けれど、何かを言うことはなかった。
「……分かった。俺は国王への報告とさっきの騎士どもの様子を見てくる。何かあったら呼べよ、レティ」
「はい」
「……何かってなんだ」
「はい?」
「いや、何でもない」
どうやら独り言だったらしい。
最近、皆さん何でもないことが多い気がする。
首を傾げている間に、リオンは扉を開けた。
けれど出ていく直前、一度だけこちらを振り返る。
その視線が私とアルバート殿下の間を行き来したような気がしたものの、結局何も言わないまま扉は閉じられた。
静寂が落ちる。
先ほどまで三人で話していたせいだろうか。
急に部屋が広くなったように感じた。
そして今さらながら、私は気づく。
――アルバート殿下と二人きりになるのは、一体いつ以来だろう。
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