第60話 気づかない手
後半視点変わります。
触れた手は、思っていたよりも温かかった。
流れ始めた音楽に合わせ、目の前の男性が私の手を取ったまま一歩を踏み出す。
私もその動きに合わせて足を運び――すぐに、僅かな違和感を覚えた。
(……あら?)
何かがおかしいわけではない。
むしろ、その逆だった。
とても、踊りやすい。
相手の手が僅かに動くだけで、次にどちらへ進めばいいのかが自然と分かる。
こちらが身体を翻すよりほんの少し早く腰へ添えられた手が動き、次の一歩を踏み出せば、まるでそれを知っていたかのように相手の足運びが重なる。
初めて踊る相手のはずなのに、呼吸を合わせようと意識する必要すらなかった。
(随分とお上手な方なのね)
感心しながら顔を上げる。
けれど、男性が身につけている仮面には特殊な魔法が施されている。
目元へ淡い影が落ちているうえ、髪も瞳も本来の色が曖昧になっていて、やはり誰なのかは分からない。
ただ、こちらを見つめていた男性の動きが、その瞬間だけ僅かに止まった。
「……?」
首を傾げると、腰へ添えられていた手にも、ほんの少しだけ力がこもる。
けれど、それも一瞬のことだった。
次の拍子には何事もなかったかのように力が緩み、再び滑らかな足取りで私を導いていく。
(どうしたのかしら?)
不思議には思ったものの、踊りそのものに乱れはない。
旋回に合わせて身体を翻せば、ちょうどいい位置に男性の手が待っている。
一歩近づき、また離れ、次の拍子で向き合う。
何度繰り返しても、不思議なくらい動きが噛み合った。
先ほど踊ったリオンも上手だったけれど、それとは少し違う。
リオンはこちらの動きを見ながら巧みに導いてくれているのだと分かるのに、この男性とは、まるで互いに次の動きを初めから知っているかのようだった。
(こういうこともあるのね)
相性というものなのだろうか。
そんなことを考えているうちに、曲の節目が近づいてくる。
周囲でも次の相手へ移る準備をするように、人々の動きが少しずつ変わり始めていた。
やがて最後の旋回を終え、男性と向き合った。
「ありがとうございました。とても踊りやすかったです」
「…………」
男性は何も答えなかった。
仮面の奥からじっと見つめられ、私は僅かに首を傾げる。
何か言いかけたようにも見えたけれど、結局その口から言葉が紡がれることはないまま、次の拍子が訪れた。
繋いでいた手が離れる。
「それでは」
軽く頭を下げ、私は流れに合わせて次の相手へ向かった。
けれど数歩進んだところで、なぜか少しだけ気になって振り返る。
先ほどの男性は、まだ同じ場所に立っていた。
すぐに別の女性が彼の前へ進み出たことで姿は人々の中へ紛れてしまい、私もそれ以上気にすることなく前へ向き直る。
(本当に、不思議なくらい踊りやすい方だったわね)
それからも何人かと相手を替えながら踊っているうちに、曲は少しずつ終盤へ近づいていった。
最初は見知らぬ相手と次々に踊ることを少し不思議に感じていたけれど、慣れてしまえば思っていた以上に楽しい。
相手によって足運びも導き方も少しずつ違い、同じ舞を踊っているはずなのに、そのたびに雰囲気まで変わって感じられる。
やがて楽団の奏でる旋律が大きく変わった。
周囲の人々が一斉に動き始め、それぞれ最初に組んだ相手のもとへ戻っていく。
私も人々の間を抜けながら、最初にいた場所へと向かった。
仮面のせいで誰が誰なのか分からないと思っていたけれど、近くまで戻ればさすがに見間違えることはない。
こちらへ向かって歩いてくるリオンを見つけ、私はその前で足を止めた。
「おかえり」
「まあ。ただいま、と言うべきなのでしょうか」
「知らねぇよ。なんとなくだ」
「そうですか?」
思わず笑うと、リオンは少し気まずそうに視線を逸らした。
けれどすぐに私の手を取り、再び流れ始めた音楽に合わせて歩き出す。
「どうだった?」
「とても楽しかったです」
「……お前、調査に来てること忘れてねぇよな?」
「もちろん忘れていませんよ?」
会場を回っている間も、黒い魔力の気配には意識を向けていた。
けれど今のところ、地下施設で感じたような不快な魔力は見つかっていない。
「ただ、せっかくですもの。楽しめるところは楽しんでもよいでしょう?」
「まあ、それはそうだけどよ」
「それに、面白かったですよ。踊る方によって、同じ舞でも随分と違うのですね」
そう言いながらリオンの手に合わせて身体を翻す。
すると、ふと先ほどの男性のことを思い出した。
「そういえば、とても踊りやすい方がいらっしゃいました」
「…………は?」
ほんの僅かに、リオンの足が止まりかけた。
けれどすぐに何事もなかったように次の一歩が続いたので、私は気にせず話を続ける。
「最初に交代した方です。本当に不思議なくらい息が合ったのですよ」
「……へえ」
「初めて踊ったはずなのに、次にどう動くのかが自然と分かるというか……ああいうこともあるのですね」
「…………」
「リオンさん?」
「別に」
何が別になのだろう。
先ほどまで普通だったはずなのに、急に返事が素っ気なくなった気がする。
不思議に思って見上げると、リオンは私から僅かに視線を逸らしたまま口を開いた。
「……俺は?」
「はい?」
「だから……俺とは踊りにくいのかよ」
「いいえ? リオンさんもとてもお上手ですよ」
「……『も』か」
「ええ」
「…………」
「どうしました?」
「なんでもねぇよ」
なぜか余計に機嫌を損ねてしまったらしい。
けれど理由を考えてみても、やはりよく分からない。
「リオンさんの方が、この舞には慣れていらっしゃるでしょう?」
「そういうことじゃねぇんだよな……」
「?」
「もういい。忘れろ」
「そうですか?」
「ああ」
よく分からないけれど、本人がそう言うのなら気にしなくてもいいのだろう。
私は再び周囲へ意識を向ける。
楽しげに踊る人々。
広間を満たす音楽。
揺れる衣装と、誰のものとも分からない仮面。
これだけ多くの人間が集まっているのに、やはり今のところ黒い魔力らしきものは感じられない。
(ここにはいないのかしら)
それとも、まだ気づいていないだけなのだろうか。
リオンに導かれながら、もう一度意識を広げてみる。
けれど、感じられるのは人々が持つ普通の魔力ばかりで、あの地下で触れたような不快なものは見つからなかった。
「……何か分かるか?」
私の様子に気づいたのか、リオンが声を潜めて尋ねてくる。
「いいえ。今のところは何も」
「そうか」
「もう少し見て回りましょう。まだ会場すべてを確認したわけではありませんから」
「ああ」
短く答えたリオンの手に導かれ、私はもう一度身体を翻した。
そのまま音楽に合わせて踊りながら、広間の向こうへ視線を巡らせる。
だから私は気づかなかった。
少し離れた場所から、仮面越しにこちらを見つめ続けている人がいたことに。
◇◇◇
見間違えるはずがなかった。
顔の半分が仮面に隠されていても、魔法によって髪や瞳の色が曖昧になっていても、そんなものは何の意味もなかった。
手を取った、その瞬間に分かった。
――十年。
物心がついた頃から婚約者として傍にいて、数え切れないほど同じ時間を過ごしてきた。
王城の舞踏室や夜会、式典で、何度あの手を取って踊ったのかなど、もう覚えていない。
僅かに指先へ力を込めれば、彼女は次の動きを察する。
旋回する前には身体の重心が僅かに変わり、こちらが手を差し出すより先に、その場所へ彼女の手が戻ってくる。
頭で考える必要などなかった。
彼女が次にどう動くのかを、自分の身体が覚えていた。
そして、それは彼女も同じだった。
何の迷いもなくこちらの動きに合わせ、昔と変わらない呼吸で踊っていた。
だから、最初は彼女も気づいたのだと思った。
けれど――違った。
『ありがとうございました。とても踊りやすかったです』
穏やかに微笑みながら告げられた言葉が、今も耳に残っている。
そこに驚きも、戸惑いもなかった。
懐かしささえなかった。
ただ、今夜初めて会った相手へ向けるような、何の含みもない笑顔だった。
呼び止めようとした。
けれど、声が出なかった。
今夜は互いの素性を詮索しないことが決まりだ。
たとえ相手が誰なのか分かったとしても、本人が明かさない限り口にしてはならない。
そんな決まりなど無視してしまえばいいと、一瞬だけ思った。
それでも、できなかった。
彼女が自分に気づいていないという事実が、それ以上何も言わせてくれなかった。
次の相手が目の前に立ち、差し出された手を取る。
音楽に合わせて身体は動いているのに、意識は少しもそこになかった。
次の相手と踊りながらも、人々の間を移っていく彼女の姿を目で追っていた。
ずっと探していた。
突然王都から姿を消し、どこへ行ったのかも分からなくなった彼女を。
公爵家にも戻っていない。
行き先を知る者もいない。
無事なのかさえ分からない日々が続く中で、それでもどこかで生きているはずだと探し続けてきた。
だから、この国でその姿を見つけた時には、最初は自分の目を疑った。
まさか、と思った。
それでも手を取った瞬間、その僅かな疑いさえ消えた。
――レティシアだった。
ずっと探していた彼女が、生きて目の前にいた。
そのことに安堵したはずだった。
ようやく見つけたのだと、胸の奥から込み上げてくるものさえあった。
なのに――彼女は、自分に気づかなかった。
十年という時間を共に過ごし、数え切れないほど手を取り合ってきたというのに、俺だとは少しも思わなかった。
やがて一巡の舞が終わりに近づき、彼女が最初の相手のもとへ戻っていく。
その先にいたのは、一人の男だった。
仮面によって素性は分からない。
けれど、彼女を待っていた男は、戻ってきたレティシアへ当然のように手を差し出した。
レティシアもまた、何の躊躇いもなくその手を取る。
そして、笑った。
アルバートの記憶にある彼女も、笑わなかったわけではない。
いつだって穏やかで、婚約者として相応しい笑みを向けてくれていた。
幼い頃には、もっと無邪気に笑っていたことだってある。
けれど今、あの男へ向けている笑顔は、そのどれとも少し違って見えた。
肩の力を抜き、何かを言われて不思議そうに首を傾げ、次の瞬間には楽しそうに笑っている。
王太子の婚約者として振る舞っていた頃よりも、ずっと自由に見えた。
「……レティシア」
誰にも聞こえないほど小さな声で、その名を呼ぶ。
もちろん、彼女が振り返ることはない。
仮面の魔法に本来の髪色さえ覆い隠され、やがて彼女の姿は踊る人々の中へ紛れていく。
それでもその姿から目を逸らすことができなかった。
ようやく見つけた。
ずっと探していた人が、確かにそこにいる。
けれど彼女の中で、自分はもう――手を取っても気づかないほど遠い存在になってしまったのかもしれない。
その事実だけが、胸の奥へ重く沈んでいった。
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