第58話 仮面の夜へ
差し出された手へ、自分の手を重ねる。
仮面に顔を隠した男性は何も言わず、流れ始めた音楽に合わせて私を導いた。
(……あら?)
一歩踏み出した瞬間、不思議な感覚を覚えた。
とても、踊りやすい。
相手の手が僅かに動くだけで、次にどちらへ進めばいいのかが自然と分かる。
こちらが身体を翻すより僅かに早く支える手が動き、足を運べば、まるでそれを知っていたかのように相手の動きが重なった。
初めて踊る相手のはずなのに、呼吸を合わせようと意識する必要すらない。
(随分とお上手な方なのね)
感心して顔を上げる。
けれど、男性が身につけている仮面には特殊な魔法が施されており、その効果で瞳も髪も本来の色までは分からなかった。
ただ――
私を見つめていた男性の動きが、一瞬だけ止まった。
「……?」
首を傾げると、腰へ添えられた手にも、ほんの僅かに力がこもる。
けれど、それも一瞬のことだった。
次の拍子には何事もなかったかのように、男性は再び私を導き始める。
(……どうしたのかしら?)
不思議に思いながらも、私はその動きに合わせて次の一歩を踏み出した。
◇◇◇
――数日前。
私たちはフィオーレの国境を越え、ヴァルガード王国へと入っていた。
ユアンとダリオは、一足先に王都へ向かっている。
地下施設へ出入りしていた者たちの足取りを追うため、リオンが先行して調べるよう指示したのだ。
初めて自分の意思で足を踏み入れたヴァルガードは、知識として知っていた以上にフィオーレとは違う国だった。
街道を行き交う人々の服装も、建物の造りも、町に掲げられている旗も違う。
何より目についたのは、剣を携えた人の多さだった。
騎士らしい者だけではない。
商人のような格好をした男性も、荷物を抱えた女性も、腰に短剣を下げている。
「アンナ、見て。あの女性も剣を持っているわ」
「本当ですね。フィオーレでは、あまり見かけない光景です」
「ええ。やはり実際に来てみると面白いわね」
私が思わず足を緩めると、アンナも楽しそうに辺りを見回した。
(本当に、武を重んじる国なのね)
王妃教育で何度も学んだことではあるけれど、実際に自分の目で見るのと、教本に書かれた文字を読むのとでは随分と印象が違う。
そんな景色を眺めながら進んでいるうちに、やがて前方に大きな城壁が見えてきた。
「……あれが王都ですか?」
「ああ」
リオンが短く答える。
巨大な城壁の向こうには、フィオーレの王都とはまた違う、重厚な造りの建物がいくつも見えていた。
けれど、それ以上に気になったのは――
「随分と賑やかですね」
王都へ近づくにつれ、人の数が一気に増えていた。
街道には馬車が連なり、門へ向かう人々の中には、色鮮やかな衣装を身につけた者も多い。
城壁にはヴァルガードの紋章が描かれた旗がいくつも掲げられ、その間を飾るように華やかな布や花が飾られている。
「もしかして、建国記念祭ですか?」
「……知ってんのか?」
「もちろんです。ヴァルガードの建国を祝う一大式典でしょう?確か三日間にわたって催され、初日の夜には前夜祭が――」
「待て待て。なんで他国の祭りの日程まで知ってんだよ」
「これくらい、貴族なら学ぶものではありませんか?」
「……そうなのか?」
「少なくとも私は習いましたけれど」
「…………」
なぜかリオンは黙り込み、探るように私の顔を見つめてきた。
何かおかしなことを言っただろうかと首を傾げても、その視線はなかなか外れない。
「なんです?」
「いや……お前が元貴族だってのは聞いてるけどよ」
「はい」
「たまに、元貴族ってだけじゃ説明つかねぇくらい妙なこと知ってるよな」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
「でも、知っていて困るものでもありませんよ?」
「そういう話じゃねぇんだよな……」
リオンは何やら納得がいかないようだったけれど、私は再び王都へ視線を戻した。
教本の中でしか知らなかった祭りが、今まさに目の前で始まろうとしている。
それだけで、胸の奥が少しだけ弾んだ。
「楽しそうですね、レティさん」
「……分かる?」
「もちろんです」
くすりと笑われ、私は少しだけ気恥ずかしくなった。
◇
王都へ入ったあと、私たちは人目を避けるように一軒の宿へ入った。
そこで待っていたのは、先に王都へ戻っていたダリオだった。
部屋へ入った途端、ダリオが立ち上がる。
「殿下」
「どうだった?」
「地下施設へ出入りしていた者たちについて、分かったことがあります。奴らのうち何人かが、王都へ入った可能性があります」
「王都に?」
「はい。建国記念祭に合わせて人の出入りが増えています。その中に紛れたようです」
リオンの表情が険しくなる。
建国記念祭ともなれば、国内だけではなく各地から大勢の人々が集まってくる。
これほど人が増えてしまえば、誰か一人を探すだけでも容易ではないだろう。
「行き先は?」
「そこまでは。ただ……今夜の前夜祭に出席する者の中に、連中と繋がっている者がいる可能性があります」
「前夜祭か……確かなのか?」
「いえ。まだ可能性に過ぎません。ただ、今夜は王都に有力者が集まります。それに――会場では互いの素性を明かさないのが決まりです。連中と繋がっている者が動くとすれば、これ以上ない機会かと」
「……確かにな」
二人の会話を聞きながら、私は今夜行われる前夜祭について思い返していた。
ヴァルガードの建国記念祭、その前夜。
王城では、身分や立場を伏せて交流するための仮面の宴が開かれる。
もちろん、誰でも入れるわけではない。
招かれるのは王族や貴族をはじめ、騎士や官僚、功績を認められた者など、あらかじめ身元の確認された者だけ。
けれど、一度会場へ入れば、その夜だけは身分を明かさない。
相手が誰であるかではなく、その人自身を見る。
血筋だけではなく、己の力で地位を掴むことを重んじるヴァルガードらしい風習だった。
「……行くか」
「前夜祭へ、ですか?」
「ああ。どのみち向こうが誰なのか分からねぇ以上、手掛かりは一つでも多い方がいい。――レティ」
「はい?」
「人が多くても、あの黒い魔力が近くにあれば分かりそうか?」
「そうですね……」
地下で感じた、あの黒い魔力を思い返す。
かなり薄いものではあったけれど、一度その感覚を覚えた今なら、同じものが近くにあれば気づけるかもしれない。
「はっきりとお約束はできませんけれど、地下で感じたものと同じなら、近くにあれば違和感くらいは感じられると思います」
「なら、来てくれるか?」
「もちろんです」
迷う理由もなく答えると、リオンが一瞬だけ黙った。
何か意外なことでも言っただろうか。
そう思って見上げると、リオンは僅かに目を見開いたまま私を見ている。
けれど、すぐに視線を逸らすと、誤魔化すように後ろ髪を掻いた。
「……即答だな」
「そのためにヴァルガードまで来たのでしょう?」
「まあ、そうなんだけどよ」
「それに、前夜祭にも興味があります」
「そっちが本音じゃねぇだろうな」
「どちらも本当ですよ?」
「……頼むから目的は忘れんなよ」
「分かっています」
「では、お支度をしなくてはなりませんね」
それまで黙って話を聞いていたアンナが、どこか楽しそうに口を開いた。
「お支度?」
「王城での夜会なのでしょう? まさか、そのお姿で向かわれるおつもりではございませんよね?」
「……駄目かしら?」
「駄目です」
迷う素振りすらなく即答されてしまった。
思わずアンナを見るけれど、にこやかな笑顔とは裏腹に、その目には一切の譲歩を許さない強い意志が宿っている。
(……これは、何を言っても駄目そうね)
「仮面をつけるとはいえ、正式な宴です。こちらは私にお任せくださいませ」
「アンナまで随分と楽しそうね」
「もちろんです」
なぜかアンナの瞳が、先ほどまでより生き生きとしているように見えた。
アンナが楽しそうなのは少し意外だったけれど、私自身も前夜祭に興味がないわけではなかった。
せっかくヴァルガードまで来たのだから、その国の文化を自分の目で見てみたいと思う。
もちろん、遊びに来たわけではないことくらい分かっている。
地下施設へ出入りしていた者たち。
人や動物を惑わせる黒い靄。
そして、ヴァルガードへ向かって伸びていた術式。
その手掛かりが今夜の前夜祭にあるかもしれないのなら、確かめないという選択肢はなかった。
それに――仮面の宴というものを、実際にこの目で見てみたいという気持ちもある。
(どんな夜になるのかしら)
そんなことを考えながら、私はすっかり張り切っているアンナを見て、小さく笑った。
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